養成塾ネット会員申込

養成塾に参加できない方でもネット会員になることができます。

塾の記録を読むことができ、また会員交流のページにアクセスできます。

申込は以下のフォームに記入して送信してください。

折り返し、会員のページにアクセスするためのIDとパスワードをお知らせします。

[contact-form 2 “コンタクトフォームネット会員”]

入塾申込み

期日:2009年6月~2010年3月(8月を除く)

月2回、土曜午後5:00~7:30

日程およびテーマはここを参照してください

合宿:日時 2009年12月25日午後~27日正午まで

会場 YMCAアジア青少年センター(東京都千代田区猿楽町2-5-5)

会費 20,000円

会場:東京・四谷、二コラバレ修道院1階会議室

(JR四谷麹町出口左前方徒歩30秒)

募集人員:35名(先着順)

参加資格:学校長の推薦のある者

締切:5月末

申込方法及び申込先:

下記の入力フォームに必要事項を記入し、送信してください。

申込受領後、受付完了の返信を致しますので受講料を振込んでください。


年間受講料:50,000円

(合宿費用は含まれていません。 合宿費用は別途徴収)

            (養成塾 事務局 北村司郎)


LHR で「自殺」について話し合ったことがあります

私が教員として働きだした1年目、今から20年以上前のことです。高1のあるクラスのロングホームルームに招かれました。テーマはなんと「自殺について 話し合う」というのです。あのころ、岡田何とかいう女性タレントの自殺の「後追い自殺」というのが頻繁に起きていたときでした。
いまでは、ロングホームルームでディスカッションをするというのが難しくなっています。ましてやこのテーマですることは考えられないことですが、あの時は大胆にもこういうテーマでの話し合いができたのですね。

生徒委員が二人司会をしていました。その司会者はいきなりこんなことをクラスの生徒にきいたのです。
「自殺したいと思ったことのある人は手を挙げてください」
生徒たちには「え!そんなこと、答えなければいけないの」とぎょっとした反応もありましたが、司会者たちはそういう反応をものともせずまた深く考えさせず に手を挙げさせるのです。まわりを見渡しながらおずおずと手を挙げた生徒が10何人か、3分の1くらいいたでしょうか。
司会者は続いて「なんで死のうと思ったのですか? 手を挙げた○○さん、答えてください」とまた大胆にも指名して聞いてきます。
さされた生徒は「え! 答えなきゃいけないの」といいながらも「大失敗をして人に迷惑をかけてしまったから死んであやまりたかった」と答えました。
では「○○さんは?」と冷静に事務的に次の人を指名します。「自分に絶望したから」という答えも出てきました。
「ほかの理由で死にたいと思った人がいましたか?」とまた聞きました。
「親にこっぴどく叱られて、死んでやると思った」とか「友人に裏切られてはらいせに」とかいう理由もあがりました。
司会者は「死にたいと思った人」にその理由を次々と聞いていきました。何となく答えることを拒否しにくい雰囲気があったので、みんなためらいながらも正直に答えていきました。
そしてこんなふうにまとめました。「死にたいと思った理由は、自分に絶望したタイプとだれかに思い知らせるために死んでやろうとする腹いせ型タイプがあるようですね。」私の記憶ではけっこう腹いせ型が多かったという印象が残っています。

そして続いての質問です。「今みんなが生きているということは、そのときは思いとどまったということですね。どうして思いとどまったのでしょうか?」とまた指名して答えさせました。
「死ぬのが怖くなった」という理由が多かったようです。
「親や友人に説得されて」というのもありました。
「自分が死んだらまわりの人がどんなに悲しむかを想像したら死ねなくなった」というのもありました。
「一晩寝たら忘れてしまった」とか「死んだらおいしいものが食べられなくなるんだと思った」と言ってみなの笑いを誘うのもありました。

