聖パウロ学園高等学校

修道会以外の経営 共学校・・・聖パウロ学園高等学校 高橋博校長先生

私どもの聖パウロ学園は聖パウロ修道会が創立しました、昨年60周年という節目を迎えたのですが、聖パウロ修道会はすでに学校から去っております。 もともとの設立の理念、建学の精神ということですが、聖パウロ修道会というのは出版事業を通じて、マスコミュニケーションを通じて宣教しようという修道会 です。その聖職者、ブラザーが自らの場所で働く人を養成したいという思いで、東京の赤坂の地に設立した学校です。

ですから、現在の一般の学校になった形と、創立時はまったく異なっています。当初そういう設立で始めたのですが、東京、赤坂の地で一般の生徒を入れ た学校へ徐々に転換していきます。ですから、当初に書かれた設立の理念、建学の精神はあるのですが実態にまったく則していません。しかし、長年にわたって ブラザーを養成するために5人、10人、多い時には20人近くの養成課程の生徒を入れていますので、そこが中心に動いてきたんだろうと思っています。

さて、今から7年前に聖パウロ高等学校は一度破たんしました。全寮制男子校として赤坂で、学年180人の寮生をかかえ、進学率もそれなりの学校だっ たのですが、最終的には全校25名の学校になり、ほぼ廃校寸前という状態になりました。ですから、その段階で、聖パウロ修道会は経営から去っていきました ので、建学の精神、カトリック精神ということよりも「学校の存続をどうするのか」ということが問題になるという流れの学校でした。

今考えれば、その時に廃校にしていればそれで終わり、聖パウロ学園の使命はそれで終わったということで、私はそれでも良かったのかなとも思っていますが、様々な事情があり、存続させようということになり、私の前の校長が理事長として展開していったわけです。

カトリック学校として展開するには非常に不都合なことが多い、つまり修道会はまったく去ってしまって、そのあとを誰がフォローするのかということで す。この問題は実はここにいらっしゃる先生方の学校にはないかもしれませんが、全国でいくつも、おそらく二桁の数字になるかと思いますが、そういう問題を 抱えている学校があり、その先駆けとなったわけです。

修道会が去った後学校はどうなるんだろう。まさしく健全な学校であれば、それはそれなりに成り立つのだろうけれど、その時に経営がうまくいっていな い、なおかつ修道会が去る、そうした時にカトリック学校はどうなるのでしょう。建学の精神のみで学校が維持できるわけではありませんので、そういう問題を 抱えた学校の先駆けであったと私達は思っているわけです。

さて、その後、全寮制男子校から通学制の男女共学校へ変更しました。もちろん通学制男女共学校に変更したことがきっかけでまた、カーブがあがったのですが、実際には男女共学にしたからと言って生徒がくるわけではありません。通学制にしたから生徒が来るわけでもありません。

始めは「不登校の生徒を扱う学校」というふうに転換しました。ですから、来た子供は全員が不登校。不登校というのは学校に来ない子供を言うのですか ら、それを集めた学校というのはいったいどういう学校なんだと自分でも私は思いました。来ないやつが来る学校ってどんな学校だと思ったのですけれども、教 区長である岡田大司教から理事の依頼を受けて学校をみるということになったのですが、私はこの学校と何も関係がありませんでした。教区として、この学校が 存続できるかを見てくれということで理事として入りました。

2年後に前校長が退職して、私が受け継ぐことになったのですが、その時も生徒は80名から100名くらいでした。ほとんどが不登校の生徒でした。そ の中で、建学の精神、理念をどうもっていくのかという話になりました。もちろん聖パウロ修道会の設立した学校の理念は修道会そのものの理念とは違います。 1800年代にイタリアでできた修道会そのものの理念は確たるものがあるのですが、学校経営を目的にしてつくられた修道会ではないですし、破たんした時に はもう完全に経営から手を引きたい、手も出したくないという、ちょっと言い過ぎかもしれませんが、そういう気持ちだったのだと思います。学校経営を目的と した修道会ではないのですから、確かに頼ろうとしても気の毒ということもあるんですよね。

ここで様々な場面に遭遇して、建学の理念、スクールモットーというものが重要であろうと思い、私どもはキリスト教の理念を語るには何がいいのだろ う、「神の愛」ということですが、もっとも分かりやすい言葉は何なのだろうということから発想をしました。修道会やその経営による学校は、各時代の時代背 景、社会背景を根底にかかえてできています。ですから、その時代の社会に対してちゃんとしたテーゼがうてるということです。しかし、私どもの学校はそうい う意味で設立、再出発しているわけではないので、普遍的なもの、誰にでも受け入れられるものを探しました。なおかつその時点で学校ではまったくと言ってい いほど宗教教育はされていませんでしたので、私が校長で入った時に、宗教教育をやりますと言ったら職員の一部から、「なんでそんなことをするのですか?」 という、不満ではないのですけれども、そういう質問が起こりました。生徒の中からも「そんなことはしない学校だというから入ったのに、今さらなんでそんな ことをするんだ、聖書なんか持ち出して」というようなことまで言われたことがあります。

でも、それはたいした影響もなく進むことができました。そこで、建学の精神、スクールモットーとして考えたのが、マタイの第7章、「人にしてもらい たいことは、何でも人にしましょう」という理念であります。これは私どもが言わなくても、もうこれは聖書から離れて「黄金律」と言われる言葉で、道徳、人 間生活の規範というふうに言われているので、これは受け入れられるだろうということで、現在この思いを語っています。

さて、私どもの学校は現在2つに分かれていて、不登校の生徒たちを対象に通信制のシステムを使ったエンカレッジコースと全日制のコースがあります。 実は、今日、集まっていらっしゃる学校からもエンカレッジコースに生徒が来ています。中高一貫校からは大変たくさんの生徒が来ています。学校に学力でつい ていけなかったという生徒もいるし、様々な意味で精神的についていけなかったという生徒もいます。現在、エンカレッジコースには千葉県の提携校も含めて 180名の生徒がいます。全日制は270名で、全部で450名の生徒をかかえています。このどちらにとっても、学校のモットーは大切です。

特に今日私が最も言いたいのは、エンカレッジ、通信制に通う不登校生徒です。こういう言い方は良くないかもしれませんが、健全な子供に対する理念と いうものは非常に訴えやすいしそれなりに理解されると思いますが、エンカレッジコースに通う生徒はそういうところで打ちひしがれてしまった生徒です。本当 に行けなくなってしまった。様々な理由はありますが、学校へ行けなくなった生徒たちをどう立ち直らせるか、そこでカトリック理念の「神の愛」を立派に語っ たところで響きません。

じゃあ、何が必要かというと、まさしく「あなたは愛されている」「あなたの存在は確かだよ」ということを体で、形で示すことなんです。まさに、神の 愛を実感させるということです。私達は今、本当にそういうことで学校を運営できていると思っています。しかも全日制は通常の学校に進学することを目的とし ますが、ここでの教育理念は、私はエンカレッジコースで生まれたと思っています。なぜかといいますと、エンカレッジコースに来る生徒たちは一派ひとからげ に教室でどんな立派なことを言ったって誰にも通じないんです。一人ひとりがみんな違う思いをもって学校にきいます。ここでもできないかもしれないという思 いを持ってきている中では一人ひとりに対峙しなければなりません。

なおかつ、物理的な問題として単位制をとっていますので、どうしても、1年生の単位はこれですとみなさんに発表できないわけです。全員と対話してあ なたの持っている単位は何ですかとか何ができますかと、一人ひとり、180人と180回ガイダンスをやるわけです。毎回、前期と後期にわかれていますか ら、年に2回やるわけなんでず。本当に一人ひとりやらなくてはいけない。

その中に、先ほどサレジオの「支援する」という理念を聞きましたが、私どもも同感です。私どもには、「引っ張る」というような理念はまったくありま せん、「支援する」「支える」です。もちろん、全日制は「リーダーシップをもって引っ張る」という言い方をテクニックとして言いますが、生徒を教職員が支 える、見えないところでもというような思いがないといけない。それを実はエンカレッジコースから学んでいます。

