第7回 教会における教育

梶山義夫(イエズス会)

1カトリック教会の使命を担う学校

「教会」というとまず、日曜日にいろいろな人が集まるいわゆる教会というイメージがあります。これを小教区と呼んでいます。しかし、教会は小教区だけではなく、幼きイエズスの修道女会などの修道会、パリ外国宣教会などの宣教会、神学校様々な教育機関、そして、多様な社会福祉施設があり、霊園や納骨堂もあります。

人の生涯の様々なところで教会が関わっているので、教会はとても多様な側面を持っています。特に教会の中での「教育」というと、古代では大人の人が洗礼を受けるための教育というものが行われていました。主に改宗のための教育、改宗した家族の子供たちへの教育というものが始まっていきます。教会にとっての大きな転換期は、4世紀のコンスタンティヌス大帝のときです。このとき、キリスト教はローマ帝国の宗教になっていきます。国教になり、たくさんの人たちがキリスト教の家庭に育っていくことになります。

続く中世の時代の教育センターの一つは、修道院です。ベネディクトゥスという人が修道規則をつくり、それにもとづいて修道院生活が行われていきます。これが大きくヨーロッパに広がっていくのが7世紀以降です。修道院に付属して学校がつくられていきました。主に修道者が教育を受けますが、周囲の人々も教育を受けていきます。

もう一つ、教区の中心にある司教座聖堂、カテドラルにも学校ができるようになります。神学だけではなく、様々な学問、古代からの教育の伝統を引き継いで教育が行われます。とくに有名なのは、12世紀にフランスのシャルトルのカテドラルに学校で、高度な教育が行われました。

13世紀からは、大学です。パリ大学、ボローニャ大学などです。

一般に私たちが言う学校ができるのは、ルネッサンスの時代15世紀ぐらいからです。ラテン語を教る、古典文学を教える学校ができるようになり、一般の市民の子どもが勉強をするようになりました。このような流れの中で、教会が積極的に教育に関わるようになっていきます。そのなかの一つがイエズス会です。イエズス会も最初は神学生の養成を行っていました。しかし、イタリアのシシリア島のメシナの市民から依頼を受けて、その町に学校をつくります。それからヨーロッパ各地にコレジオと呼ばれる学校をつくっていきました。

日本にもキリシタン時代に、コレジオができます。イエズス会だけではなく、様々な修道会を通して学校教育ができるようになっていきました。当時は、今で言う「中等教育」が盛んになっていきました。また、カリキュラムも整備されるようになりました。

中世以降カトリック教会にとって、教育は重要な要素になっています。教会として公教育を担うというのは、伝統的に重要な仕事なのです。

そこで、日本のカトリック教会はどのように考えているかということですが、「今、カトリック学校教育に求められること」という冊子をみてみましょう。

「日本カトリック学校としての自己点検評価基準」

1 教区長から、カトリック学校として認められている。

2 教区長との連絡が適宜行われ、小教区との相互協力も行われている。

3 学校法人理事会の構成ならびに運営方針が、カトリック学校としての存続と発展を約束する。

4 寄附行為、学側、就業規則、学校要覧等に、学校がキリスト教精神に基づいて運営されることが明記されている。

5 学長・校長・園長が、カトリック学校の理念と精神を保ち、それを実現するためのリーダーシップを発揮できる人である。

6 構成員が学校のキリスト教精神を尊重する。

7 教職員が、キリスト教の理念に基づいて一人ひとりの個性を尊重した全人教育を行おうとする積極的な意向をもつ。

8 教育活動の全領域で、キリスト教精神に基づいた人間育成がなされている。

これらについてどのようでしょうか、皆さんの学校について参考にしてください。

教会には様々な側面があります。日本全体のカトリック教会をまとめる組織として「カトリック中央協議会」があり、そこにいろいろな委員会が設置されています。この冊子も、学校教育委員会というのがあって、その委員長として池永潤司教の名前で出されています。学校の教育については、学校教育委員会だけではなく、他の委員会から文書が出されることがあります。

例えば、社会問題を扱う「日本カトリック正義と平和協議会」から、2001年2月20日には担当の大塚司教の名前で、「カトリック学校での日の丸・君が代・元号についてのお願い」という文書がカトリック学校に向けて出されています。

また、2001年5月7日には内閣総理大臣宛で「教科書検定合格に関する憂慮表明」という文書が出されており、これはカトリック正義と平和協議会だけではなくて、日本カトリック司教協議会の名前でおおくの司教が名前を連ねています。

2006年5月20日に、やはり内閣総理大臣宛で「教育基本法改訂案に反対する」と題した文書もあります。

ここに出ているようなことを学校は絶対視しなくてはならないということではないのですが、しかし、これらを重要な勧告として考慮に入れて学校長が判断してほしいと思います。

さて、なぜ教会にそんなにたくさんの要素があるのかという時に、「根本的に人間は多様な存在である、ひとりひとりの存在、社会も多様である」という理解があるからだと思います。

2 人間理解

人間には5つの側面が必ずあります。一つ目、人間は知的な存在です。知的な要素、理性があるという要素があります。また人間は情緒的な感情、喜怒哀楽、そういったものをもつ存在です。三つめとして、人間には倫理的、道徳的な側面もあります。人と人との関わり、社会性という面もあります。そして、最後に、非常に大切な側面として宗教的な側面があります。信仰とか希望とか愛の側面です。このような一つ一つの側面は、皆さんの学校が「『全人教育を行う』と言った時の中身は何か?」と問われた時、これらの基礎となる「身体性」とともに大切なこととなります。

人間はよく「霊魂と肉体からなっている」と言われます。しかし、聖書はこのような二元論をもっていません。ギリシャの思想にはあります。プラトンなどははっきり言っています。キリスト教にも影響を与えていますが、聖書のなかでは基本的には一元的な見方がされています。人間というものは100%魂で100%肉体である、100%心であり100%体であるという見方です。この教育をそれぞれの側面でやっていかなくてはいけません。それぞれの側面は影響を与えあいます。知的な発達は他にもよい影響を与え、社会的な側面の成長も他の側面に影響を与えます。逆に言えば社会性が極めて崩れていくようであれば、他にも悪い影響を与えるということです。そういう存在が人間です。

「意識の流れ」ということを考えると4つの段階に分けることができます。人間には根本的に無意識の世界あります。あと、意識の世界です。この中間にあるのが夢であったりするわけです。初めに出てくる意識は知的な意識、「これはいったい何なんだろう」「いったいこれはどういうことが起こっているんだろう」というような意識。それから倫理的な意識「私はこれに対し何をしたらいいのだろう」という意識。そして、一番上が信仰、希望、愛の意識、「私は将来どんな人になっていったらいいんだろう」「私の生涯はどんなものに賭けていったらいいのだろうか」とか「この人と結婚する」というような決断もこのレベルのものですね。「この信仰を貫いていく」ということや「教師としてこのような価値観で生き抜いていく」ということ、これもこの意識です。この意識は基本的に真理を目指し、善を目指していく、自分を向上させていく、本当の自分を形成していく、宗教者で言えば「神との関わり」ということになっていきます。全員教育というのはこれらの全体に関わっていくということです。