最後に「先生はどう思いますか?」と聞かれて私は何を話したかをよく覚えておりません。おそらく、私は死にたいなんて考えたことがなかったので、正直にそう答えただろうなと思います。
今だったら「親友が自殺してしまったことにショックを受け、それを思いとどまらせなかった自分を責め続けて苦しんでいる例を出して、いかに家族や友人が悲しむか、それだけでなく深い傷を生涯負いつづけることになるか」を話しただろうと思います。
生徒の誰かが、涙ながらにそういう話を出したら、この話はそこで終わりになっただろうと思います。

この話し合いは、司会をしていた生徒たちが「あっけらかん」と半ば強引に質問して答えさせたところがよかったのかもしれません。教員の指導がよかったからというのではなかった、むしろ教員たちはハラハラしながら、話し合いの展開を見つめていただけでした。

このテーマでの生徒間の話し合いは、このとき一度きりでした。はじめに述べたように、今ではこういう話し合いはできないだろうなと思います。むしろ「自殺を誘引してしまう」とかいって危険視されるでしょう。私もこの話し合いを指導できる自信はまったくありません。
あのころはリストカットなんていう現象も見られなかったし、今の子どもはもっと複雑なのかもしれません。
でも、生徒たちは心のどこかで、こういう話し合いができることを望んでいるかもしれないとも思えるのですね。

「勉強」という言葉

中国語の漢字と日本語の漢字で意味が異なるものがけっこうあります。

いちばん有名なのは「手紙」中国ではトイレットペーパーを意味します。
「汽車」は自動車です。
「娘」は既婚女性です。
「愛人」は配偶者だったりします。
「改行」は転職するという意味だし、
「湯」はスープです。湯麺(たんめん)です。
「麻雀」は日本語です。中国語は「麻将」だとか。
「走」は中国語では「歩く」なのです。
「切手」は中国語では「泥棒」を意味するから驚きです。

前に「楓」や「柏」という漢字が示す植物が、日本と中国では違うということを紹介したことがあったようなきがします。

「迷人尓裙」はなんと「ミニスカート」だとか。「人を迷わす」のですね。「迷人」がミニに近い音だからという当て字だとか。

ところで中国人が日本語の漢字を見ていちばんびっくりするのは、「有難い」という言葉だとか。「難有り」と読んでしまう。それがなぜ「感謝」なのか。

「勉強」という言葉もびっくりなのだそうです。日本人は強制されて嫌々ながら勉強しているというイメージなのです。でもそういわれてみると確かに日本人は「強制されて」勉強しているのかもしれないので、あながち間違えではないのかもしれません。

私は教員をしていたときに、この「勉強」という言葉と「頑張る」という言葉を「禁句」にしてできるだけ使わないようにしました。
しかしこの言葉を使わないと生徒を指導するときや励ますときに困ってしまうのです。「学習」とか「学び」とか使っていましたが、「もっと勉強しなさい」と 生徒を叱責するときの迫力がないのですね。親が子どもに「勉強しなさい」というときもやはり「勉強」でないといけません。

イギリスに留学していた友人が、こんな話をしてくれたことを思い出します。
「何のために勉強するのか?」と聞かれたときに、日本人は「大切なことだから」「生きていくために必要だから」「社会に出て役に立つから」とか答えるのですが、イギリス人は「学ぶことが楽しいから」とか「おもしろいから」とか答えるのだそうです。

日本の子どもたちが「学びからの逃走」をしていると嘆いた教育学者がいましたが、子どもたちの「学力低下」の根本的な原因はこういう「勉強」にあるような気がするのです。

学びをとどめるために

昨年の「森林インストラクター講習」で教えられたことです。

学びをとどめるために

人は
聞いたことの10%
見たことの15%
見たり聞いたりしたことの20%
話し合ったことの30%
直接体験したことの80%
そして
教えたことの90%
を忘れずに心にとどめている。

教育とは人生のための準備ではなく
人生そのものです。
ジョン・デューイ

ということなのだそうです。
直接体験することは、心にとどまっているものです。
そして教えることがもっとも効果的な教わることなのですね。
この逆説とてもおもしろいと思いました。

(や)