そして、スクールモットーとして、「人にしてもらいたいと思うことを何でも人にしましょう」という思いを様々な形で常に生徒に語っています。ここは 私の思いと私達の学校の思いであるわけですが、では、それを語ればいいんだ、確かに語るのは大切で、耳にタコができるほど語るのは大切だろうと思って語っ ていますが、実はそのカトリック理念をどこで発揮すればいいかというと、個々の生徒に対して先生方はどう接するのかということだと思うんですね。

様々な局面が先生方に出てきますよね。一番簡単な例は何かと言うと、生徒を指導する時、あるいは成績についてなんとか言う時、全員に様々な指導が出 てきます。その指導をするときにどんな思いで何が語れるかというのが、カトリックが本当にそこで生きてくるかということだと思います。私どもの学校では、 設立理念が修道会を背景にしていないので一気に言えない、あるいは言いにくいところがあるので、このマタイ福音書の言葉を学校のモットーとしているので す。そして、人を支える人、人の痛みが分かる人、人のために働くことができる人、これを基盤として自分の将来を考えなさいというものの見方をしています。

最後になりますが、実は不登校生徒というのは不登校じゃないんです。学校に行けなくなった生徒ですよね、様々な理由で・・・。うちに来た学校にいっ さい通えなかった生徒の90%以上は通えます、卒業します。通常NHK学園が通信制で不登校生徒を多く扱っていますが、20%しか卒業させることができま せん。私どもは90%です。

ただ、卒業させるだけではありません。勉強させることを目的としています。一番簡単な不登校の学校は駅前にあるフリースクールやサポート校なんです ね。来ればいいのです。通信制であれば来る必要もないんです。そこでお茶飲んでいようが、話していようが、あんぱん食べながら授業をうけていてもいい、親 は行ってくれればいいということになり、近所の公園でブランコをして体育はそれでいいという、そういう学校もあるのです。

しかし、それではまったく意味がない、学校やっている意味がない。私達が本当にその子たちを愛するのなら、その思いを本当に神が彼らを掛け替えのな い存在として創られたと思うのなら、彼らに高校生として勉強をさせ、それなりの目標を達成させるという思いでやっています。もちろん進学に関しては、進学 率のパーセンテージは低いのですが、それなりにがんばっています。通常、とってくれないところが多いのですが、カトリック大学は通信制からもとってくれて います。良い大学に進学をして頑張っている卒業生もたくさんいます。目標を達成させているわけです。

聖セシリア女子中学校・高等学校

(3)修道会以外の経営 女子校・・聖セシリア女子中学校・高等学校 原信江先生

「聖セシリア」と聞いても、知らない方もいるのではないかと思いますので、少しお話しいたします。ここは四谷ですから、新宿に出て小田急線に乗って江の島方向に向かう途中の大和市南林間に本校があります。

本校は、今は聖セシリアという名前でございますけれども、当初は大和学園という学校名をつけておりました。創立50周年を期して「聖セシリア」に変 更いたしましたけれども、これはちょうど大和市にあり、大和高校、大和中学校、大和小学校という学校がある中で、私学のカトリックの学校ということがたく さんの方に浸透しないということがありまして改名したわけです。

創立者は本来、大和撫子ということを思ってつけたということですが、よりキリスト教のカトリック精神に基づく学校であるということをわかっていただ くために「聖セシリア」に変更しております。本校は「信徒使徒職の学校である」と先ほど紹介していただきましたけれども、今年で80周年を迎えました。

創立者と、そのお嬢様が継いでおられますが、2人の校長によって作られた学校です。現在は、保育園、幼稚園に入る前のキンダースクール、そして幼稚 園、小学校、中学校、高等学校、短大がございます。特徴のある学校ですので、本当はここに校長が来て話すのが、一番いいと思うのですが、今日は、校長が保 育園の運動会と中高の説明会がございまして私が任命ました。

私は中高に所属し、宗教科、社会科を担当しておりますが、今は中1と中3と高3をもっております。その現場の中で今も変わらないで行われていることと変わってきたことが融合されながら、創立80周年を迎えました。

お手元に資料がございますが、これは80周年ということで、夏に教職員の研修を行いました。その中で使われたものです。これを全部は説明できません が、一部をご説明したいと思います。設立は1929年ちょうど世界恐慌の時です。昭和4年に設立されました。聖セシリアの建学の精神は

①カトリック精神に基づき、

②“信じ・希望し・愛深く”を心の糧として、

③知育・徳育・体育のバランスのとれた総合教育を目指します。

④単に学問の向上のみを目的とせず、

⑤神を識り、人を愛し、奉仕する心を持って、

⑥広く社会に貢献できる知性を持った人間の育成が、

⑥   聖セシリアの建学の精神であり、社会的使命です。」

ということです。これが80年の間伝わってきたものです。この中で特に創立者は「神を識り、人を愛す」ということをいつも一番の土台に考えてきたということだと思います。

教職員の研修のために①~⑦とわけてありますが、①の「カトリック精神に基づき」ということは、それが、教職員の間でも生徒に対してでも、普遍的な価値であるということで示しております。

そして②「信じ・希望し・愛深く」というのは、申しあげるまでもなく、コリントの信徒への手紙の中に「信じること、希望すること、愛すること」があ りますが、子どもたちもいつも口にしております。一番大切な「愛」ということを在学中に本当に分かる人になってほしいと思っております。そして、バランス のとれた総合教育ということをめざしています。

④番目の「学問の向上のみを目的とせず・・」ということについては、さきほどサレジオ学院は進学校ですということがありましたが、本校も、学習につ いてはもう少し貪欲にやっていかなくてはいけないとも思います。しかし今日も説明会で保護者の前で「進路、進学実績だけに特化した学校ではありません」と 宣言しています。学力が必要ないということではなく、将来それぞれが社会の中で自立し、貢献するためのしっかりとした力を身につけることはひつようなこと です・・・、もちろん高校を出たあとにどこの大学に入るかということについては、よりよい大学に入るということが望ましいわけですが、キャリアガイダンス という中でもこのように言っています。どんな人間になりたいのか、人として、女性として、社会の中でどういうふうに自分は貢献していくのか・・・、それは 自分の喜びでもあり、他人の喜びでもあり、どのように、共に、互いに支え合っていくのかを考え、行動で守るようになる、つまり心の教育、力の教育ともに必 要だと思っています。学校の中でも論議されたことがありますが、それぞれの教科指導が真に充実した時に止揚される・・・これは別々のものではない・・・両 輪のように・・・ということです。

⑤番目の「神を識り、人を愛し、奉仕する心を持って」ということですが、創立者や校長の姿を見ることによって分かります。本当に神様というのが見え ない存在であっても、それを信じる人の姿を見ることによって、キリスト教やカトリックがどういうものであるかを知ることができるということが私達に示され ていると思います。

創立者や校長の「信じる心、希望する心、愛する心」を本当に真似をすることはできないのですが、いつも校長が話す「神を愛すること、神を識ることの 大切さ、神は全知全能である」ということを言葉だけでなく、行動されていることを見ることによって、私達教職員も学んできたように思っております。

次に⑥番目の「社会に貢献できる知性をもった人間の育成」ということですが、子どもたちは高校、あるいは大学を卒業した後に、社会の中で、お母さん であったとしても、いろいろな職場の中でも、自分を生かすということ、自分を大切にすることをまず考える・・・、そしてそのことは自分自身のわがままでも なく、自己満足ではなく、自己表現することを大切にするということは他者とともに生きることにつながるということを在学中に学び、社会貢献できるような人 間を育成したいと思っております。

⑦番目ですけれども、変わらないものをもととしながら、それぞれの時代の中でいくつかの教育目標を作って展開してまいりました。特に私がお話したいのは、創立者、伊東静江が目指したことです。

