第3回 福音書の世界理解と人間理解・・・ヨハネ福音書の場合

今回で3回目です。

講師は前2回に続き森司教。このような聖書の読み方は新鮮で「塾生」たちの興味をひいているようです。聖書に対するイメージも大きく変わった人も多いのではないかと思います。

森司教も「塾生」がこのような話しをどのように受け止めているのか、そこが気になられるらしく「私の切り口に対してとまどいもあるのではないか」と話しを始められました。そうだろう、この「切り口」は日頃から聖書の話しを聞き慣れているわたしたちでさえ、とまどいを感じずにはいられないような話しなのですから。

前回の話しでは「4つの福音書にはそれぞれの世界理解、人間理解がある」ということをマタイとルカの福音書を照らし合わせながら考えてみました。今回はヨハネ福音書に焦点を合わせて考えてみます。

まず4つの福音書の対照から

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マタイでは「この世界が人間の欲望と暴力によって悲惨な状況になっている、人間一人ひとりが踏みつぶされるような状況になっている、この世界の一番深い不幸の根っこにあるのは人間のエゴイズムだ、そこに愛を、そして生き方を吹きこもう、その必要がある・・・」という視点から人間を理解し、キリストを理解し、世界を理解している。

マルコでは、人間の大きな問題として、「生まれてきても生命が蝕まれていく」ということがある。病、災害、老い、死の中に飲み込まれていく・・・そういう視点からキリスト理解をしている。

ルカでは、「この世界に生きている人間はみんな涙を流しながら、我慢しながら生きている、人間はとても弱く、傷つきやすい存在だ、そういう人間にとって、あたたかくやわらかな愛に包まれる、それで癒されていく・・・」という視点がある。

ヨハネは、「交わりに飢え渇く人間」がいて、「それに応えるキリスト」という理解がある。

それは特に各福音書の冒頭表現されている。冒頭の読み比べをしてみるとよい。

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全体の俯瞰図を示した後に、ヨハネ福音書の特徴をいくつか上げられました。

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ヨハネ福音書では他の福音書にはないキリストの定義がたくさん出てくる。キリスト自身の口から出た言葉「私は○○である」ということが出てくる。「世の光である」「復活であり命である」「道、真理、命である」「私はぶどうの木である、あなたがたはその枝である」「神は愛である(ヨハネの手紙)」。ちなみに、他の福音書では「光」は「あなた方は世の光である」のように、「あなた方は」になっている。ヨハネでは「私は」であり、しかもその光が22回も出てくる。「命」は23回も出ている。これは他の福音書にはない表現、特徴。

「私は光である」というのは単純概念。反対は「闇」。「命」の反対は「死」。「真理」の反対は「虚偽」。「道」の反対は「混沌」、「混乱」。「愛」の反対は「エゴイズム」、「欲望」と言っていいのかもしれない。こういう定義がたくさん出てくるのがヨハネで他の福音書にはない。救い主としてのキリストが、光、道、心理、命、愛だとすれば、救われる対象としての人間は、闇の中で、ごまかし、偽り、虚栄などが混じっている、歩みも混沌としていて、愛も本来の愛というものには値しないものになっているのではないか・・・という理解がある。

このヨハネの「私は………である」というイエスの語調は、そのギリシャ語でもって「エイゴーエイミー」と呼ばれています。講師はこのことばを出しませんでしたが、聴いている私としては思わず心の中でその言葉を叫んでしまいました。

講師はこのヨハネの福音書が描く人間理解は現代社会の「生きているようで生きていない精神的枯渇」と同じような共通点を見いだします。オウム事件の中心人物の人間理解やフィリピン人の友人に朝8時の丸の内と夜9時の歌舞伎町を紹介した時の例を出してこれを説明されました。

またエゼキエル書の37章2節を参照し、「人間の社会を骨だらけにした」という表現と同じ「飢え渇く」と「信じる」という動詞形はヨハネ福音書を読み解くキーワードなのだそうです。ここはこの講師の話のクライマックスに当たるでしょう。ちょっと長くなるが講師の話しをそのまま読んでもらいたいと思います。

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「飢え渇く」と「信じる」という言葉と「命」のつながりをどういうふうに考えたらよいのだろうか。「信じる」という言葉には二つの使い方がある。「~ことを信じる」は事実を対象としている。「~を信じる」は人を対象にしている。例えば「アフリカ大陸の最南端にケープタウンがあるということを信じる」というのは事実を信じるということ。「死んだら天国があることを信じる」というのも事実を対象としている。こういうものをいくら信じても命とは関係がない。自分の変化にはならない。「あ、そう」で終わり。コロンブスが大西洋を横断して「新大陸があったよ」とスペインやポルトガルの人に言っても、直接触れることができないから「あ、そう」と言って、信じることだけしかできない。ところが、ヨハネが使っている場合は「信じる者は命を・・・」と「命」と結びつけている。これは何だろうか?というと、ここにヨハネの特徴がある。