卒業生を「教え子」と呼ぶことと自らを「先生」と呼ぶこと

8月24日の毎日新聞の投書欄に「『教え子』に変わる言葉を知りたい」という「無職 59蔡」というかたのものがありました。

この言葉はよく学校の教員間の言葉にも出てくるのですが、私にとっては使いたくない言葉の一つです。なぜなら「嫌み・尊大・高慢な感じ」を受けるからです。

私もこの言葉はたしかに「使いたくない言葉」です。私の教えた生徒の中には、有名なオリンピックのフィギアスケートの選手になった生徒もいましたが、彼女 は「教え子」などと呼ぶのはおそれおおくてできません。もちろん彼女が卒業生であることは「誇り」ではありますが……………。

そうしたら、9月7日の投書欄に、「教え子」投書に呼応して「『先生は』と私は一人称で言わず」という「ナチュラリスト 70歳」氏の投書がありました。

私は長年、小中学校に勤務してきましたが、子どもたちには「先生は」と一人称で言わないことを貫きました。
英語では先生は「一緒に勉強した○○さんです」と紹介するのが常と聞いています。
教員は長い人で38年勤務をします。その38年をどのように生きるかが、「教え子」と「先生は」に表れると考えます。

これには私も大賛成です。教員には生徒の前で自分のことを「先生」と読んでいる人が多いことも確かです。私もこの言葉はけっして使いません。
だいたい私は生徒の前でも同僚を「○○先生」といわずに「○○さん」と言うように勤めてきました。でもこれはなかなか難しかったです。
学校でないところたとえば教会などで、私のことを先生呼ばわりする人には「わたしはあなたを教えた覚えはない」と言って答えないことにしています。
生徒から呼ばれるのもあまり好きではなかったのですが、これはしょうがないかと思っていました。

群馬などで立派な仕事をされた斎藤喜博先生は「私を斎藤さんと呼んでください」と「未来誕生」のなかで述べています。

とその投書は結んでいました。さすが斎藤喜博さんですね。

William Arthur Ward の教育に関する格言から

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

凡庸な教師は、ただ話す。
良い教師は、説明する。
優れた教師は、態度で示す。
そして、偉大な教師は心に火をつける。

これは20世紀アメリカの哲学者であり、教育者であったWilliam Arthur Ward のことばである。

問題は最後の inspires だと思う。この言葉をなんと訳すか?
上の訳文では「心に火をつける」であった。この訳文も悪くはないが、次のような訳文もある。

並みの教師はしゃべるだけ、
良い教師は説明し、
優れた教師は手本をみせる。
卓越した教師であれば、生徒の心を刺激する

これも今ひとつである。demonstrate の訳は「手本を示す」というのはいいと思う。
私だったらこう訳すだろうか。

普通の教師はただ話す
よい教師はうまく説明する
すぐれた教師は自分でやってみせる
偉大な教師は生徒たちが自らやってみたくさせる

理科とか数学とかはこの訳が適当であると思うがどうだろうか?

ところで William Arthur Ward にはこんな言葉もある。これもなかなか含蓄の深い格言である。

Do more than belong: participate.
Do more than care: help.
Do more than believe: practice.
Do more than be fair: be kind.
Do more than forgive: forget.
Do more than dream: work.

所属するよりも、参加する。
心配するよりも、助ける。
心で信じるよりも、実践する。
フェアーにこだわるよりも、親切を実行する。
許すよりも、忘れる。
夢見るよりも、努力する。

これも4行目と5行目が問題だと思う。上の訳でいいのだろうか?