明治44年に東京聖心女子学院英語学校に入学したのですが、その時には、今の聖心の前身であると思いますけれども、在日外国人の子供のための学校と いうことで、日本人は本当に少なかったということです。その中で学んだ伊東静江は、英語を学ぶかたわら、一番心に訴えられたというか、人生の岐路に立つこ とができたというのは、外国人の修道女、シスターたちに出会ったということだということを話しておりました。シスターたちはキリストの教えというものを、 極東の地にひろめるという使命を担って日本に来ました。その姿を見て、本当に慈愛に満ちた敬虔な姿、行動の中で祈るということ、そして何をするにも人のた めに奉仕する心をもって活動することを見て、人は宗教というものをもたなくてはならないと思い自ら進んでカトリックの信者になったということです。

洗礼名はモニカと言いますが、この時代は昭和になっても良妻賢母の教育の中で、女性は学習すること、勉強することがまだ、ままならない状況であった ということがあります。創立者は、女性であっても一人の人間としての教育が必要であって、真の国際人となって、国際社会の中で活躍するために、宗教を土台 とした学校づくりをしたいということで、大和学園を始めたということです。「自分の意志をもって行動する自立した女子の教育」ということ、これを始めるに 当たっては周りから反対され、とても認められるということはなかったようですが、志をもって始められました。

創立者が作った学校は現在の校長に受け継がれました。伊東静江は昭和46年2月12日に亡くなられました、現在の校長はお嬢様で「私が継ぐとは思っ ていなかった。継ぐという力もない。ただ神様がそういうふうにあなたの使命としてこの学校を継いでいきなさいという声が聞こえてきて継ぐことになっ た・・・。」ということでございます。

伊東静江が亡くなった後で短大の卒業式のためのメモが見つかりました。今の校長はこのメモをひいて、1999年にこのように書き記しています。「一 日一日を大切にすごすように、そして理想を持ちなさい。神様が必ず助けてくださることを信じて、一生懸命その理想に向かって生きる時、必ずそれは実現する のです。そのことは私が自分の今までの人生の中で体験したのですから本当のことです。40年前この土地に学校を建てると言った時、ほとんどの人がそんな無 謀なことをと言って反対いたしましたが、今、現にこうして大和学園という立派な学校が存在しているのです。」この学生を送る言葉の中に、神への深い信頼と 感謝の念がこめられているのが感じられます。

今、神に祈り、努力することによって可能性を広げた創立者の熱意は、私を始め学園のすべての教職員に伝わり、より具体化し、実践されて大きな成果を もたらしております。私は母校ですが、創立者が亡くなった時、中学校3年生でした。そして現在の校長に変わったときに「本当に変わった」と思いました。創 立者は、とても厳しい方でした。生徒たちは近くに寄ると厳しく指導されることが多いので顔を見ると逃げていくといった現状でしたけれども、現在の校長に なった時に「とてもやさしくなった。居心地がいい」と生徒の私達は言い、本当に違う学校になってしまうという感じがありました。しかし、私が大学に行き、 また戻って教師として働く中で思うことは、時代が違いますから教育内容も違うということはございますが、お二人の共通することとして、建学の精神を実践し ていることは本当に変わらず受け継がれてきたと思っております。

創立者は「いつも祈りなさい」ということを言っておりました。今の校長もいつも祈っています。この祈りの意味とは、嘆願する、感謝する、反省する、 神様を賛美するという意味がりますが、信じるものがあって繋がってきたことを、祈ることをとおして感じております。現在の校長は「私が学校を作ってきたの ではない。教職員と共に歩んできたから今がある」ということ言葉で、私たちにもよく話しております。「生徒一人一人を大切に」とか「幸せな人づくり」とい うことを本校でも言っておりますが、まず校長がいつも言うことは、「教職員は本当に大切な宝物」ということです。もちろん生徒も保護者も大切ですが、その 前に共に働く者を大切にしてくださるということがいつもあり、それを実感しております。

最後に、聖セシリアは修道院の設立ではありませんがミッションスクールです。最初にできた時、現在の校長は、校長会に行っても「カトリック学校では ないと思います」というふうに非難されたり、認められなかったりと、いろいろあったことを聞いております。校内に聖堂を建設し、カトリック学校の証しであ る「ご聖体」を横浜教区の司教様からいただきました。これは本当に念願してきたことでした。

校長の文章の中に、「ミッションスクールの使命は、『あなたがとても大切な人なんだ』ということを生徒一人ひとりに知らせて、自分を大事にするよう な教育を行うことです。神様に愛されているということを知らせるのが使命なのです。『私なんかだめだ。』『どうせ私は』と考えてはいけない。自分の命がい かに大切かを知り、大事にする。つまりは他の人をも大事にすることに繋がるのです。」というものがあります。

現在はミッションスクールとして、カトリックの学校として、たくさんの方に認められるようになりましたが、そうなったということは、いろいろな修道 会や教区のみなさまに支えられております。宗教教育、講演会など多くの方々に支えられながら実施しております。ご聖体がありますし、月1回の教職員のため のミサが行われておりますが、いつも聖職者がいるわけではありません。教職員がカトリック学校として大切なことを守っていくには、型も大事かなと思ってお ります。生徒もほとんどが未信者です。信者の生徒、教職員は一握りですが、お祈りすること、ミサがあること、宗教教育が一貫教育の中であることを大事にし ています。最初は受け入れにくいとも思っておりましたが、子供たちは形から入り、心の中に純粋に受け入れていきます。

教職員も聖書を読んだり、お祈りなどいままでやっていないことがたくさんあるので、戸惑うことがありますが、毎日の生活の中で、それが浸透していく のは心の教育をするために宗教は大切であると思えるからだと思っております。教職員が働いた環境で、キリスト教に出会い、夢が入れるように導いてくださっ たのも校長です。

最後になりますが、教職員の宗教活動として、それぞれの部署でやっていることがありますが、創立者の名前をとり、「モニカ会」という教職員の宗教活 動があります。その中で教職員のための行事、ミサ、研修活動があったりと、いろいろな神父様方からお話しをしていただいたりしています。私達が教職員とし てどうあるべきかを学んできたように思います。神父様方だけでなくシスターがいらしたこともあります。本当に周りの方から「大丈夫かしら」と言われること も多々あったようですが、女子教育ということを創立者がなぜしたかったか・・・、この多感な時期に女子教育の本当に良いところを確信を持って実施してきた と思います。

たくさんの学校の先生方にいろいろ教えていただきながら、さらに、21世紀の中で成長できる学校、子供たちが、本当に愛することが分かること、愛されていることが分かること、幸せな人になってほしいと思っております。

晃華学園中学校・高等学校

(2)修道会の経営 女子校・・・晃華学園中学校・高等学校 広野佑子校長先生

建学の精神ということであれば、カトリック学校で共通の部分も多いと思いますが、それぞれの学校で、創立の時代、場所、対象を反映した創立者の思い から生まれた多様性を理解することも大切・・・ということがありますので、私たちの学校はどのようにして生まれてきて、どういう特徴があるのかということ をお話したらよいのかなということでレジュメを用意してまいりました。

まず、学園の沿革と教育方針に触れたあとで、母体となった修道会がどういう時代背景で生まれてきて、とういう特徴をもった修道会なのかということについてお話しさせていただこうと思います。

学園の設立母体となっていますのは、「汚れなきマリア修道会」という修道会です。1816年5月25日にフランスで、ギョーム・ヨゼフ・シャミナー ド神父とアデル・ド・バッツ・ド・トランケレオンという貴族の女性によって創立されました。翌年に男子の「マリア会」が創立されまして、この男子のマリア 会の方は明治20年ころに日本へやってきて、九段の暁星学園、大阪の明星学園、長崎の海星学園などの学校を経営しています。このマリア会の招きによって私 たちの会が1949年の9月に日本へやって来て、土地の人たちの求めに応じて子供たちのお世話をする、近所の子供たち、農家の子供たちなどをお世話すると いう形で幼稚園ができまして、九段の暁星学園の付属幼稚園として「マリアの園幼稚園」ができ、1957年には暁星学苑付属晃華小学校、翌年に東村山に暁星 学園付属暁星幼稚園が開園しています。その後1961年に暁星学園から学校法人晃華学園が独立いたしまして、中高の方は1963年の4月に開校し、現在に いたっております。