ヨハネは「信じる」という動詞を88回も使っている。ヨハネのユニークさである。この場合の「信じる」を丁寧に見てみる。人間が、「信じられない」というときにどんなことになるかを想像してみる。

例えば、太宰治は最後に自ら命を絶ったが、彼の原点としてこんなことがあった。津軽の大家族で育った彼は、おばあさんにかわいがられて、毎晩一緒に寝ていた。ところが、お兄さんの結婚披露宴が実家で行われて、宴会が行われた日、いつものように彼はおばあちゃんと一緒に寝始めた、ふと夜中に目を覚ますとおばあちゃんがいない、探してみると、おばあちゃんは新婚夫婦の部屋を覗いていた・・・それが小説になっている。おばあちゃんが彼にとっては唯一の信じる拠り所だったのに、このことで不信感が出てきた。

また、彼の他の短編にこういうものもある。緑の麦畑があり黒い馬が疾走している。麦が踏みつぶされていく、そのあとを赤い馬が追いかけていく・・・それは父親と母親のシンボル。周りの麦畑は踏みにじられていく、そこに自分たちの心を壊していく両親の姿がある。「信じる」ということは人間の心のふるさとになりえる。絶対大丈夫と思うとそこに落ち着けるのだが、それがだめだと人間の土台がゆらいでしまう。「信じる」ということは「人間の心の大地」と言ってもいい。

夏目漱石は彼の母が四十過ぎて身ごもった子供だった。父親は「堕せ、いらない」と言ったが、母は産んだ。上に子供たちがいたので、彼は近くの金物屋にもらわれていった。ところが、金物屋夫婦よくけんかをし、その度に漱石は店先の籠の中に入れられた。その中で泣いていると、漱石の姉がかわいそうだと思って、家に連れ帰った。すると、父親は返してこいという・・・そういうことが繰り返された。とうとう金物屋夫婦は別れて、漱石は夏目家にもどされてしまった。漱石はどこに自分の身を置いてよいかがわからない。信じられるものが漱石には欠けてしまった。彼の作品の基本にはそういうものがある。「心」から始まって、彼の最後の「明暗」まで、どこに身をおいていいか分らないというものがある。子どもたちを見ていて、両親に対する信頼感がある子どもと、家族が混乱している子どもとでは心の落着きが違う。「信じる」ということにはそういうことがある。

講師の話はこの「信じる」というヨハネ福音書のキーワードをめぐってさらに続いていきます。「信じる」ということは人間の連帯の根拠であり、友情や愛の前提であり、希望の根拠であると述べています。

また、もう一つ、「信じる」ということは人間の連帯の前提になっている。例えば、北朝鮮が核ミサイルを開発して実験するとなると、日本の政治家たちはそれを利用して「我々を守らなければならない」と考える。信じられないと壁をつくることになる。満員電車に乗っていてもお互い最低限の善意を信じていれば肌を寄せ合っていても大丈夫なのに、そこにヤアさんっぽい、あるいは酒臭い人が来たら少し距離を置く。最低限の互いの信頼感があって、人間はつながっている。それが崩れると壁をつくってしまう。

また、「信じる」ことは友情、愛の前提となっている。「なぜあなたはそんなことをうちあけちゃったの?」「なぜ、あなたはそんなひどい男と結婚したの?」・・・「信じたから」・・・ということがある。信じるということは一番心の深いところまでさらけだして、相手に委ねてしまうこと。それで初めて、「人間の交わり」が可能になってくる。人間の人生の土台ができる。

もう一つは「信じる」は人間の希望の根拠になる。例えば、上野毛の教会にいたとき、駅の近くに交番があった。若いおまわりさんが来てほしいという。若い青年が自殺をした。「死んだら教会に連絡してほしい。洗礼を授けてほしい。」という遺書だった。行ってみると、この青年は信州から浪人のためにでてきていた。予備校の仲間はどんどん大学に入っていったが彼はだめだった。だんだんと競馬などをするようになり、最後は絶望してしまった。明日への可能性が信じられなくなって自ら命を絶った。私たちが生きていけるのは明日へつながっていく自分があると信じられるから。人間にとって「あと一年の命ですよ」とか言われたら大変。「仕事を辞めてくれ」などと言われると、明日への希望、可能性が信じられなくなり、人間はすごく苦しむ。

これらのどれ一つ欠けても、人間は悶々とする。「信じる」ということは人間が生きることの大前提。目的ではない。「人を信じる」ということの共通点には「絶対確かだ」という主観的な確信がある。無防備になる、ある意味、裸になる。投げかける、委ねる。これが「信じる」の定義。アラマイ語では「アーマン」という。赤ちゃんがお母さんの腕の中に抱かれている状態が「アーマン」。「信じる」ということの典型的な姿が、赤ちゃんとお母さんの姿にある。

実はこの「信じる」ことができなくなっている社会というのが、ヨハネのこの時代とそして現代との共通点ではないかと指摘します。その「信んじられない社会と時代」だからこそ、ヨハネのもうひとつのキーワードである「愛し合う」=「交わりを深める」ということと「交わりを深めるための言葉の力」が求められるといわれます。