「カトリック学校に奉職する教職員のための養成塾」申込案内書

期日:2009年6月~2010年3月(8月を除く)

月2回、土曜午後5:00~7:30

日程およびテーマはここを参照してください

合宿:日時 2009年12月25日午後~27日正午まで

会場 YMCAアジア青少年センター(東京都千代田区猿楽町2-5-5)

会費 20,000円

会場:東京・四谷、二コラバレ修道院1階会議室

(JR四谷麹町出口左前方徒歩30秒)

募集人員:35名(先着順)

参加資格:学校長の推薦のある者(申込書に学校長の署名)

締切:5月末

申込方法及び申込先:

込書に必要事項を記入し、学校長の署名を受けた上で、下記にファックス番号宛てに送信してください。

ファックス番号 03-3353-7190

東京都新宿区若葉町1-22-12 男子サレジオ会本部・受付 橋本 恵子

ファックス受領後、受付完了の返信を致しますので受講料を振込んでください。


問い合わせ:042-375-1283(ファックス兼用)

東京都多摩市鶴牧5-29-2

北村司郎(養成塾事務担当 前日星高等学校校長)

年間受講料:50,000円

(合宿費用は含まれていません。 合宿費用は別途徴収)

下記銀行口座に振込んでください。

三菱東京UFJ銀行 多摩センター支店 普通

店番 591 口座番号 0055959

ヨウセイジュク ジムキョク キタムラシロウ

(養成塾 事務局 北村司郎)

「カトリック学校に奉職する教職員のための養成塾」の年間計画(2009年度)

日時         テーマ         講師(敬称略)

2009年セミナー

6月 6日(土)   今日の問題      河合 恒男(サレジオ会)

6月20日(土)   聖書の人間観     森  一弘(司教)

7月 4日(土)   聖書の人間観     森  一弘(司教)

7月18日(土)   キリストについて   河合 恒男(サレジオ会)

9月 5日(土)   キリストについて   梶山 義夫(イエズス会)

9月19日(土)   弟子・使徒職     土倉 相 (仙台白百合学園)

10月 3日(土)   教会における教育   梶山 義夫(イエズス会)

10月17日(土)   建学の精神(カトリック教育の多様性)

サレジオ学院・聖パウロ学園・聖セシリア女子・晃華学園

11月14日(土)   学校の使命      シスター杉田紀久子(幼きイエス会)

11月21日(土)   学校の使命      浦  善孝(イエズス会)

12月 5日(土)   生徒の成長

中尾 正信(聖マリア小学校) 濱田 正夫(聖園女学院)

12月25日(金)~27日(日)   合宿

場所:YMCAアジア青少年センター

2010年

1月16日(土)   宗教科・宗教行事   土屋 至 (宗教倫理教育担当者ネットワーク)

2月 6日(土)   学習・教科の位置づけ 瀬本 正之(イエズス会)

2月20日(土)   教職員養成      水嶋 純作(日星高校)

3月 6日(土)   まとめ   展望

養成塾世話人

代表 河合 恒男

梶山 義夫・シスター杉田紀久子・中尾 正信・齊藤 一子

講座開催中、欠席、遅刻される場合には下記のどちらかに必ずご連絡ください

事務局 北村 司郎携帯 090-9049-0145

ニコラ・バレ修道院受付 03-3261-0825

「カトリック学校に奉職する教職員のための養成塾」で何を学ぶか

カトリック学校のカトリックらしさの継承の危機を克服し、カトリック学校を、日本社会の中で生きる子どもたちに生きる喜びと希望の光を伝える、活力ある場とする為に、信念と情熱を持った教職員を養成する場が長らく待たれていましたが、この度、多くの方々の声を受けて、養成塾が発足する運びとなりました。ご参加をお待ちします。以下に学習の概要を示させて頂きます。

私たちはこの養成塾に於て、キリストの福音のより深い理解を求めつつ、現代社会の声に耳を傾け、そこにおかれたカトリック学校の使命を探ります。そしてその使命に応える力を学校が如何にして身につけていくかを考えます。更にこれらについて、お互いに話し合うことを通して、参加者がカトリック学校の担い手としての自覚を深め、力量を高めていくことを目指しています。

この趣旨に添うべく、以下のような項目を設けて学習していくことにしました。
<blockquote>1.現代の課題

2.聖書の人間観

3.キリスト

4.弟子・使徒職

5.建学の精神(カトリック学校の多様性の理解)