3 イエスの基本メッセージと教育

ひと月前の話で、私はイエスの中心的なメッセージとして、マルコの福音書の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という言葉を紹介し、イエスのすべての行いと教えはここに要約されているという話をしました。「悔い改め」というのは、「悪いことをした。ちょっと改めましょう・・・」ということではありません。よく「回心」と訳されます。英語ではConversionです。「生き方を完全に変えていく」あるいは「考え方の道筋を徹底して変えていく」ということです。カトリック教育というと言葉は悪いですが、「悔い改め教育」、「回心教育」と言ったらよいかもしれません。

◎教科指導

まず、「知的な回心」ということが重要です。いろいろなことを知らない、見えていない、偏見がある、誤解がある・・・その状態から、真理に向かっていくということです。「今、カトリック学校教育に求められること」の冊子に「なるべく信徒の教員を採用するとよい」というようなことも書かれていますが、教科を教えられない信徒の先生を採用してもしょうがありません。なぜかというと、これは、根本的にキリスト教の世界理解に基づいているのです。「すべての存在は被造物である」ということ、すべての善、すべての真理、すべての知識は「根本的に神が世界をつくった」ということに由来するので、知ること自体に価値がある。信仰をもっている、もっていないに関わらず、人がそれを知るのは素晴らしいことなのだ、そこに意味があるということです。

私達は小学校なら小学校、中学や高等学校ならそこで、知的な教育に力を入れていかなければいけないということなのだと思います。確かに、受験のテクニックなどということも教えていかなければならないとは思いますが、全体的に子供たちが真理に向かっていく、そういう教育がなされていくべきですし、真理に向かう教育のなかでで受験指導も十分にできると思います。私自身も世界史や倫理で受験指導をしてきましたけれど、その中で歴史の面白さとか倫理・思想を知っていく醍醐味などを伝えながら、大学進学の指導も着実にできると思っています。大切なのは「分かった」という喜びと「問いかけに答えることができた」ということ、また、「自分が分かっただけではなくて、他の人にもそれを伝えることができる」という、そこまで導くことが、知的な教育には求められていると思います。

◎生徒指導

もう一つは、生徒指導です。生徒指導の中での「回心」、これには、義務、「しなければならない」ということを深く理解し、そしてやることができるというところへ導いていくことが必要です。子供にはわがままなところや、好き嫌いがあります。それらを乗り越えていかなければならない・・・そのようなことです。

「道徳教育の研究」で学んだのはコールバーグです。この説はいろいろ批判を受けていますが、全体像としては有用な面があります。

子供は自分の欲求が満たされることを望んでおり、それが善であると考えます。次の段階は快・不快、利益・不利益ということを考えます。三番目の段階は「他の人との同調」ということです。「いい子にしましょうね」「そうか、僕はいい子だからこうしよう」とかそういう状況です。よりよい人間関係を維持するために立振舞ったりすることです。四番目にコールバーグがあげるのは「ルール」です。「ルールだから守る」ということ。五番目は「社会契約」です。お互いの契約を大切にして、誠実に生きていきましょうということ。六番目にあげるのは「良心の声に従う」あるいは、「普遍的な善を目指していく」こういう段階だということです。子どもは成長していきます。確かに小学校1年生と高校生の指導は大きく違います。成長段階に従っての指導が必要です。

これらの生徒指導の中で重要な役割を果たすのは、「校風」です。よく挨拶をするとか、掃除が行き届いているといった学校があります。とても「校風」を常に素晴らしいものとして展開する必要があります。

校則も、とても大切な意味があります。まず、校則はよくできていなければいけません。成長段階に応じてバランスがとれたものである必要があります。基本的に、「良いこと」。「しなくてはいけないこと」があるということに気がつくという要素、校則が設定されることによって、子どもが自分たちの内面性、弱さに気が付いていく、葛藤が生じ、自分や他の人の内面に気付く機会を与える要素があります。拘束をめぐって、個人的な指導ができる契機を作る面もあります。他に、子どもの社会性を高めていくという要素もあります。

◎担任指導

次は、担任指導です。ホームルームの指導を通して、子どもが「ここにいていい」と感じ、居場所を見つけられる、安心感を与えられるということが重要です。子どもはさまざまな傷や劣等感を持っています。その子どもに対して、担任は「あなたがここにいることは素晴らしい、私の喜びである」というメッセージとして出していく必要があります。教科の方でうまくいかない子は必ずいます。クラス担任が教科担当と同じ接し方をしていてはうまくいきません。家庭と連絡をとりながら接していくことも大切です。

入試で入ってきた生徒たちに対してオリエンテーションで、新入生が「ここにいていいんだ」と肌で感じ取ることが必要だと思います。偏差値で進む学校を薦められてきた生徒は、偏見をもっていたりします。学校で受け入れたからには、学校全体がその子が入ったとことを喜んでいるということを示すことが大切です

◎部活指導 行事指導

部活動、行事ということも非常に大切です。部活動には、目的があります。目的を達成するための努力、そして達成した時の喜び、あるいは一緒にチームを組み、互いに切磋琢磨していく喜びを子どもが経験していくというのは非常に重要だと思います。

また、行事で、クラスや学年などで責任を担っていくという経験も大きな価値があると思います。週5日制になって、学校によっては、学校行事を減らそうということもあるかもしれませんが、やはり学校行事は大切な教育の場だと思います。

◎心のケア

傷つけられている、怒っているという状況から、希望や喜びに回心していく教育です。教師一人ひとりが生徒の心のケアができることも必要ですが、学校全体として心のケアのシステムが必要です。学校カウンセラーをただ置くだけではなく、その運用のシステムを学校全体で確認しなければあまり意味がありません。

学校全体で心のケアをするというのは、かつてのカトリック学校では一つの大きな特徴でした。指導司祭がいて、ゆるしの秘跡を受ける時間が確保されていました。内面の問題について司祭に指導を受けていたわけです。カウンセリングとは少し違いますが、このようなことを通して心のケアが行われていました。

日本ではカトリック信者がそう多くはないですが、カウンセリングの位置づけにおいて、このようなカトリックの伝統をどう生かしているかというような視点で考えていくこともいいのではないかと思います。

4 カトリック教育のいくつかの特徴

学校全体がどこへ向かっているのかということが大切だということが分かります。学校全体が悔い改め、回心の道を歩み続けなければなりません。根本は建学の精神です。イエズス会では、16世紀末にできた学事規定はもう廃止されて、現代は、1980年代にローマで出されて、いろいろな国で訳されている「仕えるために~イエズス会教育の特徴」(ドン・ボスコ社)が、中等教育の原点です。私達の教育の原点、基準は何かということは、いつもここに立ち返り、この基準に照らしてどうなのだろうか、どのように評価でき、どこが足りないのだろうということを考えていきます。皆さんの学校にとっても建学の精神に立ち返ることが大切なはずです。学校によっていろいろな特徴があるでしょうから、それぞれを生かしてくだされば思います。

