第2回 福音書における人間理解と世界理解

先ず冒頭に森司教は「私の話を文章化するのはムリ」といわれた。講師の話を記録してホームページに載せるという役割をもっている私は言葉にハタと当惑して考え込んでしまった。

「レジメを載せるのはかまわない」「文責を明らかにしてその人の感想付きノート風にするならいい」ということなので、以下に書き記すことは私のきわめて主観的なノートになることをあらかじめことわっておくことにしたい。

つまり、以下の文章がなにか問題となったとき、その責任は講師の森司教にあるのではなく、この文章をまとめた私にあるのだということである。

前回の話しでは、人間を押しつぶそうとする仕組みや価値観のなかでそれでも生きていてよかったということを示すカトリックの価値観について話した。これまで聖書を読むのに、霊魂とか精神、肉体、永遠の世界とかという図式ではなされたことがおおかった。あたらしい視点から話してみたい。考えてみたらこれは単純。オバマさんの所信演説 アメリカと世界の現実をとらえた上でビジョンを投げかけている。現実を理解した上であたらしい希望を投げかける。神が人間に向けてなにかを投げかけようとしたときに。神から見た世界と人間の現実の認識があった。

今回は福音書に絞ってみる。福音書は4人の記者たちによってまとめられた。「福音」ということばがやっかい。キリストの生涯の物語を知らされた人たちは喜ぶだろうなという話。彼らはなにかを待っていた。そのなにかをつかまなければならなかった。それなくして救いはなかった。人間と世界の現実を理解すると言うことは待っているなにかを理解すること。
4人の福音史家の問題意識はそれぞれ違っていた。それぞれの福音書には、独自な人間理解・世界理解があった。

レジメ2-1
レジメ2-1

1. 冒頭の読み比べ
冒頭には著者の考えがよく表れる。
ヨハネ「はじめに言葉があった。」キリストを神のことばとして紹介した。
マタイ 1章の系図、2章で東方からの訪問者、ヘロデの残虐行為、エジプト非難、そしてガリラヤでの生活
マルコ 荒野で叫ぶ洗礼者ヨハネとそこに登場するキリスト
ルカ  洗礼者ヨハネと誕生を告げる。キリストの誕生までの系譜 ザカリアとマリアのお告げの違い 人間理解

レジメ2-2
レジメ2-2

2. マタイとルカの違い
1. マタイ2章のエピソード
ヘロデ王の時代 東方からの訪問者(占星術師) 幼児殺害事件 エジプトへの避難 ガリラヤへ
キリストが生まれたがゆえに幼児が殺された。母親と幼児にとってはキリストの誕生は呪われた。こういうくらい出来事を書いている神経。現実のありのままの悲惨さをそのまま描いた。
2. ルカの1章はまったく違う。「喜ぶ」という動詞がでてくる。「喜びなさい」「喜び踊る」くらい出来事はなくて神を賛美する。喜びがこだまのように広がっていく。不条理な人間の社会の現実に「喜び」をあてている。

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2. マタイとルカの違い
1. マタイ2章のエピソード
ヘロデ王の時代 東方からの訪問者(占星術師) 幼児殺害事件 エジプトへの避難 ガリラヤへ
キリストが生まれたがゆえに幼児が殺された。母親と幼児にとってはキリストの誕生は呪われた。こういうくらい出来事を書いている神経。現実のありのままの悲惨さをそのまま描いた。
2. ルカの1章はまったく違う。「喜ぶ」という動詞がでてくる。「喜びなさい」「喜び踊る」くらい出来事はなくて神を賛美する。喜びがこだまのように広がっていく。不条理な人間の社会の現実に「喜び」をあてている。

ルカの誕生はやさしさやよろこび、マタイは人間と世界の醜さや苦しみの強調
ちょうど子どもに対する親の態度の違いみたいである。
ルカの場合は「この世界の深いところで涙をこらえながら生きている人間に向かい、無条件に抱きしめる」親のやさしさを描く。
「ダブリン市民」クリスマスの夜、金婚式 おばあちゃんの涙をみたおじいちゃんの思い
人間の涙の奥にある悲しみに対して「無償に包み込む」愛の姿を描くのがルカ