晃華学園の「晃華」という名前ですが、「晃」は「光」、「華」は「花」なんですね。「天に光輝く花」ということで、実は聖母マリアをさしておりま す。校章は大小二つの星で織り成されていまして、中央の星はイエズス・キリスト外側の大きな星が聖母マリアを表しています。これは「マリアによってイエズ スへ」という学園の理想を示しています。女子校でもありますので、聖母マリア、マリア様を理想の女性として、「マリア様のような女性になろう、神を敬い、 人を愛し、マリアのように正しく、強く、美しい生き方ができる女性に」ということを校訓としています。

カトリック精神に基づいて全人教育を行い、情操豊かな人間を育成するという教育方針を柱として、高い理想を求め、真理を探究する心を育てる、また、 開校以来、語学教育を重視しておりまして、国際的な視野に立つ女性を育成する、ということをあげています。すなわち高い学力、人間としての品格、豊かな国 際性を備え、世界に開かれた女性を育てていきたいという願いをもって教育をしております。

私どもは2012年に創立50周年を迎えますので、学園としてこれからどういう方向性で進むべきかということをみなで話し合いながら学校のビジョン を作っていきたいと考えています。8月の終わりにそれぞれの学年に分かれて、「晃華学園はそもそも、どういう生徒を育てていきたいのだろうか」ということ を話し合いまして、3つの生徒像をまとめました。

「明るく、前向きに生きる自立した女性」、その根底には神様から無条件に愛されていて、受け入れられている自分があり、その自分を肯定的に受けいれるということがあります、その自己肯定感を土台にして、明るく前向きに生きる自立した女性ということです。

それから、神様から一人一人に委ねられている使命を果たしていくために自分自身に与えられた能力を十分に伸ばして、世のためひとのために生き、より 平和でより正義に満ちた世界の実現に向けて人と協力し、忍耐強く働く女性です。生徒たちによく言っておりますのは、日本の子供たちは途上国の子供たちに比 べていろいろな面で恵まれている、働かなくても学校へ行けるし、豊かな環境の中で心配せずに勉強できる、さらには両親に恵まれ、健康に恵まれ、衣食住など いろいろな面で多くのものをいただいています。つまり大変恵まれていますが、それは、恵まれたものを恵まれていない人と分かち合うためなんだということを 言っております。

次に晃華学園の設立母体となった修道会がどういう時代背景でできたのかということなんですが、シャミナード神父という方は2000年に福者になって おりますけれども、マリアニスト家族の創始者です。マリアニスト家族というのは、男子のマリア会、女子のマリア会、在俗会、それから信徒のグループ、そう いうものを総称しています。シャミナード神父が生まれたのは1761年4月8日、亡くなっているのは1850年1月10日ですね。ちょうどフランス革命を はさんで王政から共和政、ナポレオン帝政へ、ついで、王政復古、7月革命、2月革命が相次いだ時代で、本当にめまぐるしく変転した激動の時代に生きた人で す。

アンシャンレジュームという古い体制が音を立てて崩れて、近代市民社会が生まれてくるという時代の大転換期に生まれ生きているわけです。その時代を リードした思想と言えば、神への信仰よりも人間の理性をよりどころにして、人間の力だけで人類の進歩を築いていこうという、オプティミスティックな啓蒙主 義です。教会はもう精神的な指導者とは思われなくなり、目に見える形や伝統に支えられた教会は迷信の源、理性の敵と攻撃された時代です。

それから一方では、自然現象の科学的な解明とともに、目をみはるばかりの技術革新が行われ、人々の日常生活を根底から変えていく産業革命がイギリスから始まってヨーロッパ大陸へと波及していくという時代を生きた方です。

フランスのペリグーという町で生まれ、父親は豊かな呉服商でした。13人兄弟の末子として生まれています。1785年に司祭に叙階されていますが、 その後パリ大学へ進学して、神学の博士号をとりました。フランス革命のときには、全国三部会議員に選出されています。一方、フランス革命の始まる1か月前 に、後にシャミナード神父の指導のもとで女子の「汚れなきマリア会」を創設したアデル・デ・トランケレオンが誕生しています。

革命はだんだんと穏健派の手から、急進派の手に移っていって、過激になっていきます。1792年に「聖職者市民憲章」が制定されて、カトリック教会 の司教や司祭は、公務員として国から給料が支給されるけれども、その代り、政府に忠誠を誓わされる、つまり、ローマの教会からフランスの教会を切り離そう としたわけです。それに反対すれば聖職は遂行できない、無視して聖職を遂行すればギロチンに送られる、そういう中でシャミナード神父は命がけでボルドーに 潜伏しながら司祭職を遂行しました。

しかし、ついにフランス国内にとどまることができなくなって、スペインのサラゴサに亡命をしました。36歳の時です。当時サラゴサには「柱の聖母大 聖堂」という有名な巡礼地がありまして、たくさんのフランスから亡命してきた聖職者がそこにいたわけです。シャミナードも柱の聖母によく祈り、どうすれば 祖国に信仰を取り戻せるか、自分の使命は何か、有効な宣教方法はないか・・・などを思いめぐらしていました。

革命が一段落した1800年にフランスに帰国し、ボルドーに若者たちを集めて「聖母会」をつくります。通常の生活様式に従いながら、時代と場所に適 応できる男女のグループをつくっていくわけです。この若者たちを真の使徒として養成し、福音を生きる精鋭部隊として彼らを育てていき、これを通じて社会全 体を改善していこうというような計画をもっていたのです。この聖母会のメンバーの中から修道会ができていくわけです。1816年に汚れなきマリア会、翌年 にマリア会が創立されます。そして、マリア会の会則が承認されたのが1839年、シャミナード神父は1850年に帰天しております。

マリア会が創立された時代のフランスですけれども、大革命と帝政期間中の死者は、第一次世界大戦、第二次世界大戦で失われた人数に匹敵するくらいな んですね。当時の人口からすると大変な数です。ギロチンで亡くなった人も多いのですが、200万人の人が亡くなっています。それから教会や修道会に対して 徹底的な迫害が加えられました。そのために、それまで教育を担っていた修道会が破壊された関係で、学校が荒廃してしまいました。

18世紀初頭には文字が書ける人が5人に1人、1789年には3人に1人だったのに対し、1820年には96%のフランス人が文字を読めなかったと いう状況だったのですね。シャミナードがスペインから帰国した時の祖国の状態は荒廃の一言だったわけです。「現在はびこっている強力な異端は宗教無関心で あって、これは人々の良心を麻痺させ、殻にこもった自己中心主義と情念の泥沼の内に陥れようとしております。信仰はキリスト教国の内部でも光を失い、消え つつあります。一般的な脱落と、ほとんど全世界的な、いわば背教という、予言された時期に立っているようです。・・・しかし悲観することはない。教会はど の時代にも、尊いマリアの戦いと輝かしい勝利を経験してきました。」ということを言っています。

創世記の始めにありますように、アダムとエヴァが神に背きましたが、この時神はアダムの子孫と悪魔の子孫の間に敵意を置くと言われました。このこと について「主がマリアと蛇の間に敵対関係を定められて以来、マリアは絶えず世と悪魔に打ち勝ってきました。すべての異端は至聖なる乙女の前にうなだれ、徐 々に沈黙、消滅させられたのであります。」という言葉も残しています。

現在の宗教的無関心、大異端、悪との戦いにおいても、最後に勝利をもたらすのは聖母であるという確信から、自らを聖母に奉献して聖母と共にキリスト の人類救済の事業に協力して働く信徒のグループをつくろうという目的でつくられたのが聖母会です。シャミナード神父の聖母会には司祭とか商人とか、教師と か労働者とかいろいろな人がおりました。あらゆる階層、年齢層の人からなるグループだったわけです。これをシャミナード神父は初代教会のような真のキリス ト者の共同体にしようとしてキリストの精神に生きることを求めたわけです。言い換えますと、フランス革命の「民主主義」と「平等の原理」をキリスト教の精 神で実践して社会全体を改善する戦闘的なキリスト者の養成を目標としていたわけです。

聖母会の会員に要求されるもう一つのことは、自分たちを聖母マリアに奉献して、マリアを知らせ、愛させ、マリアによって人々をキリストに導くことで した。普通、修道会と言いますと、まず男子の修道会が生まれて、次に女子の修道会が生まれて、それから同じ精神で生きる信徒のグループができるという順序 になっています。