建学精神について、カトリック学校に共通したいくつかの特色があります。キリスト教の基本的な理念に基づいているものです。

「創造にもとづいている」、「一人一人には決定的な価値がある」ということです。

また、真理、知識に向かっていくときに、真理を教師が学び、生徒に伝達していくという関係だけではなくて、生徒と教師が同じ地平に立ちながらともに真理を目指していくという関係が大切です。学校とは、教師と子どもたちの知的な探求の中に真理が生まれてくるという、真理をめぐるダイナミズムが展開する場です。この関係は、生徒指導であれば善を巡るダイナミズムです。教師と生徒という上下関係も大切ですが、同じ地平に立って、相互の関わりの中で善、真理が生まれてくるのではないでしょうか。この点でも、一人ひとりを大切にするということが重要なのです。

罪という考え方が重要です。罪の影響のために個人、社会、文化などの自由が束縛されます。回心は自由に向かっていくということ、これが聖書の根本概念、聖書が生まれた根本的なきっかけでもあります。エジプトの奴隷が自由になっていく、バビロンにとらえられた民が解放されていく、自由を束縛するもの、自分のわがまま、エゴ、執着から解放されていく、自由になっていくということが大切なのです。

そして、生涯教育ということです。「18歳のプロファイルが大切だ」ということで、いくつかの学校でプロファイルが作成され、教育現場で活用されています。最近、28歳くらい、つまり高校を卒業して10年くらいたってからどんな人になっているのかということが重要なのではないかと思い始めています。二十代の終わりに、その学校を出た人がどのようになっていてほしいのかというようなことも考えなくてはならないのではないかと思います。

イエズス会では「他者に仕える人」、“Man and Women for others with others”という言葉がモットーになっています。アルベ総長が40年くらい前にバルセロナであった全世界の同窓会の場で講演し、「私達の教育、イエズス会の教育は本当に社会の中で他者に仕える人、正義を促進する人を育ててきたのだろうか?」という問いに「いいえ。本当に貧しい人たちを優先するような教育を配慮してこなかった。これからも教育をしていくのであれば、もう一度真面目に考えないと意味がない」という内容の発言をして、世界の同窓会の会長が辞任してしまうということがありました。

今、カトリック学校のモットーなどをみていると、世界の全体をみて貧しい人や苦しんでいる人を視野に入れて教育をしているところが多いのではないかと思います。そういう点でずいぶん変化があったと思います。人間の信仰、希望、愛を育てる学校教育も当然必要です。

同時に本当に建学の精神を今日の状況のなかで、創造的に展開しているか、常に振り返る必要があります。

*分かち合いでは各学校の具体的な行事や指導方法なども話題になり、カトリック学校の特徴をどのように教育活動で実践していけばよいのかを意識しあう、よい機会となった。共通点をもつカトリック学校の建学の精神だが、個々の学校の特徴という面も重要であり、これについては次回に扱うこととなる。

第5回 イエスキリストについて 梶山義夫神父

今回のテーマも前回に続きイエス・キリストです。ただし講師はイエズス会の梶山神父です。前回と比較してみて、二人の講師の話の共通点と違いを意識することができたら、この講演の目的は達成されたといってもいいかもしれません。

ナザレのイエスあるいは歴史のイエスという見方

イエスを知るには4つの福音書しかありません。福音書に描かれているイエスは、史実なのかと問われることがあります。 今日はマルコ福音書からいくつかの個所を読みながら、イエスの姿を探求したいと思います。

マルコ福音書では、いきなり大人のイエスが現れます。イエスの誕生の記述はありません。また、マルコは16章からなっていますが、16章9節以下は、古い写本にはなかった、つまり復活したイエスが現れるという場面がなかったということです。

イエスという方はどういう存在なのか?

マルコ福音書のなかで、印象的なイエスのイメージの一つは、「祈るイエス」の姿です。

マルコ1章9~11節には、いきなり大人の姿で現れて、ヨハネから洗礼を受けたという話が出てきます。「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」天をからの声を聞くということは、祈りの大切な要素です。「心に適う」と訳されている言葉は、「喜ぶ」という意味も持ちます。つまり「私が喜ぶ者」という意味です。私は、ここで、イエスは自分だけではなく、すべての人一人ひとりが神から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、心の喜び」と呼びかけられていることを悟ったのではないかと思います。

6章46節には、群衆と別れてから祈るために山に入られたと書かれています。

一人でいること、沈黙していることが祈りの基本だということを示しています。現代人にはこれが難しくなった、一人での沈黙のエクササイズは現代人にも是非必要なのです。

ゲッセマニのイエスの姿を描いたところでは(14章32~36節)、イエスが逮捕される直前でのイエスの祈りについて書かれています。

イエスは父なる神に「アッバ、父よ」ととても親しく語りかけます。ここは「私の愛する子」と洗礼のところで呼ばれたことと呼応しているでしょう。当時、子どもは父親から出て、母親の胎内で大きくなって、生まれ出ると考えられていました。神を「お父さま」と呼びかけることは、人が直接神から生まれ出るという意味です。イエスだけではなく、すべての人が直接神から生まれ出たのです。神を父親として表現することは、現代の男女関係からすると抵抗があるでしょう。しかし、一人ひとりに対する、神の「おやごころ」を聖書は強調しています。

十字架上の祈り(15章33~37節)で、イエスは「エロイ、エロイ、レマサバクタニ」と叫び、さらに大声を出して息を引き取ったとあります。

祈りの基本は苦しみの中の叫びにあります。祈りとは、自分の苦しみの表明できる場なのです。神はどのような苦しみの叫びをも聞き入れる存在です。しかし、私たちも自分の苦しみの叫びだけではなく、他の人々の苦しみの叫びに敏感なのかが問われます。また、他の人のために祈るとは、他の人の苦しみに共鳴し、行動を起こすのでなければ意味がないでしょう。人間には祈る能力がありますが、現代人はその能力を十分に養っていません。

イエスの教える姿、つまり教師としてのイエスをみましょう。

「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章14~15節)これはイエスが宣教を始めるときの第一声です。

ここでは「罪のゆるし」が語られています。罪の概念は重要です。

罪という言葉は、「矢が的を射ていない」という意味からきています。歩むべき道を歩んでいないということでしょう。一人一人すべて罪人であり、どこか歩むべき道を歩んでいないということに気づくかどうか。道徳的な倫理観を喪失しがちな私たちは、誰もが自分の目標を見失い、また自らの罪を見ようとしないいわば「目隠し構造」のなかに生きているのかもしれません。

「悔い改め」をしめすメタノイアというギリシャ語は、「考える道筋を変える」ことです。

悔い改めというと、悪い点だけを反省するという感じですが、まず大切なことは、自分がいかに多くの人々から実際に大切にされてきたのかを思い起こすことから始めます。「内観」の方法は学校現場にも使うことができます。罪を自覚するのは、いかに愛された存在であるかを気づくときなのです。