6.学校の使命

7.児童・生徒の成長

8.宗教科・宗教行事

9.学習・教科の位置づけ

10.教員養成</blockquote>
以上、直面している現実の諸問題を常に念頭に置き、分析しながら、聖書に、カトリックの伝統に、カトリック学校の伝統に光を求めます。共に祈り、考え、分ち合う中で、参加者に多くの気付きと希望が与えられ、そして参加者同士のつながりが、日本のカトリック学校を支える大きな力となっていけばと願っております。

「カトリック学校に奉職する教職員のための養成塾」の運営規則

1.目的:カトリック学校の担い手となる教職員の養成

2.企画・推進委員会:塾の企画・推進のために、推進委員会を設ける。
企画推進委員会は、カトリック学校教育に理解のある有識者たちによって構成する。
企画・推進員会の役割は、以下のとおりとする。
①塾の管理・運営の最終的責任を負う。
②随時、開催し、塾の基本方針に則った年間プログラムや企画などを作成する。
③塾の具体的運営・管理などの実務にかかわる世話役を選任する。
④その他、塾の運営発展に必要と思われる事項を検討する。

委員の任期は四年とする。再任を妨げない。委員長は、互選とする

3.世話役:塾の管理・運営のために、数人の世話役を置く。世話役の任期は三年とする。再任を妨げない。また、世話役は、必要に応じて、企画・推進委員会の開催を要請することが出来る。

4.事務局:専任事務局員を置く。世話役のもとに、塾の運営・管理に必要なすべての実務を行なう。事務局は、当面・・・・・・…に置く

5.塾の会期:各年度の4月から3月まで。

6.塾生の対象:カトリック学校に勤める教職員で、校長あるいは理事長などの推薦のある者

7.日時:基本的に毎月2回、土曜の午後5:00~7:30(八月を除く)

8.会費:参加者の自費負担(受講料、塾の運営・管理に必要な経費などを含む)

9.会場:四谷ニコラ・バレ会議室

10.年に数回、地方の教職員を対象とした研修などを企画する。

「カトリック学校に奉職する教職員のための養成塾」の基本方針

わたしたちは、この「塾」の基本的方針を、次のように定めました。

カトリック学校のアイデンテイテイの源泉としての聖書の学び
カトリック教会の歴史、教義などについての学びと世界のありようについての学び
学校の担い手としての人格力・チームワークを築くカ・管理能力などの学び
カトリック学校の教育の歴史とその多様性の学び

こうした基本的方針のもとに、プログラムを作成し、カトリック学校のカトリックらしさを深め、カトリック学校としての存続と発展に責任感をもって創造的に関わることの出来る教職員の養成に貢献したいと考えました。

私たちがこの学びの場を「塾」と命名したのは、松下政経塾などに触発されたからです。松下政経塾は、「日本はますます混迷の度を深めていく」と「日 本の危機的状況」を予見し、その難局を打開するためには「新しい国家経営を推進していく指導者育成が、何としても必要である」との思いから設立され、今日 までさまざまな分野に有能な人材を送りだすことに成功しております。

私たちも、これにインスピレーションを受け、カトリック学校のカトリックらしさの継承の危機を克服し、カトリック学校を日本社会の中で生きる子供た ちに生きる喜びと希望の光を伝える活力ある場とするために、信念と情熱をもった、ひとりでも多くの教職員を恭成する機関の設置が必要であると判断したので す。

人を育てることは、未来の希望の扉を開くことにつながる、と言われます。理事長・学校長の皆様方には、この「塾」の意図をご理解の上、希望に満ちた カトリック学校の将来を開いていくために、必ずしも将来の管理者として嘱望される教職員だけでなく、広い意味でカトリック学校の担い手として期待できる、 これはと思われる教職員を送ってくださるよう、お願いいたします。

初めての試みとして、学びの場を東京にします。学びの場を東京にしてしまうことから、通える教職員の地域は限られてしまいますが、ホームペニジなど を立ち上げ、その学びが、全国の教職員にも伝わるよう、工夫するつもりでおります。また地域の要望があれば、地域での集中的な学びの場の開催などにも応じ るつもりでおります。