例えば、フランシスコ会、クララ会、フランシスコ第三会というような形が多いのですけれども、マリア会の場合はまず信徒のグループに聖母会というの があってそこから女子の修道会ができ、男子の修道会が最後にできています。聖母に自らを奉献して聖母のミッション、使命に協力しようとする信徒のグループ が継続していく保証として最後に修道会ができているということです。マリア会も司祭である会員と司祭でない会員から構成されていて、司祭、教育に携わる 人、それから労務にたずさわる人がいるわけですけれども、皆、それぞれ同じ権利をもっていました。

修道服も特別なものはなく、事業としては宣教のため最も効果的な手段となる教育を選びました。「あなたたちは皆宣教師です」の言葉通り、会員の活動 はすべてイエスの福音を伝えることが目的でした。ですから、マリア会という修道会は教育事業を目的として創立された修道会ではなくて、とにかく人々に信仰 を取り戻させるという目的で創立され、そのために一番効果的な手段が教育だったというわけです。

創立の順序だけではなく、男子のマリア会は当初、汚れなきマリア会の会則、生活の規則を一部手直しして使用していました。マリア会の会則が認められるのは1839年でして、こういうのもちょっと変わっているんですね。

現在、「聖母会」はマリアニスト信徒共同体と呼ばれていました、2000年3月25日にローマ教皇庁から信徒の私的会として承認されました。その他 に在俗の奉献者の会「アリアンス・マリアル」、「汚れなきマリア修道会」、「マリア会」の4つのグループが同じ精神によって結ばれ、「マリアの宣教師」と しての使命達成のために協力しています。これら4つのグループを総称して「マリアニスト家族」と呼んでいるわけです。

このグループの目的は聖母マリアの使徒的な使命に協力するということです。マリアはキリストから全人類の母としての使命を与えられ、全人類救済のためにキリストに協力した協働者であるということから、マリアを通して人々をキリストに導くということです。

カナの婚宴に、キリストと弟子たちも来ていたわけですけれど、その時、葡萄酒がなくなったという時に、マリアは新郎新婦が恥をかかなくていいように イエスにそっと相談します。その時イエスは素気なく「婦人よ、それが私とどういう関係があるのですか」と言うんですが、マリアは、「この人が何か言いつけ たらそのとおりにしてください」と給仕たちに言いつけます。そして給仕がその通りにしますと水が葡萄酒になったという有名な奇跡が起きるわけですね。マリ アがキリストの栄光を表すきっかけを作ったということですね。「この人が何か言ったらそのとおりにしてください」つまり、「キリストが何か言ったらその通 りにしてください」という言葉をシャミナードはあらゆる時代、場所の要求に応える普遍的使徒職の要請として受け止めたのです。

だから、特定の事業とか目的のためにつくられた修道会ではなく、時代と社会の要請から、また宣教のために最も効果的な手段として教育を事業として選 んだということなのです。ですから目的は人びとを信仰に導く信仰生ということなんですが、とりわけ初等教育は子供たちの将来と生き方に決定的な指針を与え ることになるために、マリア会の使徒活動のなかでも重要な位置を占めてきました。シャミナード神父は児童生徒を尊重して礼儀を重んじ、親切とか忍耐、やさ しさなどを教師の持つべき資質として求めました。そして、生徒を「褒めて認めること、これは体罰に勝る、徳育は知育に優先する」とも言っています。

しかし、一方において「啓蒙主義とか理性万能主義に対抗するために、宗教教育は科学的かつ論理的でなくてはいけない」とも言っています。こういった革新的な理念が人々の賛同を得て、マリア会は高い評価を各地で得、たくさんの学校を経営することになりました。

マリア会の学校の指針としては5つあります。

「信仰の精神で教育する」、

「質の高い全人教育を行う」、

「家庭的な精神の中で子供を教育する」、

「正義と連帯し平和のために教育する」、

「時代の変化に柔軟に適応する」、

以上の指針のもとに世界中で学校教育に従事しており、私どもの晃華学園もそのひとつであるということです。

サレジオ学院中学校・高等学校

(1) 修道会の経営 男子校・・・サレジオ学院中学校・高等学校 中井俊夫先生

サレジオ学院に勤めて13年になります。本来は校長がお話をするのがふさわしいと思うのですが、今日、10月17日は本校にとって特別な日であり、 代わりに私が参りました。いつもは養成塾の塾生として参加しておりますが、今日は講師ということで緊張しています。上手にお話できるかわかりませんが、よ ろしくお願いします。

(a)教育修道会サレジオ会

サレジオという名前は母体となる修道会サレジオ会に由来します。サレジオ会はイタリアに本部を置く教育修道会で今年ちょうど創立150周年となりま す。サレジオ会は男子の修道会ですが、関わりのある女子修道会としてサレジアンシスターズ、宮崎カリタス修道女会がございます。

日本では、横浜にありますサレジオ学院、それから町田市のサレジオ工業高等専門学校、それから小平にありますサレジオ小学校・中学校、大阪の大阪星 光学院、また宮崎の日向学院を直接経営しています。また、赤羽の星美学園小・中・高と短大、世田谷の目黒星美学園小学校、中学校・高校、そして静岡サレジ オ小・中・高、大阪の城星小・中・高、宮崎カリタス都城ドミニコ学園高等学校などはサレジアンシスターズの経営となります。

サレジオ会は、イタリアのトリノ、ここでヨハネ・ボスコという一人の神父様がオラトリオという小さな集まりを始めたことからスタートしています。産 業革命によってひずみの生じた社会の中、劣悪な労働条件の中で教育を受けられない若者たちに、なんとか教育を受ける場を与えたいということで始まったのが オラトリオであり、サレジオ会の原点です。日本では1926年にチマッチ神父を団長とする宣教師団が来日し活動を始めました。

先ほど挙げましたサレジオ会の学校では、どこでもこのヨハネ・ボスコ、私どもはいつも「ドン・ボスコ」と言っていますが、このドン・ボスコの精神が常に教育のベースになっています。

(b) 教育理念

サレジオ会の教育理念の基本には5つの項目があります。

①   アシステンツァ

②   予防教育法

③   柔和の精神

④   愛情・道理・宗教を土台にした教育

⑤   善いキリスト者、誠実な社会人を育てる

です。特に本校の教育において強調されますのは予防教育法とアシステンツァです。

まず「予防教育法」についてお話いたします。子供たちを教育していく上で、「規則を決めてそれを破ったときに罰を与える」というような教育法があり ます。これは医療の現場で言えば「病気になってしまった後に薬やその他の処置によって身体を治療すること」に相当します。(これをドンボスコは「禁圧的教 育法」と呼びました。)これに対してドン・ボスコは「予防教育法」というものを唱えました。これは教育学の言葉ではなくて、ドン・ボスコによる造語なので すが、「病気になってから対応するのではなく、病気に強い身体を作ろう」という発想です。例えば子供たちに迷いがあったり、悪い道への誘いがあったとき に、それに耐えられる精神を作っていこうということだと理解しています。

この「予防教育法」という概念をベースに、子供たちの歩みをサポートする実践法が「アシステンツァ」です。「アシステンツァ」という言葉はイタリア 語ですが、我々教員が子供たちの先頭に立って、あるいは高いところにいて上から引っ張り上げるのではなくて、常に子供たちと同じ目線でいろいろなことをし ていきましょうということなんですね。

先日こんな話を聞く機会がありました。あるお母様がサレジアンシスターズの経営する小学校の運動会に応援にいらっしゃいました。もちろんお子さんの 元気な様子に満足をされたそうなのですが、それとともに教員が常に子供たちのそばにいてかかわりを持っていることにいたく感動されたそうです。運動会で は、子どもたちはそれぞれに役割を与えられ、一生懸命に働きます。学校によっては教員は指示するのみで全く動かないようなところもあると聞きますが、押し なべてドンボスコの学校では子供たちのそばに常に教員がおり、子供たちをサポートしているのです。私自身サレジオ会の学校で中高を過ごし、どっぷりとその 恩恵にあずかってきた身ではありますが、このような話を耳にするにつけサレジオの、常に共にいてアシストするという方針には間違いがないなということを感 じました。