内面に入っていくだけでなく、逆に外に出て行く。しんどい思いをしている人と出会う、生徒を釜が崎に連れて行くと、ある生徒はそこで自分の愚かさに気づく。これも回心のきっかけになります。

イエスはたとえ話で「神の国」について説かれた。

「種まきのたとえ(4章1~9節)」で「よい土地に蒔かれた種」だけが、複数形です。農夫の働きは、さまざまな失敗や困難があっても、豊かな実りという形で報われるということを示しています。

これらのイエスのたとえ話をどういう状況で共同体は聞いているか、を意識してみてください。

あちらこちらで迫害されている中で福音を述べ伝える、それは必ず豊かな成果という形で報われるということを示していることになります。私たちの教育も同じです。

マルコには「病人をいやす、悪霊を追い出す(1章29~34節)」という話が多い。マタイはどちらかというと教師であるイエスを示しているのに対して、マルコは「癒す人」です。

「癒す」というギリシャ語の言葉は「テラピー」の言葉の語源となっています。癒すというよりも、献身的に手当をする、看病をするという意味で、直接関わって接していくということなのです。手を取って起こす、汚れている人に触れていく、つまり苦しみを共有していく行為によって、人が変わっていくのです。

私たち一人一人の幸せを阻む原因が自分の中に働いている、それは「悪霊の働き」です。良いものを選んでいくことは、悪霊を追い出す行為であり、善霊にゆだねることなのです。子どもたちが生活の中で何を具体的に選ぶのかは、重要です。その成長を促すための選びを助けることは教師に求められることなのです。

片手の萎えた人についてです。(3章1~6節)

その人は会堂の隅にいました。苦しむ人こそ、真ん中にいる存在であると考えて、真の中に出るように言いました。安息日のルールをイエスが守るかどうかに注目している人々に対して、イエスは「怒る」。怒りも場合によって教育の現場で必要です。

イエスは自分が実行するだけではなく、弟子たちを養成します。

3章1~6節は、弟子たちを選ぶ場面です。使徒とは「遣わされるもの」です。カトリック学校の教員はこういう観点から見ると、皆「使徒」なのです。宣教するとは神の国の福音をのべつたえることですが、それは子どもたち一人一人が愛される存在、喜ばれる存在であることを、自分が子どもたちを愛して証明していくことです。

マルコ福音書では、イエスは弟子になるために必要なことは3つあると述べています。「十字架」、「仕える者、しもべ」、「幼子」というイメージです。

まず、自分の十字架をになうことです。(8章34~35節)自分に担うことができない十字架はありません。しかし、自分を捨てないと担えない。自己実現するにも、「自分を捨てる、つまり脇に置く」段階を経なければなりません。

さらに皆に仕えるものとなることです。福音書には「しもべ」ということばがよく使われます。(10章42~45節)新約聖書の「しもべ」の一つのイメージは、食べ物に困っている人に食事を与えるというイメージです。人々の根本的な必要に、応える人です。もう一つのイメージは、

「奴隷」と訳される言葉です。自分の意志を「脇に置く」存在であることを示す言葉です。教師の権威は、しもべの権威です。教えるものの権威の根本は「いのちを与えていく」ということです。いのちを分かち合っていくこと、これは親の権威と同じ。その権威の中に育むこと、導くこと、教えること、叱ることなどがあります。

子どものように(10章13~16節)

当時に子どもはあまり価値がないと考えられていました。子どもの概念は近代に生まれたもので、この時代には人としての価値に数えられていませんでした。

こどもはおさなご。子どもを「うるさい」存在とする大人に対して、イエスは憤った。「神の国はこのようなものたちのもの」、そしてさらに「はっきり言っておく、子どものように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることはできない」ときっぱりと言います。

わたしたちは、子どもたちを本当に受け入れているかどうか、喜んでいるかどうか。子どもたちを受け入れていくためには、「自分を脇に置いておく」ことが必要です。

イエスは子どもを祝福したと書かれています。祝福とは、良いものが与えられるように願うこと、子どもの成長を願うこと、一人一人がユニークな存在であることを認めること、そして良いものを見つけて褒めることです。せっかく持っている素晴らしいものに気付いていないことが多いのです。教師は、子どもたち中の素晴らしいものや小さな成長を見つけて、自分も喜び、それを子供たちが気付くように導く使命をもっています。ここにもイエスの教師としての姿があります。

イエスは律法学者とわたりあって、ファリサイ派の人びとの教師像を厳しく批判します。

(7章1~2,6~7節)ユダヤ世界にギリシャ文明が入っていくうちに、排他的民族主義的な考え方が強く出てきました。それはユダヤ社会のアイデンティティとして律法を守ることを強調します。安息日や割礼などの掟を守ることを絶対的なおしえとした外面的な規則絶対主義をイエスは「偽善」として批判しました。

福音書に彼らへの批判が書かれているのは、福音書が書かれた共同体にファリサイ派的な考え方が根強くあったからでしょう。教会に実はこの考え方が入りやすい。

この考え方は、宗教だけではなく、教育の世界も陥りやすい問題なのです。「父、先生と呼ばれてはいけない」とイエスも言います。宗教や教育は「ハラスメント」が生まれる温床でもあるのです。

イエス神殿にて(11章15~19節)

イエスは、こういうことをするから死刑になるのでしょう。

イエスは神殿の中で当時行われていることが、本当の礼拝ではないと批判し、その批判を行動で示しました。神殿の管理職である大祭司は権力のトップにあり、それはローマ皇帝からも認められていた権威であったのです。ところがイエスはそこを根底から否定した。だから死刑をうけた。最高法院「神を冒涜するもの」として死刑の宣告を受けたのです。(14章53,61~64節)2人の強盗と一緒に、ローマ帝国に対する反逆者として十字架につけられました。「ユダヤ人の王」という罪状書きをつけられて。(15章25~28節)

5000人の男にパンを与える(6章30~44節)

そこは人里離れた場所で、砂漠、荒れ野であり、食物がなかったのです。 旧約聖書でも、荒れ野は、エジプトから出た民が、パンがないと叫びました場です。そこで「マナ」が与えられました。ここでイエスは、よい牧者として表現されています。これは今でも「最後の晩餐を記念する」共同体のミサとして生き続けています。このミサを通して、イエスは良い牧者として、つねに共にいるということを示しています。

学校もこのような場です。教師はいのちの糧が入ったかごをを与えられ、パンを子どもたちに配る。教師はいのちの糧を配り、仕えるしもべなのです。

湖の上を歩く(6章45~52節)

ガリラヤ湖が舞台でした。海は「カオス」です。嵐は秩序をひっくり返し、いのちを無にしてしまいます。このカオスの暗闇に舟があります。舟は共同体のシンボルです。この湖の上で危機の状態を迎えます。こういう中で「安心しなさい、恐れることはない」とイエスは言います。

今の学校の現状を、「あらし、くらやみ」ととらえている方もいるかもしれません。そのようななかで前向きに子どもたちを大切にしていく、成長を祝福していくことができるのかが問われます。その困難のなかで、「嵐のなかの舟」とも言うべき職員室が、神の国となっているかが問われます。そうであれば、「安心しなさい。恐れることはない」という言葉を聞くでしょう。

質問 イエスとキリストとはどう違うのですか?