4. マタイとルカの説教の違い
マタイ「小さなひとびと」いのちのとおとさ。世界の現実を認め、ひとりひとりのいのちをとおとぶ。
マタイ24/7 ひどい現実の指摘 最後まで堪え忍ぶものは救われる。剣ではなく愛での救い
ルカ21/7 自らを苦しむ人と同化する。

レジメ2-5
レジメ2-5

5. 山上の説教と平地の説教
マタイ 大群衆の前のキリストの所信表明
ルカ  人びとと同じ目線にたって、面と向かっている人にいっている。

レジメ2-6
レジメ2-6

マタイの5章
「心の貧しさ」旧約聖書ではアナウィン(虐げられた人、くずおれていく人、自分の人生を支えられない人びと、打ち砕かれた人の叫びに対して神は黙っていられない、そういう人を神は呼びよせる。
そのときのイメージと違う。
悲しみは心を裂く
愛しながらしか生きていけないのにそれが引き裂かれている状態。
「柔和」とはともに生きていく心 人と人とともに生きていく世界を作る。愛を引き込む。

レジメ2-7
レジメ2-7

福音書を書いたマタイにもルカにも共通して、現実に対して、苦しみや悲しみによりそい、そこに愛を吹き込むというキリスト教の人間理解が描かれている。

このような人間理解をもって、子どもと向き合ったときにこの生き方を示していくこと、ここにこそカトリック学校のチャレンジがあるのではないかと結ばれた。

森司教は参考文献として「聖書の言葉とキリストの言葉」という著書を紹介されていたことを付記しておこう。

小グループで

森司教の講演の後、参加者は5つのグループに分かれて、感想をはなしあった。そこで出てきた感想をいくつか拾ってみよう。

「4つの福音書の違いをあまり意識して読んだことがないので、こういう読み方は新鮮であり、勝つ刺激的であった。」

「教員はこのような話を聞くとすぐに自分のおかれた場においてこれはどのように当てはめたらいいのかを考える。不登校の生徒やドロップアウトしていく生徒のことが頭を離れない。そういう生徒にどう関わったらいいのかという問いかけにヒントが欲しい。」

「人間の痛みや苦しみに寄り添ってそこに愛を吹き込む」のがキリスト教教育の姿だといわれてその通りだと思う。ドロップアウトをしていく子どもたちをまえにしていつも『99匹と迷える1匹の羊』の話しを思い出す。1っぴきを探し回るときに他の99匹をそのままにしておいてよいのか、いつも悩んでいることである。」

「成績が追いつけなくて外に出さねばならない生徒たちを見て、高校にそのまま進学するのがその子の本当の幸せなのかと思ってしまう。そのこの痛みや苦しみに寄り添うということはどういうことなのか」

全体で

小グループからの報告が全体会でなされた。

「いろいろな見方の違いがありながら、ひとつの聖書として編集されていることには意味がある。学校教育現場での多様性を生かすということにつながるのではないか。」

「さまざまな個性をもつ生徒に愛をもって接していくということや、困難な中に神が現れて愛を与える、そこにこそ神がおられるという意識を持って、学校現場での矛盾に立ち向かいたい。」

「福音書の記者たちがそれぞれおかれた現実に立ち向かいながらビジョンをもって、聖書を記していったということがよくわかった。しかし、今の私たちにはおかれている現実と目指すべきビジョンとがかけ離れていて、重ね合わせて考えるまでに入っていないというのが現実である。この養成塾でそういうところを共同でできたらいいと思っている。」

これらの「報告」を聞いて森司教は次のように応えられた。

いくつかの学校で「生徒のプロファイル」づくりというのをされていた。つまり、学校を卒業するまでにどういう生徒になってほしいのかという目標を定めることを学校全体で行っていた。

しかし、それはともすると現実認識を欠いてしまい、入学案内にでてくるようなキレイゴトになってしまいがちである。子どもたちの背後にある日本社会の現実の中で生きている子ども・親・社会にたいする共通理解をもちながらのプロファイルであって欲しい。