(c)生徒、保護者との関わり

本校のパンフレットには「存在の教育」という言葉があります。子供たちに「自分はここにいていいんだ」ということを何とか感じてもらうことができる ように、常に心掛けているということをアピールした言葉ですが、勉学とは別のところで私たち教員が心にもっていなくてはいけないことだと考えます。進学の 面でさまざまに要求することもありますが、まずは生徒一人一人に対して「いていいんだよ、それでいいんだよ」というメッセージを発信し、子供一人一人を愛 する気持ちでかかわっていこうとしています。

生徒とのかかわりという側面でもうひとつお話をさせてください。ドン・ボスコの言葉で、は「子供たちを愛するだけではだめです。愛されていることを 子供たちが実感をしないと愛していることに意味がない」という言葉があります。これは私が、教師として生徒とかかわるときに常に意識をするものです。

新学期、新しいクラスの担任になりましたら、まず私がやりますことは、毎日昼休みに教室に行って一緒に昼食をとることです。生徒は、特に高1ぐらい になると必ずいやがります。私が教室にいなければ好き放題できるわけですから、昼休みに教室に担任がいることは決してよろこばしい状況ではないです。「高 校1年生にもなって、先生何でここに来るの?」って声をかけてくる生徒もいます。私は「職員室に居場所がないからね」なんて答えて受け流すのですが、その うちに5月も半ばを過ぎますと、私が教室にいることが普通になって、いろいろなことで声をかけてくれるようになってくるんですね。担任としても、遊んでい る様子や友達関係など授業では見えない部分が見えてくるので、非常にプラスだなあと思っています。生徒に対してはそういう部分の意識を強くもってあたって いますし、建学の精神からみれば、できれば他の先生にもやってほしいと思っていて、若い先生方にはそのようにしてみてはとアドバイスしています。

4月になりますと必ずやることがもう1つあります。自分の授業の空いている時間を示す時間割をつくって、自分の携帯電話の番号、自宅の電話番号、 メールアドレスなどを書いたプリントを作り、保護者会で配っています。配るときには「些細なことでもいいですので気にかかることがありましたらいつでもご 相談ください」と必ず一言添えています。これをやりますと保護者にはこちらのオープンな姿勢が伝わって、関係が一気に近くなります。実際に電話がかかって きて相談を受けることはそんなに多くありませんし、いざかかってきても比較的初期の段階でいろんな問題に対応できますので、自分としては割と良い方法だな と思っています。子供たちだけでなく、保護者に対しても「受け入れられている」と感じてもらうことが信頼関係を作り、それが学級運営にもよい影響を与えて いると思います。

(d)「25歳のプロファイル」

ここ10年くらいですけれども、河合神父様がいらっしゃるときから、大学進学でとどまるのではなくて、「自分が25歳になったときにどういう人間に なるべきかということを考えて中高の生活を送りなさい、大学の選択をしなさい」という指導を行っています。「こうありなさい」ではなくて、子供たちに「将 来を考えなさい」、「25歳の自己イメージをもちなさい」ということを働きかけます。先日ちょうど25歳になった卒業生に会いまして、「先生、僕25歳に なりました。10年前に言われて、25歳って大人だろうなと思っていたけれど、実際には25歳って意外と子供なんだなあ、大したことないなあと思いまし た」と話してくれました。この生徒にも「25歳のイメージ」があり、それを目標にこれまで進んできたのでしょう。どの程度言葉が届いているかは彼らの在学 当時にはわからなかったのですが、この「25歳の像」というのがきちんと子供たちへの働きかけになっていたんだということを実感した機会でした。

第8回 建学の精神

修道会経営の男子校を代表してサレジオ学院、女子校として晃華学園、修道会ではない経営母体をもつ学校として女子校の聖セシリア学園、共学校の聖パウロ学園から、「建学の精神」について話をしていただき、その後全体でディスカッションを行った。以下は各学校からの発表。

1.修道会経営の男子校 サレジオ学院中学高等学校

2.修道会経営の女子校 晃華学園中学高等学校

3.修道会以外の経営する女子校 聖セシリア女子中学高等学校

4.修道会以外の経営する共学校 聖パウロ学園高等学校

第10回 福音宣教する学校  浦 善孝 神父(イエズス会)

福音宣教する学校

−カトリック学校の使命を果たすこと−

浦 善孝 神父

(泰星中学高等学校・イエズス会)

「教会にとって福音をのべ伝えるということは『よい知らせ』を人類のすべての階層にもたらし『わたしは万物を新しくする』とあるように、固有の力で人類を内部から変化させ、新しくするという意味を持っています」(教皇パウロ6世『福音宣教』no.18、1975年)

はじめに

カトリック学校の教師養成塾での話を依頼され、「学校の使命」というタイトルが与えられました。私は「学校の使命」と言うタイトルを「カトリック学校の使命」と理解しました。従って、これららお話させていただくことのテーマは、学校の使命、特に「カトリック学校の使命」といたします。カトリック学校の使命は一言で言うと「福音宣教する」ことであり、すなわち「カトリック学校とは福音宣教する学校」ということになります。

「福音宣教」と言うと信者でない先生方には耳慣れないか、戸惑いを抱かせてしまう言葉かもしれませんが、簡単に言うと福音宣教とは、イエスの生き様、死と復活、そしてそれを信じる者が救われるということを述べ伝えることであり、そうすることがカトリック学校の使命だということです。カトリック学校には小中高であわせて約10万人の生徒がいます。その生徒たちに、具体的に福音宣教するとはどういうことなのでしょうか。「福音宣教する学校」の真相は、「イエスの生き様、死と復活、そしてそれを信じる者が救われるということを述べ伝えること」を通じて、生徒一人ひとり、彼ら、彼女らが、よい人間として成長し幸せな人生を過ごせるように、そして他者のために生きることができるように養育する(nurture)ことにあります。生徒がよりよく生きることを支える使命、そのためにカトリック学校があるとも言えるでしょう。

このような使命を持つカトリック学校にとって、最善の参考文献は新約聖書、そこに描かれているイエスの言葉と行いなのです。福音宣教する学校であるためには、現状では、この聖書を基にした教育を、キリスト教の信仰を持たずにカトリック学校の教職員となっている方々と信徒が一緒にチームを組んで働いてゆくことが求められています。多くのカトリック学校では、創立したときに苦労されたかたがたのほとんどが引退されつつあると思います。そして今ここに集まっている教職員は、私たちの先輩が作り上げてきた学校を、維持し発展させていくという使命を負っています。私が以前勤務していた六甲学院ではそれを「第2の創立期」という言葉で表現していました。この第2の創立期にあたって、カトリック学校の教職員の構成は修道者の減少のために-あわせて信徒の教職員の減少も最近危惧されるようになってきましたが-、非信徒の教職員でカトリック学校の特徴である「福音宣教する学校」を維持・発展させることが求められています。そのための方策を、以下のお話の中で皆様とご一緒に考えてゆきたいと思います。

1.カトリック学校の「根本決断」

カトリック学校に関していう「根本決断」とは、学校共同体がどの方向に向かって歩もうとしているかという、学校の根本的な態度を指します。カトリック学校の根本決断とは、学校の究極的な目的を言い表す「腹づもり」ともいえるでしょう。私たちの学校の根本決断を確認することは学校についての自己理解を行うことであり、それを表現することは自己の思いに素直になるということです。個人が自分の望みを表現しながら生きていくように、学校も同じように歴史を重ねてゆきます。自分は個性があると思っても引きこもってしまったら個性は表現されず、他者からその個性を承認されることもないでしょう。個人も学校も自分の生き方を主張して社会に認めてもらう必要がありますし、それが自信獲得につながります。