イエスは、よくある人名です。・キリストという呼称は、油が注がれた者という意味です。イエス・キリストという表現は、イエスはキリストであるという信仰告白を込めて使われる言葉です。

感想

今回の話も、聖書の話でちょっとどうかなと私は思っていたのですが、小グループで皆さんの感想を聞いてみると意外にもおもしろかったという感想が多かったのですね。ちょっと驚きました。聖書のイエスを学びながら、学校の中の自分をそれと重ね合わせながら聞いているというのです。

特にファリザイ人を批判するところで、心を動かしました。学校というところは律法主義に陥りやすいところです。イエスがファリザイ人を批判するのは、学校の中の私たちが批判されているように感じました。

第6回 弟子・使徒

今回の講話は、仙台白百合学園中学高等学校の土倉相先生です。以下の文章は講演をもとに土倉先生に書き下ろしていただきました。レジメが用意されておりましたが、ほとんど講演内容に盛り込まれておりますので、省略します。

今回の講話では、次の2点に重点をおいてみたい。

①イエスの弟子、使徒とはどんな使命をもった人達かを知り、カトリック学校との関係を整理する。

②カトリック学校に勤める者として、「イエスの弟子」や「使徒」という言葉と「自分自身」には、どのような関わりがあるのかを考えるヒントを探す。

話の中で、第二バチカン公会議や教育聖省の文書なども紹介するが、「こう書かれているから、こうでなければならない」という意味で紹介するつもりはない。私たちが、働いているカトリック学校やそれを支えているカトリック教会の姿をまず客観的にみておきたいという意図での引用のつもりである。

1.弟子、使徒を知る~カトリック学校の「使徒職」

使徒とはギリシャ語で απόστολος (apostolos) という。「派遣された者」という意味をもち、マルコによる福音書(3;14)によれば、イエス自身が12人の弟子を選び、自ら「使徒」と命名した。「派遣された」とは、誰に向けてだろうか?生前のイエスはイスラエルの民が対象と考えられる。マタイによる福音書には「異邦人の道へ行ってはならない」という言葉さえみられる。受難と復活、昇天の後、「全世界、すべての民へ」となった。派遣の目的は「福音を告げること」である。

もう少し詳しい説明を紹介したい。

森一弘司教「キリストの言葉」より

使徒とは、権限を委託され、その人物に代わって、その望むことを伝えたり、果たしたりする重要な人物をさす。使徒(遣わされた者)は遣わす者と同等にみなされ、伝統的なユダヤ教にはない新しい概念だった。(伝統的なユダヤ教では教えを伝えるのは預言者、祭司、律法学者、ラビ)

イエスはなぜ使徒を選んだのか?(使徒の使命)

1)彼らをそばに置くため・・・キリストのよき理解者、協力者になる

2)派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能をもたせるため・・・人間の悲惨な姿に心を動かし、悲しみに共感して、そこに走り寄っていく。愛の実践を行う。

ベネディクト16世「使徒」より

福音を告げる目的は、「神との交わりに人々を招くため」である。「交わりは、今日すべての人を脅かしている孤独と戦うために主が私たちに与えた薬」

教会は信仰、希望、愛の共同体である使徒たちを土台にして建てられた。

使徒は交わりへ奉仕する共同体  使徒の後継者は教会に与えられた信仰の遺産の守護者であり、その権威ある証人であると同時に愛の奉仕者である。

一般に「使徒の後継者」とは「司教」をいう。しかし、第二バチカン公会議(1962~65)後、聖職者だけではなく、一般信徒の使徒としての役割(信徒使徒職)が強調されるようになった。

第二バチカン公会議の文書には次のようなものがある。

第二バチカン公会議「教会憲章」より

キリストの一つのからだを構成する信徒は誰でも、生きた構成員として、教会の発展とその絶え間ない聖化のために、創造主の恵みと贖い、主の恩恵によってうけた自分のすべての力を用いて協力するように招かれている。(4;33)

第二バチカン公会議「信徒使徒職に関する教令」より

その能力に応じて教会の発展に寄与しない構成員は教会にとっても、また本人自身にとっても無益な構成員と言わなければならない。信徒は福音の宣布や人々の聖化に尽くすとき、また福音の精神を世間に浸透させ、その秩序を完成するよう働くとき、使徒職を行う。(1;2)

この2番目の文書などはかなり厳しいものと感じられる。では、「使徒職」と呼ばれるものはカトリック学校とどのような関係にあるのかも見ておきたい。

◎カトリック学校と使徒職の関係、カトリック学校の教職員と使徒職の関係

ローマ・カトリック教育聖省「カトリック学校」(19773)より

カトリック学校はそれ自体が、「真の使徒職」を繰り広げていく。カトリック学校の使徒職に携わる人は「教会の必要欠くべからざる任務」を果たしているのである。(5;63)

ローマ・カトリック教育聖省「紀元2000年を迎えるカトリック学校」(199712)より

カトリック学校において、ユニークなキリスト教的な学校の雰囲気を創る第一の責任は、個人として、また共同体としての教師たちである。(8;19)

カトリック学校は、それ自体が「使徒職」を行う機関ととらえられている。しかし、ここまでは、カトリックの信徒である教師を対象とした話と考えることができる。必ずしもカトリック学校の教師が信徒であるとは限らない日本において、このあたりはどのように考えればよいのだろうか。

◎日本のカトリック学校で、信徒でない教職員をどう考えたらよいのか。

森一弘司教「カトリック学校のアイデンティティを求めて」(20087月全国カトリック学校校長・教頭合同研修会講演資料)より

1980年後半に全世界のカトリック学校のための指針を明確にする必要性を感じたバチカンは、素案をつくり、それを全世界の教会とカトリック学校関係者に送付し、意見を求めた。それを参考にし、1988年にローマで会議を開催し、指針を完成しようとした。その素案の一項目に、「カトリック学校で働く教職員は、カトリック教会の教えを理解し、それに忠実な者でなければならない」という条文が入っていた。そのまま適応されてしまえば日本のカトリック学校に勤める教師の大半が失格ということになる。日本だけでなく、中南米、北米、カナダなどの司教たちも、それぞれの理由から条件を和らげることを求め、その結果条文は穏やかな表現に置き換えられ、「カトリック教会の理解者である」という内容になった。

溝部脩司教「カトリック学校の福音的共同体を築くために」(20042)より

信仰の有無にかかわらず、カトリック教育の現場に立つ者すべてが、教職員として指導の根幹にキリスト教的な理念をもつように努力しなければなりません。宗教教育を支えるのは、カトリック学校教職員全体の責任であり、その意味で、あらゆる教科や生活指導、学級経営の中に宗教的価値観や宗教的な情操を大切に育てていくことが必要となります。