ひとりひとりの先生方がもっておられる情熱や使命感、そして現実の社会に対する姿勢に信頼しながら、子どもたちの心の奥深いところにある望や願いへの理解が必要なのではないかと思う。

私の話が、皆さんの共通の問題意識を持つことのきっかけにしていただけたら幸いである。

森司教のお話しは参加者にとって、新鮮で刺激的な話しであったようである。それに対して参加者は自分のおかれた学校現場の現実と照らし合わせながら聞いている。この緊張が会場に感じられた。

参加者はまであちょっとカタイ感じでなかなかリラクスできる雰囲気にはなっていないが、しかしこの緊張も悪いものではないと思った。

(文責 事務局 土屋至)

第1回 人間の危機とカトリック学校の今日的なチャレンジ

今日は「養成塾」の第1回目である。参加者はスタッフを入れて40名くらいである。みんなどこか緊張した面持ちで参加している。

今回の講師は森一弘司教。当初はカトリック学校連合会の河合神父であったのだが、直前で変更になった。

森司教の話しは、この「養成塾」の趣旨の説明からはじまった。

今までは、カトリック学校には修道会があって、創立者の精神が学校の精神となって運営されてきた。しかし、修道者や司祭が減ってきており、このようなときに「カトリックらしさとは何か」という共通理解はない。それを見出していこうとするムーブメントがこの塾である。参加者は互いに刺激し合って、みんなで考えていきたい。今まで、先生方に本音、善意があっても、火花をはなち、形になるところまではいかなかった。具体案が出ても実現しなかったのがこれまでだった。2年前の全国カトリック学校校長・教頭研修会をきっかけとして生まれた塾、これからどうなるかは参加する皆さんの思いによっている、2年、3年と続いていけば大きな力になると信じている。

このような話しはこれまで何度も聞いてきた。しかし、だからどうしたらいいのかということについてはなかなか聞かれない。今回はそれが具体的に聞かれそうである。いや、結局これは自分たちで考えるしかないのかもしれない。ここはそういう場ととらえた方がよさそうだ。

この「養成塾」が、カトリック学校の校長・教頭研修会において有志の呼びかけからうまれていることにも期待が持てる。上から与えられるものではなく、カトリック学校の現場からのニーズに応える形で提起されているからである。

今回の森司教の話しの演題は「人間の危機とカトリック学校の今日的なチャレンジ」である。レジメを見ながらの説明だった。

レジメ1-1

この図では「人間として生きることを困難にする社会のシステム」を図解している。

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さらにこの図では、それに対する「教会共同体」「キリスト」「神」の価値観を対置させている。

この現代社会を支えている資本主義の論理と教会・キリスト・神の価値観とのせめぎ合いの中にカトリック学校も置かれているわけである。

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講師は「このせめぎあいの中でカトリック学校のもつべきアイデンティティと問題点がみえてくるのではないか」という「基本的な考え」を示された。

次に森司教は聴衆にある問いを投げかけた。

今の日本の社会に生まれてきて、幸せだなあと思う方はどのくらいいますか?

大変なことだなと考える方はどのくらい? 同じくらいですね。

ある国際的な修道会で話しをしたときに、多くの外国からの方は「日本は豊かで、子どもたちは幸せですね」という日本に対する印象を持っていた。

しかし、森司教は次のように応えられた。

私は、日本の社会が一番不幸かもしれないという話をした。先進国の中で、日本は自殺率がトップである。自殺率は人口10万人あたりの人数で比較している。1時間に3,4人もの人が自殺している。日本以外にはどこにもない。統計に上らない実際の人数や自殺未遂はもっとある。これは何なんだろうか?