(1)カトリック学校は神中心の学校 God centered school / not Godless school

カトリック学校は、イエス・キリストとその後継者である教会と結ばれて、福音宣教を行う司牧的組織(pastoral institute)でもあります。したがって、そこで行われている教育は自ずとキリスト教的価値観にもとづいていることが求められます。しかし同時に、カトリック学校は公益的な教育施設として他のすべての学校と同じ教育目標を強く分かち合っています。恐らく学習指導要領に従って、カトリック学校のカリキュラム(explicit curriculum)の9割以上は他の学校とほぼ同じであり、残りの1割くらいでカトリック学校としての独自なカリキュラムを編成することができるのではないでしょうか。

カトリック学校は、他の公立や私立の学校と公教育を行う責任を共に分かち合っています。カトリック高校のほとんどが、全日制普通科であり、普通教育(general education)を行うという使命を持っているわけです。カトリック学校で働く教職員は、誰であってもこの責務を重要なものと自覚する必要があります。このことについて、米国における調査研究があります。[1] それによると、アメリカのカトリック学校の特徴は特に恵まれない教育環境にある子どもたち(disadvantaged students)のめに役立っているということが報告されています。学力から言えば、理科は公立のほうがよく、あとはカトリック学校の方がいいようです。したがって、カトリック学校が教科教育に力を入れることは、カトリック教育の伝統と矛盾するものではありません。

一方で、これまでカトリック学校は特別支援教育(special education)にはあまり関わってきませんでした。これからは、公立学校と協力しながらこの教育分野にもカトリック学校が参加すべきだという実践の試みも米国でははじまったようです。そう考えると、日本でもいままでのカトリック学校のタイプを変える選択肢もあり得ますし、カトリック学校と公立学校が相互に補完しあうことを模索する時期に来ているかもしれません。

(2)福音書のイエスの姿

一方で、カトリック学校と他の学校との差異も明白です。たとえば新約聖書のマルコによる福音書の1〜3章を取り上げて見ると、そこには「神の国の到来」について描かれています。たとえば、悪霊に取りつかれた人を悪霊から解放し、重い皮膚病を患っている人、中風の人を癒し、徴税人を弟子にします。人々はイエスと出会うことにより、新たな人生を歩み始めたり、人間性を回復したりします。それは、イエスと出会うことによって可能となります。冒頭に掲げている教皇パウロ6世の言葉をもう一度ご覧ください。カトリック学校と他の公立・私立学校との違いは、教科教育、生徒指導、特別活動やクラブ活動、そして教育相談など、あらゆる教育活動の中に、「新しい人となる」という次元が加味されています。すなわち、英・数・国・理・社・体・技術家庭・芸術などすべての場面で生徒一人ひとりに、イエスが人々に接したように、またイエスが彼の弟子たちに接したように、接することが望まれています。ただし、各自それぞれアプローチは異なるでしょう。

私たちが神中心の学校で働いていることを自覚することは、私たち皆が同じeducational communityで働いており、同じ教育哲学を分かち合っていることを意識することです。このように、同じ教育哲学を分かち合う人びとによって、他の教育システムとは異なる「カトリックの教育システム」を日本にも構築することが可能だと思います。これが私たちの将来に向かっての希望であり、この教師養成塾がその実質的な第一歩となっていると思います。自分がどんな学校で働き、どんな仕事をしているかということは、自分のアイデンティティと関係します。そしてイエスがどういうことをしたかを知ることは、自分の働いている学校を知ることであり、カトリック学校で働くことの意義の自覚とも関係してきます。

2.カトリック学校の根本決断の刷新 -新・福音宣教する学校-

(1)カトリック学校で働く教職員のミニステリア(ministeria)

今は、私たち教職員が自分たちの手で「福音宣教する学校」というカトリック学校の根本決断を刷新すべき時です。修道者が少なくなり、学校の構成メンバーが交替し新しいメンバーが学校の主役となりました。したがって当然、カトリック学校の根本決断の表現や理解の仕方が変わってくるでしょう。一方で、その学校の伝統を守るという点では「健全な保守主義(healthy conservatism of Catholic Schools)」という態度を持つことも大切にしなければなりません。

「ミニステリア」とは何かの目的をもって派遣される職務を指します。奉職、役目、任務などの言葉でも表現されます。カトリック学校が特別な使命を帯びているなら、それに加担する教職員も特別な使命を持っていることになります。そういうふうに考えるなら一人ひとりに与えられる校務分掌はみなミニステリアなのです。教科を教える場合でも、クラブ活動の顧問をする場合にも、カトリック学校においては、福音宣教すなわちイエスの言葉と行いに心を馳せながら教育に携わる使命をもっていることになります。

カトリック学校の教職員は自分たちの仕事をミニステリアと考えることによって、学校の根本決断と自律的に関わることができるのではないでしょうか。さらに、カトリック学校の根本決断(使命)とそこで働く人々の生き方(vocation)が重なる領域があれば、そこで互いに協力し合いながらカトリック的教育を実践していくことができるのです。カトリック学校で働く大部分はキリスト教の信者ではないけれども、「カトリック」の学校で毎日働いています。けれども、ほとんどの教職員が、生徒に教えたい、私たち自身いい生き方をしたい、生徒と人間的な関わりを築きたいというところでは一致しているわけです。この部分で私たちの教育哲学は一致するのではないでしょうか。ただ、神中心という縦軸が存在するのがカトリック学校なのです。私立・公立を問わずすべての教育組織には先に述べた教育哲学があり、時としてそれが教育現場に緊張感をもたらすのも事実だということも付け加えておきます。

(2)教職員と設立母体である修道会の対話

日本のカトリック学校のほとんどは修道会によって設立されました。設立母体の修道会はイエスのしたこと語ったことを受けついでいく修道会のカリスマをもち、具体的な表現形態の一つとして教育活動があります。創立者の精神はイエスの姿に結びつきます。先生方が勤務される学校に関わっている修道会は、現在どんな事柄に関心を持っているでしょうか? そのことは、修道会自身からは話さないかもしれません。修道会から先生方にコミュニケーションをするのが弱いのではないかと思われます。でもそうだとしても先生方の方から、シスターや神父さん方にそれを聴いてみたらいいと思います。

設立母体である修道会と学校の教職員との対話は実はあまりうまくいっていないといえます。「宗教法人と学校法人は別個のものだから」ということが理由だからかもしれません。けれども、修道会からは学校運営に責任を持つかそれに関わることが修道会の使命を果たすことになり、学校が会の使徒職の場であるという意識に基づくビジョンを教職員に提示することが必要でしょうし、教職員も学校が自分の人生の自己実現の場であるという意識に基づく人生のビジョンを提示して、そこで両者の使命の共有ができたら相互理解が可能となるような気がします。司教や地区の教会とのつながりについては、教会の教える務めについて教会法にも説明がありますが、基本的には同じようなことが言えると思います。

さらに最近、経営母体という言葉は使われなくなってきて、修道会は設立母体といわれるようになりました。それと同時に、修道会の学校に対するスポンサーシップのあり方が問われるようになってきました。そこで、具体的な修道会と学校のコミュニケーションの一例として次のようなモデルが考えられます。修道会は、設立母体としての権利を持っており理事会のメンバーとなります。学校内には、修道者と教職員からなるアニメーター・グループをつくります。理事会、校長、そしてこのアニメーター・グループが協力して、カトリック学校としての特性を維持・発展させる核となるように連携して活動します。

(3)「協働意識」とネットワークによる新しいカトリック学校の権威構造

次に、修道会のスポンサーシップと新たな担い手としての教職員との協力のあり方について考えてみましょう。聖書の使徒言行録に、ユダヤ人でないキリスト者に律法に基づく割礼を求めるかどうかということが問題となりエルサレム使徒会議があったことが書かれています。パウロの活躍により結論として、割礼を異邦人キリスト者には求めないことが決定さら、それがキリスト教が世界宗教となる契機の一つとなりました。そこには、イエス・キリストの教えを純粋に保持することを第一とする根本決断があったために、これまでユダヤ人の大切な伝統として守られてきた割礼を求めない決断を下すことができたのです。この出来事は、真のメッセージを大切にするために、今までの言い伝えや習慣を大胆に変えていくことの重要さを示しています。