つまり、日本においてもカトリック学校が使徒職実践の場である以上、そこで働く教職員は何らかの形で、使徒職に与るように招かれていると言えそうである。

2.自分自身の問題として考えるために

~聖パウロの生き方から得るヒント〜

前半で、私たちが勤めるカトリック学校と「使徒職」の関係を見た。では、私たち、「イエスを直接知らない者」が「使徒職を果たす」とは何をすればよいのか?「使徒職を行う」ということを考えたときに感じる「戸惑い」、「ためらい」、「プレッシャー」をどう整理すればよいのだろうか?信仰をもたない教職員はどのようなスタンスで使徒職に与ればよいのだろうか?聖パウロの生き方、心の変遷を追いながら、このあたりの考え方を示してみたい。

◎聖パウロはどのような人だったのか

一般的なイメージは、聖アウグスティヌス(4~5世紀)の言葉「パウロは赤いライオン、神の偉大なライオン」から連想されるように、「強い意志の力をもっており、妥協やためらい、中途半端を憎む強い人」というものだと思う。しかし、パウロは別なとらえ方もできる。

聖パウロは3つの側面で捉えることができる

ア) 民族としてはディアスポラのユダヤ人・・・エルサレムを離れたユダヤ人

イ) 環境においてはヘレニスト・・・ギリシャ文化の影響を受けて育った

ウ)市民権によってはローマ人・・・帝国内のエリート階級

ア)ユダヤ人としての聖パウロ

ファリサイ派としての最高の教育を受けていたパウロにおいて、生活の中心にユダヤの律法があった。また、ユダヤ民族には特徴的な時間や歴史のとらえ方がある。イザヤ書やエレミア書に使われている「将来」という言葉はアハリート、「過去」はケデムという言葉だが、アハリートには「背中」、ケデムには「目の前」という意味がある。日本人の感覚とは正反対と言える。「過去はもう誰も変えることができないので皆で目の前に置くことができ、そこに神の導きや恵みを探すことができる。未来はまだ誰にも見えないので背中の方にある」という考え方である。パウロもこの考え方をもっていたはずである。

イ)ヘレニズムの環境で育った聖パウロ

聖パウロが身につけたのは、ギリシャ語と論理的な考え方である。ギリシャ哲学(ストア派)の影響も受け、パウロはすでに若い頃から大きな世界観を確立していたのではないだろうか。

ウ)ローマの市民権をもつ聖パウロ

規則をつくり、組織をつくり、強い軍隊をもっていたローマ帝国。全体の秩序は重んじられていたが、格差社会ができており、富裕層の人々には道徳的な退廃もみられる社会。ローマの市民権をもっているということは帝国内でのエリートに属することを意味していた。宣教活動の中でこのローマ市民権を有効に生かし、また、一人のローマ市民として、パウロは「人間を組織の歯車としてしか見なさない社会」、「人間を競争相手としか考えない社会」と対峙する。

◎聖パウロと回心

回心前のパウロ・・・律法熱心であったパウロは律法を守らないヘレニストキリスト者を迫害していた。律法の敵がパウロの敵。

回心の後のパウロ・・・自らヘレニストキリスト者の中に入り、シリアのアンティオキア教会で活動を始め、異邦人への宣教旅行を行う。

この回心に際し、ユダヤ人の考え方で目の前に自らの過去を置き、人生を振り返ったパウロは何を考えたのだろうか?

パウロは、長い時間をかけ、それまでの自分の人生・境遇が神によって用意されたものであったことを確信した。

「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた・・・」(ガラテア1章15節~)

◎聖パウロと他の使徒との違い

「すべてを捨てて、イエスに従った」ペトロやヨハネたち(ルカの福音書による弟子の召命)とは反対に、パウロは「すべてを生かしてイエスに従った」と言えるのではないか。

聖パウロは人生の中で与えられたすべてを、感謝の心で生かそうとした。イエス自身に出会えなかったこともハンデとは考えず、ファリサイ派の教えに通じ強い拘りをもっていたこと、従っていたことも恥とはせず、生かした。ヘレニストとして身につけた広い視野と世界観で物事をとらえ、ローマ市民としての特権も最大限利用する生き方をした。このような生き方を、パウロは回心後、長い時間をかけて身につけていった。回心前までの自分の人生を感謝の心で受け入れることができたのがパウロだったのではないか。

感謝とは「すべてを神に任せる」という信頼であり、「祈り」と結びつく。聖パウロは「感謝の人」であったととらえることができる。事実、「感謝」という言葉は全聖書の中で、パウロの手紙の中で最も頻繁に使われている。

「どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事につけ感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすればあらゆる人知を越えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピの信徒への手紙4章6節)

◎聖パウロから学ぶ使徒の生き方、生きる姿勢

自分のこれまでの歩みを振り返り、感謝のうちにそれを生かしていくことができるだろうか?

自分を振り返ることの大切さ、自分の人生の中に神の働きかけをさがしてみよう。

マイナスに思えるような境遇や歩みの中にも神の導きがあるのではないか?

3.まとめ~分かち合い(略)

カトリック学校を職場として歩んできた私達も、一人ひとりが「母の胎内にいたときから、そのようにあるよう、選び分けられ、導かれてきた」と感謝の心をもって考えることができたら、今、それぞれにできる「使徒職」が、はっきりと見えてくるのではないだろうか。

土倉先生の奉職されている仙台白百合学園は、聖パウロを守護の聖人に修道会によって経営されている学校です。聖パウロに寄せる想いに力が込められていました。皆さんはこれをどのようにお読みいただけたことでしょうか?

第4回 キリストについて 河合恒男神父

第4回目の講師は、カトリック学校連合会会長の河合恒男神父でした。河合神父は、本題に入る前に5枚のプリントを配布されました。河合神父の講演は前に聴いたことがありますが、その時もこのようなテーマには直接関係のないけれど教員をつづける上で役に立つようなプリントを提供されました。これについては最後の方で紹介致します。(HP担当者)

なぜ「イエス・キリスト」なのか?

皆さんの学校は大丈夫ですか?大阪では助成金が30%近くカットされ、ちまたでは幼稚園、高校の無料化が検討されています。そしてそういうときに、高い学費を払ってわざわざ私学に来てくれるでしょうか?出来高を値段で割るのが価値であるとしたら、出来高が多くなくては意味のある価値が生まれないというのが経営の基本です。

そこまで考えて学校教育に携わっていますか?教育の核となっている皆さんが自分の学校は何をどのように売り物にするのか、それを本気で考えるときがきています。

ミッションスクール卒業生の話から

2月にカトリックプロテスタント合同でキリスト教学校シンポジウムを行いました。

立教女子校の卒業生は、彼女が今の仕事をするのに自然にそう思えるようなキリスト教教育が支えになっているという報告をされました。

フェリス女学院の卒業生は、公立の道徳観ではない、ぶれない道徳教育や礼拝や朝礼の時間をとおして教わった「あなたは大切な存在」というメッセージを公立校の教員になって教えたい」と述べていました。