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ヨハネが「信じる」という言葉を88回も使っているのは、「私」という人間が、一人では生きていけず、心をこめて自分を開き、相手も心を開いて、互いに交わらなければならないという捉え方をしていたから。「心は上の空」というのは、動かない状態。「うつ」とは心が開けなくなっているので動けない状態、人間が怯えて動けない状態。今、ひきこもりという人の数が100万人を越えていると言われている。学校にも行かず、仕事もせず、結婚もせず、家事労働もしない・・・親子の関係だけが、唯一の人間関係・・・しかもその親子の関係も怪しい。このような人が100万人もいるという日本の社会は異常ではないのか?どこかおかしい。人に仮死状態をもたらしている。人を信じられない、職場を信じられないという仮死状態とは、生きていても生きているとは言えない状態。

ヨハネの人間理解によれば、人が生きるとき、誰かを心から信じて相手もそれを受け入れてくれれば、ペルソナとペルソナが触れ合う、からみあう、交わる・・ということが起きるということになる。それこそ人間が生きている究極の意味である・・・というのがヨハネの捉え方。

ヨハネの中のもう一つのキーワードとしてよく出てくるのは「愛し合いなさい」という言葉。愛し合いなさいというのは「誰かのために尽くす」という風にとらえてしまうと行き詰ってしまう。「愛し合いなさい」というのはペルソナとペルソナの交わりのことを言っている。心を開いて、信じられる他者をみつけて、交わりの中に入っていく。これがあれば人間は生きていけるということ。ところが、世界には「エゴイズム」「欲望」「自分勝手」があり、一人一人も未熟だから、互いが交わり合おうとしても傷つけ合ったりする。軽傷、重傷、致命傷というのがあるが、ヨハネにとって致命傷とは「人間が恐ろしくなって心が開けなくなる状態」。

交わりができなくなったり、自分の中に引っ込んでしまった状態から、交わりを回復する道には何があるかというと、そこに「言葉」がある。ヨハネが冒頭に「言葉」をもってきたのはそういう意味がある。言葉によって、人は変わる。冷たい言葉には心を閉ざす。とげとげしい言葉には反発心が出る。立て前ばかりの言葉は頭の上を通り過ぎて行ってしまう。優しい言葉には心が開く。暖かい言葉には寄り添っていきたくなる。豊かな言葉、深い言葉には引き寄せられていく。言葉は交わりを育てるという意味をもっている。ヨハネはいきなりキリストを表すのに「言葉」をもってきたのには、人間が交わりに飢え渇いているし、なかなか交わりができない存在だという視点がある。

ある青年がいる。就職して一年目あたりにいろいろなことで苦しんでいる・・・悶々とする、自分を責める、そこで恩師を思い出して相談に行ってみようと考える。先生がじっくり聞いて、言葉をかけると、言葉は音の波長でしかないのに、先生の優しさが乗せられている、先生の命、人生経験が乗せられている。これで青年は変わる。これが言葉の力。ヨハネはキリストそのものを「神の言葉」にした。神の豊かさがキリストに乗せられて人々に与えられた・・・という形で福音書がまとめられている。

最後に森司教は、この聖書の人間理解は、哲学的人間理解とはことなり、この人間理解を持って現代の子どもたちを見たときにその違いが表れると述べて話しを締めくくります。

現代が抱えているいろいろな問題を照らしてくれると思える。これを学校の現場の中に生かせるか?競争社会、資本主義社会の中で生きる子どもたちに、このようなカトリックの精神をどのように融合していったらよいのか? それぞれのよって立つ立場や学校の状況によって大きく違う。

ある地方のカトリック学校では、公立高校を落ちた子供たちがコンプレックスをもっているので、傷を癒すために校長先生が一緒に食事をするという。一方、受験、進学を成功させながら、カトリック精神を吹きこもうとすると、それとはまったく別の状況になる。

しかし、共通しているのは、一生涯愛し合うということ・・・、一生涯かけて失敗を重ねながら、この精神で子供たちに向き合い、これを生き抜き、これを感じさせる・・・ということが必要ある。ここには、公式、方程式はない。現実のなかで具体的な道を探すのが課題であるだろう。

結論だけをいえば、結局「愛し合うこと」というありきたりの結論となったようにも思えますが、その結論に至る過程で、ヨハネ福音書の、世界理解・人間理解を例に出して現代との共通点を探し出そうとする論理展開は、改めてこう書き出してみるとみごとだなと思います。

聖書をほとんど読み慣れていないものにも、そして聖書をけっこう読み慣れているものにも、実は説得力のある話しであったように思えますが、いかがでしょうか。

ただ、話を聴いていた教員の立場に立って改めてこの話を読んでみると、まだとても抽象的で、原理原則の話しに過ぎず、現場にそくしたより具体的な話しへの欲求がますます強まったというべきでしょうか。

これからの話しへの期待がますます強まった感じです。

文責:土倉・土屋(文責は講師にあるものではありません)