また、私たちの試みは、財政的な基盤のないままの旅立ちになりますので、財政的な面でもご協力・ご援助をいただければ、幸甚です。

有志一同
大原 正義 ノートルダム女学院中学高等学校教頭
小 圷 洋 光塩女子学院初等科校長
斉藤 哲郎 カリタス女子中学高等学校副校長
土 倉 相 仙台白百合学園中学高等学校教頭
中尾 正信 聖マリア小学校校長
浜田 正夫 聖園女学院中学高等学校教頭
水嶋 純作 日星高等学校校長

梶山 義夫 イエズス会管区長補佐
河合 恒男 日本カトリック学校連合会理事長、サレジオ会
杉田紀久子 幼きイエス会管区長
森 一 弘 東京教区元補佐司教
                    アイウエオ順

注 「有志一同」とは、「カトリック学校の希望に満ちた将来のために効果的なプランを検討すること」を主テーマとして開催された第十六、第十七回 のカトリック学校校長・教頭の研修会の場で、参加者たちによって提案された事項の具体化のために積極的な協力を申し出た者たちとその相談相手となった者た ちです。

注 この『塾』の設立に関しては、カトリック学校教育委員会ならびカトリック学校連合会に諮ったものではないことを、明記させていただきます。た だし、その構想と内容に関しては、カトリック学校教育委員会の責任者池長大司教からは、肯定的に評価され、2009年の4月に開催予定のカトリック学校の 責任者である理事長・校長たちの集いで説明するよう

カトリック学校に奉職する教職員のための養成塾 設立趣意書

日本社会におけるカトリック学校教育の重要性を確信する私たち有志は、これからのカトリック学校の更なる発展を願って、この度、カトリック学校に奉職する教職員のための養成塾を設立することにいたしました。今、カトリック学校は転機を迎えているといえます。これまで日本のカトリック学校の大半は、修道会の使徒職・事業の一貫として位置づけられ、修道 会のカリスマによって活かされた会員たちが中心となって、支えられ、導かれてきました。創立者の高遙な理念に息吹かれた修道者や聖職者たちの存在は、教職 員たちを鼓舞し、教育の質を高め、地域社会からの厚い信頼と日本社会からの高い評価をかち得てきました。

また、その存在と働きは、日本のカトリック教会の掛け替えのない存在としてその発展を支える大きなカともなってきました。

しかし、残念なことに、修道会の会員の高齢化や召命の減少などから、修道会にとって、これまでのように学校の現場に会員を派遣し、会の使徒職とし て教育事業を支えていくことは、目に見えて困難なことになってきました。修道者たちの存在と働きが学校現場から消えていくことは、カトリックらしさを証し する力を弱めてしまう恐れのあるものであることは、否めません。またこれが、これまで修道者たちに協力し共に働いてきた多くの教職員たちにも深い動揺と将 来に対する不安を与えてしまっていることも、否定しがたい事実となっています。さらにまた悲しいことですが、すでにいくつかのカトリック学校が、一般社会 の経営母体に渡されてしまったケースもみられます。

事情がどうあれ、修道者たちの減少で、学校のカトリックらしさが希薄になるだけでなく、カトリック学校そのものが地域社会から消えてしまうことは、カトリック教会にとっても、日本の社会にとっても大きな損失といえます。

こうした事態を迎えて、ここ数年来、全国レベルの教職員たちの研修の場やカトリック学校の責任者である理事長・校長たちの集いでは、繰り返し、こ れからのカトリック学校の存続とありようについての不安が語られ、効果的な対策を要望する声が高まっておりました。そのなかで、共通して要望され ていたものが、修道者や聖職者たちの後を継ぐ教職員たちの養成でした。

こうした流れを受けて、私たち有志は、教職員の養成、特にカトリック学校の担い手として期待される融職員の養成こそ、緊急課題であると判断し、そのための「養成塾」を設立することにいたしました。