六甲学院の卒業生は、裸足に上半身裸で行う便所掃除の体験から、自分が必要とされているならば、いやな方を進んで選ぶという選択の価値観を教わったと述べていました。

卒業生たちは、学校の教育カリキュラムから学ぶこととともに、一人ひとりの先生の生き方を通して学んでいるということも印象的な発言でした。

学校を顧客満足度から評価する

サービス業は「顧客満足度」を、自らのサービスの質をはかる指標として大事にしています。顧客のニーズを上回る満足を与えなければなりません。それが、リピーターをつくりだし、さらに口コミ効果でその評価を高め、広めていくからです。

学校教育でもこの視点から、満足度について考える必要があるでしょう。

生徒からみたら、2つの面つまり、豊かな学力と肯定的な経験(学校にいてよかったという経験)が生徒の「満足度」を決めるでしょう。

保護者は、 投資したお金以上の成果をあげてくれるかという見方をするでしょう。 たとえ学費が高くても塾に行かなくてもいい学習をしてくれたら、 あるいは新たな受験をしなくてもほとんど上級学校に入れるシステムならば結果的には「満足」するものです。大学を持つプロテスタントの学校にはそういう考え方を示しているところが多いでしょう。

地域住民からの視点もあります。地方にある学校はその地域社会を挙げてサポートしてくれる所も多いのですが、都会の私立学校は地域社会と遊離しているのが現状です。

他に、教職員の視点からみることもできますし、教会や修道会の立場にたてば、イエス・キリストの望まれること・創立者の精神がどこまで生かされているかという視点もあるでしょう。

ミッションと派遣したもの

ミッション・スクールの「ミッション」とは使命を意味します。その使命を与えて遣わすのはイエス・キリストです。ところが自分の学校の「使命(ミッション)」と自分を派遣したものを分かっている人はどのくらいいるのでしょうか。知らないものは伝えられないのです。

先生たちはどの学校でもよく、たまたま就職したのが、ミッション校であったのかもしれません。

公立の学校では就職するとすぐに県職員の身分となりますが、私学は1~2年目非常勤となり、身分の安定性に欠けます。そんな中でも私立で働きたい、ミッション・スクールで働きたいという意向を持って、デメリットがあるにもかかわらずに、学校に働きに来てくれる先生がいるということはありがたいことです。

その志を生かすために、ぜひとも学校の「ミッション」の内容と自分を遣わせたものは何者かを理解してほしいと思うし、そのためにはイエス・キリストによって解放された体験が必要なのです。そしてそのためにまず聖書に親しんでもらいたいのです。

あなたは、イエスのメッセージに基づいて聖書を読んだことがありますか。聖書は学校に就職したらただであげているところも多いでしょうが、わたしは絶対にあげないで買わせてくださいとお願いしています。ただであげたら読まないのです。身銭を切って買うと初めて自分から読むようになると確信しているからです………

本題に入りましょう。

喜びの存在としてのイエス

ルカ福音書に見るイエス・キリストの特徴を考えてみます。まず、喜びの存在としてのイエスがあげられます。

学校ではそこで学ぶ若者に喜びを伝えられるのかが問われています。だから、これは最も大事なアプローチであるでしょう。義務的に形から入っていったら生徒たちは反発するにきまっています。

祭司であるザアカイには祈りがありました。(1章5~16節)

ほとんどの人は神殿の祭壇に近付くことはできない。でも当番に当たったザアカイは祭壇のそば近くで神に仕えることができた。そしてその時、念願の子供が誕生するというお告げを受けたとあります。不思議な神の干渉に戸惑いながらも彼はその恵みを喜びを持った受け入れたのでした。

マリアに挨拶する天使(1章26~38節)のメッセージにも喜びがあります。

「もしあなたが望むのだったら」ということには、私の都合や能力を理由にしない、神さまの力を信じたらできるという委託の姿勢が見られるとともに、まず自分がその一歩を踏み出さなければならない、そういう思いが喜びとして伝わってきます。

マリアの賛歌(1章47~57節)には「神がわたしに偉大なことをなされた」ということを恵みを受けた親戚のエリザベトとともに分かち合いたい、一緒に何かしたいという喜びの気持ちが表れています。

クリスマスの夜の天使の歌もあります。(2章8~14節) 「おそれることはない」と言われています。そしてすべての人々のための大きな喜びであるとのメッセージがあります。ユダヤ人だけのためではない、キリスト教信者のためだけではない、すべての人に発信しなければならない喜びなのです。

共に歩むイエス

共に歩む姿もイエスの特徴です。イエスは私たちとともに歩む「同行者」です。それが最もよく描かれているのは「エマオへの道」(ルカ24章13~35節)でしょう。自分が信じていたイエスが殺された。しかし父なる神はイエスの復活を信じていない弟子たちに「死と復活」という出来事をあかしされたのです。

私たちの周りにいる子どもたちにしっかりとした死生観を教える必要があります。いつかは死ななければならない時がある。だからこそ、マリアへの祈りには「今も臨終の時も祈ってください」とあります。「私には終わりもあるんだよ、だからこそいまあるこの命は大事なんだよ」と繰り返して祈っています。

道々あのことを思い出して語りあうことで心が燃えた。でもその時は彼がイエスだとは気づけず、食事をしたときにイエスと分かったとあります。このことは何か大事なことを暗示してはいないでしょうか。

説教者としてのイエス

「説教者としてのイエスの姿」も私たちをひきつけます。

ナザレの会堂で人びとに説教しました。(4章16~30節)

イサヤ書61章に示されたことが今ここで実現したとイエスはいっています。 イエスにとって、このイザヤの預言は自分の生き方の支えとなったことばでした。いわば、神からイエスへのラブレターだったのです。聖書は一人一人に対する神さまのラブレター、つまり私へのラブレターなのです。

一方ではそれを耳にしても、目にしても理解できない人々がいます。たとえば故郷の人びと、彼らは古い見方にとらわれ、ラブレターとして受け取れないのです。私たちはどちらのグループに入っているのでしょうか。

共に歩む者の育成者として

共に歩む者の育成者としてイエスを見ることもできます。

「人生」とは

人として生まれる

人として生きる

人と共に生きる

人を生む              という四段階を生き抜く存在です。

イエスがペトロを選んだのは失敗だったのでしょうか。イエスにつき従っていた時彼は「弟子たちのリーダー」としての自覚もあったかもしれません。けれども大事な時にペトロはイエスを裏切りました。取り返しのつかない裏切りをしたのです。後悔に明け暮れていたことでしょう。そのペトロをイエスは「教会の柱」として選ばれたのです。

船に乗ったペトロをイエスが招く。「 もう1回漁をしよう」と。疲れ切っていたペトロは漁師としてのプロ意識も持っていたが、「もしあなたのお言葉だったら網をおろしましょう」といって仲間を呼んで漁をしたのです。そして大漁という体験をしました。その時からペトロは自分の考えによるのではなく、神の意向を第一のものとするという姿勢をとり、教会の頭としていろいろな困難を乗り越えていく役職が与えられたのです。イエスはこのような形で「協働者」を求めたのでした。