続いて話しは、近代資本主義の論理についての説明に入った。

その論理は「迷惑の倫理」「自己責任の倫理」などを生み出しながら私たちの生きている社会全体を覆う。民主主義もその一環を構成しているし、企業や学校そして家族でさえもまぎれなくその論理のもとに包み込まれているという。

教育共同体もこの論理で侵されてしまっている。国家行政によって学校の教育の方針が決められ、乗せられてしまっている。結果として学校は、「国家に役立つ人材を派遣するシステム」に、知らないうちになってしまっている。この流れで、家族という共同体も汚染されてしまっている。親達はピラミッドの上へ子供たちを送り出すために準備する。家族の心までこの論理で蝕まれてしまった。人間の心や人間性を蝕むような論理が働いており、多くの人がもがいている。いつのまにか人間の心の空洞化、人間疎外が浸透していた。それが自殺率の増加という形であらわれている。

それに対置する「教会・キリスト・神の論理」がある。

上からの論理に対して、人間をささえようとする論理、人間の幸せを支える論理があるはず。カトリックの視点からは「神」がある。創世記の一章、神は人間を祝福している。神は人間の幸せを願っている。この祝福の中に人間の営みが始まっているということが明確。また、「一人でいるのはよくない」という言葉がある。一人では人生をまっとうできない。一人では「生きてきてよかった」という実感をもつことができない。一人では生きていくことの意味を見いだせない。「人と人との出会いは互いを幸せにするための出会いである」ということが聖書的では語られている。出会った他者を幸せにする役割が人間に与えられているという視点が聖書にある。幸せによりそっていく役割。神の「人間に幸せになってほしい」という願いの祝福で人間は始っている。

人間には二つの根源的な渇求、「生への渇求」、「幸せへの渇求」が基本にある。これらの渇求をどう展開するか? 物で幸せにするという視点だと資本主義になる。しかし、人間の中には身体性の部分の背後に「私」がある。身体性の部分は資本主義によって満たされることができるが、「私」の部分は満たされない。

新しくできた商店街で売っているものは「なくても生きていけるもの」。人間の深い心の交わりという視点はまったくない。売っている人の人間疎外や空洞化の犠牲の上に成り立っているのではないか。現代には、歯車としてではなく、能力でもなく、「役立つか役立たないというような視点とは全く違う視点」で人間が大事にされるということが必要である。

人間には、心への飢え渇き、柔らかな棘のないあたたかな心への飢え渇き、掛け替えのない存在として肯定されたいという飢え渇きが根っこにある。これに応えあうのが本来家族のはず。家族共同体の論理には、本来、時間の論理がないはず、みんなで・・・ということがあれば人間は生きていられるのだが、それが上からの力によって空洞化、家族の絆の希薄化が起きている。そうなれば、子供たちも落ち着きがなくなってくる。

この話の中で「出会った他者を幸せにする役割が人間に与えられているという視点が聖書にある。幸せによりそっていく役割。神の『人間に幸せになってほしい』という願いの祝福で人間は始っている。」という表現が、心に残る。「他者を幸せにする役割」「幸せになるという願いの祝福」教育はまさにこれに即結びつくだろう。しかし、教育が選抜と競争の機能を持つときに、教育は一部の人の幸福と多くの人の不幸をもたらしてしまうのではないかという考えが頭をよぎる。

「現代社会の直面する根源的な危機にあたって、このまま「資本主義の論理」に巻き込まれていっていいのか? カトリック学校は今どのようなチャレンジを求められているのか? それをこれからここで考えていきたい、一緒にチャレンジしていきたい、ここはそういう『養成塾』でありたい」と話しを結ばれた。

話しはまさに「序論」であった。その「序論」もいつも聞かされていることとそんなにかわりがない。しかし、この場がこれから定期的にもたれて、積み重ねていくという背景がある。いつもだと話しはここで終わってしまい、聞くほうに欲求不満が募ってしまうのだが、ここはちがう。これからがあるのだ。こういう共通認識のもとにこれから学び、分かちあいを積み重ねていくところから、なにかがうまれると期待させる「序論」であった。

この「序論」を参加しているカトリック学校の教員たちはどう受けとめたのか、がとても気になった。

このあと、10人くらいのグループに分かれての話し合いがあった。時間が短くて今回は「自己紹介」をひとまわりした程度で終わってしまったが、これからのこの「養成塾」への参加者の意気込みが少し伝わってきてうれしかった。

(文責 事務局 土屋)