LHR で「自殺」について話し合ったことがあります

私が教員として働きだした1年目、今から20年以上前のことです。高1のあるクラスのロングホームルームに招かれました。テーマはなんと「自殺について 話し合う」というのです。あのころ、岡田何とかいう女性タレントの自殺の「後追い自殺」というのが頻繁に起きていたときでした。
いまでは、ロングホームルームでディスカッションをするというのが難しくなっています。ましてやこのテーマですることは考えられないことですが、あの時は大胆にもこういうテーマでの話し合いができたのですね。

生徒委員が二人司会をしていました。その司会者はいきなりこんなことをクラスの生徒にきいたのです。
「自殺したいと思ったことのある人は手を挙げてください」
生徒たちには「え!そんなこと、答えなければいけないの」とぎょっとした反応もありましたが、司会者たちはそういう反応をものともせずまた深く考えさせず に手を挙げさせるのです。まわりを見渡しながらおずおずと手を挙げた生徒が10何人か、3分の1くらいいたでしょうか。
司会者は続いて「なんで死のうと思ったのですか? 手を挙げた○○さん、答えてください」とまた大胆にも指名して聞いてきます。
さされた生徒は「え! 答えなきゃいけないの」といいながらも「大失敗をして人に迷惑をかけてしまったから死んであやまりたかった」と答えました。
では「○○さんは?」と冷静に事務的に次の人を指名します。「自分に絶望したから」という答えも出てきました。
「ほかの理由で死にたいと思った人がいましたか?」とまた聞きました。
「親にこっぴどく叱られて、死んでやると思った」とか「友人に裏切られてはらいせに」とかいう理由もあがりました。
司会者は「死にたいと思った人」にその理由を次々と聞いていきました。何となく答えることを拒否しにくい雰囲気があったので、みんなためらいながらも正直に答えていきました。
そしてこんなふうにまとめました。「死にたいと思った理由は、自分に絶望したタイプとだれかに思い知らせるために死んでやろうとする腹いせ型タイプがあるようですね。」私の記憶ではけっこう腹いせ型が多かったという印象が残っています。

そして続いての質問です。「今みんなが生きているということは、そのときは思いとどまったということですね。どうして思いとどまったのでしょうか?」とまた指名して答えさせました。
「死ぬのが怖くなった」という理由が多かったようです。
「親や友人に説得されて」というのもありました。
「自分が死んだらまわりの人がどんなに悲しむかを想像したら死ねなくなった」というのもありました。
「一晩寝たら忘れてしまった」とか「死んだらおいしいものが食べられなくなるんだと思った」と言ってみなの笑いを誘うのもありました。

最後に「先生はどう思いますか?」と聞かれて私は何を話したかをよく覚えておりません。おそらく、私は死にたいなんて考えたことがなかったので、正直にそう答えただろうなと思います。
今だったら「親友が自殺してしまったことにショックを受け、それを思いとどまらせなかった自分を責め続けて苦しんでいる例を出して、いかに家族や友人が悲しむか、それだけでなく深い傷を生涯負いつづけることになるか」を話しただろうと思います。
生徒の誰かが、涙ながらにそういう話を出したら、この話はそこで終わりになっただろうと思います。

この話し合いは、司会をしていた生徒たちが「あっけらかん」と半ば強引に質問して答えさせたところがよかったのかもしれません。教員の指導がよかったからというのではなかった、むしろ教員たちはハラハラしながら、話し合いの展開を見つめていただけでした。

このテーマでの生徒間の話し合いは、このとき一度きりでした。はじめに述べたように、今ではこういう話し合いはできないだろうなと思います。むしろ「自殺を誘引してしまう」とかいって危険視されるでしょう。私もこの話し合いを指導できる自信はまったくありません。
あのころはリストカットなんていう現象も見られなかったし、今の子どもはもっと複雑なのかもしれません。
でも、生徒たちは心のどこかで、こういう話し合いができることを望んでいるかもしれないとも思えるのですね。