失われたものへのメッセージ

「マルタとマリア」の箇所(10章38~42節)で、イエスはマリアに「必要なことはただ一つ」と述べています。日ごろ生きている上で、価値観をどういうふうに設定するかという問題です。何かをすることよりも、傍にいて聞いてあげることに優先的な価値観を示したのがマリアでした。その人が所有しているものや何ができるかという資格よりも、存在そのものに価値があることを教えている出来事ではないでしょうか。

ヨハネ・パウロ2世は晩年、老齢のために引退してはどうかと側近から言われました。そのときに教皇は「私が退位したら、病気の人や歳をとった人を排除することになってしまう」としてその考えを退けらたらしいですが、これも含蓄のある姿勢だと思います。

「放蕩息子(15章11~32節)」は二人の息子を平等に愛する父親の愛を描いています。このエピソードを通して、どんな人でも同じように愛を示す神の愛を示しています。弟だけではない、兄への愛も描かれているのです。兄は自分をどのように評価していていたのか、父と一緒に働くことを喜びとしていなかった、それは喜びの奉仕でなく、奴隷の奉仕とあには受け取っていたようです。それでも兄を息子として愛しています。過去のことにとらわれず、将来に向けて現在を受け入れる姿です。

「ザアカイへの招き(19章1~10節)」 ザアカイはみんなからいやがられていた、嫌われ者だったからお金で見返してやりたかった。イエスと出会って、うれしくなったのですが、結局は「お金を半分寄付する」としか言えないのです。それにもかかわらず、イエスはそれで充分だと認めているのです。少し前の個所で、イエスは「完全無欠」の若者と出会った時 「持っているものを全部売り払ってついてこい」と要求したのに。つまりイエスは相手を見ていっているのです。

「イエスの足をぬらす涙(7章36~50節)」。この席で彼女は招かれていなかった余計者ですが、そうせざるをえなかった彼女をあたたかく迎えているのです。

これらのイエスの姿を見て、学校というのは純白のレースではなくパッチワークの集団でありたいと思います。個性がある、能力も違う、でも建学の精神という同じベクトルを持っている。やり方によってはいろいろなことがあってもいいのです。無理な排他的な集団ではいけないということです。

よく仕事ができる要素として、普通はその人の持っている「才能」と「情熱」が指摘されます。その要素は0~100の範囲で計測されます。つまり最善の状態は「才能」100×「情熱」100で100000の達成度というわけです。でもカトリック学校ではもう一つ「方向性」というベクトルが大事なのです。これは-100~+100まであり、どちらの方向に向けて一つになっていくのかが大きなポイントとなっていきます。それがカトリック学校としての在り方を

左右していくからです。

祈るイエス

マタイ福音書は完成されている福音書といわれています。 教えのオンパレードという感じです。でもルカ福音書にはそういう感じがしません。

たとえば「主の祈り(11章1~4節)」。ルカ福音書では弟子たちが求めて、イエスが答えた祈りとして書かれています。父に対する親しい祈りとして必要なことを述べています。その中で大事なことは「負い目のある人を赦すから」というところだと思います。

ミサは赦しを願う祈りから始まり、聖体拝領の前にもう一度赦しを願います。赦されることの喜びがミサなのです。今の社会は赦されにくい社会になっているので、強調しても、し過ぎることはないでしょう。

「2つの祈り(18章9~14節)」のファリザイ人の祈りは自信満々の祈りで、「後ろにいるあの人のようでないことを感謝する」という祈りでした。一方、後ろにいた人は自分の罪を認めて赦しを願った人でした。そしてイエスはその後ろの人を褒めたのです。どこか親鸞の「悪人正機」の考え方に似ています。

役人たちに捕まえられて詰問されていた時、そっと後を追っていたペトロは見つかり、仲間ではないのかといわれたとき、明白に否定しました。その直後に「イエスは振り向いてペトロを見つめられた」というのはルカだけにある表現です。イエスはペトロの弱さを指摘し、それを受け入れています。ペトロはそれを体感して、そのあたたかさに泣いたのです。

オリーブ山での苦闘の祈りはゲッセマニの祈りとも呼ばれています。人々の救いのために必死で祈るイエスの姿が描かれています。

もしかすると皆さんはご存じないでしょうが、ミッション・スクールのすばらしいところは皆さんの知らないところで祈っているシスターの姿があるいうところでしょう。病気や老齢で第一線を退いておられるシスターたちが祈りや犠牲をもって、学校関係者の一人ひとりのために支えてくださっているのです。このように誰かのために祈っている、誰かが祈ってくれている、目には見えない祈りによってカトリック学校が支えられているのです。

十字架上での祈りは、死に向かっていくは6時間にわたったと書かれています。イエスは人々に対して、人々のために十字架上から叫ばれました。弟子と母に向かって言われたことも、一番最後に「すべては成し遂げられた」こともすべての人びとに対しての取次ぎを願う、開かれた祈りでした。この祈る姿、祈りの力を先生方の間で共有してほしいと思います。

隣人になりなさいと招くイエス

他人の不幸をほおっておけないイエスの姿をよく表しているのは「よきサマリア人(10章25~37節)」です。

私の隣人があらかじめいるのではなく、すすんで隣人になることが求められています。

私の助けを必要としている人が「隣人」なのです。これは社会の中で多くの人に目を開いているのかということが問われています。

「かいしん」という言葉があります。この言葉にはいろいろな漢字が当てられ、それぞれ少しずつ意味が異なっています。例えば次のように考えられないでしょうか。

回心 心の向きを大きく変える

改心 心を悔い改める

会心 人の心と出会う

開心 閉鎖的ではなく、心を開く心

快心 心から喜ぶ

これらのいろいろな意味での「かいしん」が学校教育中でも求められていないでしょうか。

十字架の苦しみがあるから希望がある

今、カトリック学校は原点に戻ることが求められています。でもそれは開校時以来築かれてきた信頼や伝統に甘えるなということでもあります。 現代社会での信頼をもかちとっていかなければなりません。その意味では日々、現代の若者たちが必要とする価値をきちんを与え続けていかなければなりません。そのニーズに応え続けていくならば、私たちの学校は存在感のある学校として存続できるのではないでしょうか。

だからこそ、各学校に携わる者たちが自分の学校でしかできないカトリック教育の価値を明確にし、日々その質を高めながら、周りの社会にその情報を的確に流していく働きが要求されるでしょう。

それは他と同じことをするのではないので、産みの苦しみを伴うことでしょう。そしてだからこそ、十字架の苦しみがあるからこそ希望があるとしたイエスの姿から学び取ることができるのではないでしょうか。

河合神父が配布された「資料」は以下のようなものです。
きっとなにかの参考になるだろうと思います。

1.今日のレジメ「養成塾『イエス・キリスト』」
KawaiRejime1

2.顧客満足にかかっている私学の存続
KawaiRejime4

3.イエス・キリストに見るいくつかの特徴
KawaiRejime2
KawaiRejime3

4.教師に見るイエスの一生。
KawaiRejime5