日本のイエズス会の学校は、4つの学校に共通の幾つかの伝統があります。たとえば、授業前の「瞑目」や「中間体操」、「校内服」などはそれらにあたります。「瞑目」は授業の開始時と終了時に、生徒は目をつぶって先生の授業開始や終了の合図を待つという習慣で、「中間体操」は午前中の2時間目と3時間目の間に上半身はだかになってランニングしたりと体操をしたりするという伝統です。最近、私の学校ではシャツをきて走ってもよくなっているのですが、学校内ではこれを続けるかやめるか度々議論があります。そもそもは六甲学院が軍事教練の一環として始めたと言われています。私は、必要ならばこの伝統を変えてもいいと思います。もし学校の根本決断が揺らぐことがないならば、それに照らしあわせて今やっていることが学校の教育理念や目標と合致するかどうか識別して、それらの表現の仕方を変更することは正しいことだと思われます。それによって、学校で働く教職員は、心理的自由を獲得でき、それは創造的自由に発展してゆくと思います。それは、根本決断の刷新のプロセスでもあります。言い換えると、カトリック学校の学校の新たな担い手によって、学校の根本決断を自由に表現していくことと同義なのです。

このようなカトリック学校の過渡期にあっては、リーダーシップの所在の変化が伴うでしょう。これまでのカトリック学校のリーダーシップは設立母体である修道会が持っていました。しかし、学校の教職員の構成の変化はリーダーシップの所在の変化をも伴います。新しい学校のリーダーシップは、司祭・修道者と教職員とのコミュニケーションによって、同心円的に構築されていくことが期待されています。それは、「信徒の教会」や「基礎共同体」のイメージに類似します。上下関係と従順の原理に基づく権威構造ではなく、より共同体的な同心円的な権威構造といったらいいでしょう。ただし、霊的リーダーシップの必要性はとても大事です。学校が真のカトリック学校として「教会の一部である信仰共同体」としてあり続けようとする限り、学校の教育全体はキリスト教的な価値観に息吹かれていなければなりません。だからこの点に関しては、修道者や信者がそれを意識的に担わなければなりませんし、他の教職員はこの点について協調する必要があるでしょう。場合によっては、その部分を教区や教区司祭に協力を求めることも一案です。そうやって、学校共同体全員で、カトリック学校たる根拠を自覚し、保持することになるでしょう。一口で言うと、私たちはカトリック学校の健全な保守主義(healthy conservatism of Catholic schools)的態度を持つことが必要でしょう。

3.カトリック学校の刷新された根本決断の実践

-カトリック学校の創造的自由の獲得と建学の精神の健全な世俗化を目指して-

カトリック学校の特徴は、学校が「福音宣教する学校」であることです。そして、設立母体である修道会の霊性を表現することによって各学校は独自な仕方で「福音宣教する学校」であることができます(健全な保守主義)。そのためには、学校共同体が設立母体である修道会とコミュニケーションすることが必要となるでしょう。以上がこれまで述べてきたことの要点ですが、このセッションでは、実際にカトリック学校で働いている教職員が、いかなるアプローチで「福音宣教する学校」を創り上げてゆくことができるか」、試論として考察を進めてゆきたいと思います。それは、「カトリック学校のアイデンティティを自分たちで作り出す」ことを意識化し実践することと同義でもあります。

(1)カトリック学校のアイデンティティの成長 教育理念の今日化

学校から修道者の姿が見えなくなってきて、カトリック学校のアイデンティティが問題となってきました。多くのカトリック学校では、教職員自身も自校がカトリック学校でなくなることに不安を感じているというのが現状です。また、学校によっては、これまでのカトリック学校としての「ブランドイメージ」は残しながら、カトリック学校としての特色を薄めていく傾向も見られます。カトリック学校の看板を下ろすところもでてきました。しかし、カトリック学校は、教会から離れたらそのカリスマがなくなり、カトリック学校でもなくなります。

現代社会にあるカトリック学校のアイデンティティは、カトリック学校の刷新された根本決断に基づく健全な世俗主義(healthy secularism of Catholic Schools)に基づいて更に堅固なものとされることが期待されています。カトリック学校の建学の精神を大切に保ち、それに対する思いを深めると共に、それを学校で働いている人々で表現してゆきながらカトリック学校のアイデンティティは深められてゆくのです。カトリック学校の思いを表現することを通して、学校に勤める教職員と生徒は自らの学校の歩みに確信を抱くことができるし、学校の外の方々からもそれがカトリック学校であると認められるでしょう。

今はこのようなプロセスを通して、自分たちでできるカトリック学校の新しい特徴を自分たちでつくり出していく時です。あわせて、生徒をとりまく環境が変わったら教育も変わるべきで、時代にあった現実に即した指導方針を必要としている時でもあります。この作業の主人公は、信徒と非信徒の教職員なのです。そうすると、それに応じた新しいカトリック学校の雰囲気(school atmosphere / school culture)ができてくるでしょう。

(2)教会の所有する5つの教育手段 [2]

カトリック学校のアイデンティティを明確にし、School Cultureを創造しようとするとき、「教会の所有する5つの教育手段」というアイデアはきっと参考になると思います。教会は次のような5つの教育手段を持っていて(house)、これらを相互に有機的に用いながら、宣教内容を実質的に伝えることができると考えられています。

①コイノニア(koinonia) 「共同体的な交わり」のこと。さまざまな種類、レベル、規模の共同体作り。相互を結びつける者は「愛」である。さまざまな形の相互関係は、信頼関係を構築し友情関係を作る。このような感覚は、宗教的センスや霊性、信仰の基盤となることが期待される。

②レイトゥルギア (leitourgia) (*ラテン語でリトゥルギア/ liturgia)「祈り」。祈りは神や他者、そして自分自身に対する関心である。祈りを通して、他者の必要性を考え、神の意志を見いだし、また、自分自身の思いに気づいたりする。特に思春期には、抽象的思考能力の発展も伴い、祈る体験を通して世界に実在する、それまで気づかなかった事柄を見いだしていくことができるようになる。

③ディダケー (didache) 「説教」。キリスト教の信仰について組織的に語り、教えること。「カトリック研究会」や宗教行事でなされる「説話・福音的勧告」もディダケーである。

④ケリュグマ (kerygma) 聖書や神学(信仰の内容と形式)を学問的に教えること。いわゆる宗教科の授業がこれに当たる。たとえば、聖書のメッセージを解釈し、説明する。

⑤ディアコニア (diakonia) 「奉仕活動」。イエス・キリストの姿に、彼らが従うことが期待されている。もし、生徒がキリスト教的価値観を身につけたら、彼らはそれを実践することができるだろう。宗教科の授業で学んだ知識、カトリック研究会や宗教行事で身につけた宗教性、祈りを通して神の自分への期待を知ることと他者への関心、そして生徒間や教職員との友情や信頼関係が、生徒の現実の行動につながるように。

(3)カトリック教育の実践に有益な心理学・教育法(Pedagogy)を利用すること

カトリック教育は特別な教育法(Pedagogy)を持っているわけではありません。むしろ、「最新の」と言われるものを含めてあらゆる教育法をカトリック学校は用いることが薦められます。生徒の教育のための方法として何を使ってもよく、むしろカトリック学校は自らの教育哲学や理念、それに内包される教育の目的が大事なのです。それに従えば、カトリック教育は、生徒の人間性の領域に関わっていくことまで求められるので、それに相応しい教育法を採用することが望まれています。

ロヨラのイグナチオがイエズス会学校を始めた時代は、ルネッサンスの時期でした。彼は教育理念を持っており、その実現のために当時普及しはじめていた新しい教育法を採用し、それが現在にいたるイエズス会学校の教育法の基礎になりました。イグナチオは理念を大切にしましたが、それを実現するためのアプローチは何でもいいという自由さを持っていました。それと同じように、現代のカトリック学校でも自らの教育理念を実現するために有益な現代の教育学者の教育法を研究して応用すればよいでしょう。特にカトリック学校で働く修道者や信徒の割合が低下する中で、非信徒の教職員がカトリック学校の特徴を今後も推進してゆくために、カトリック学校の教育理念を今日化することに寄与する教育法を採用することが今後重要になってきます。そして、このような実践こそが、学校の教育理念を表現することと同義となり、それによって自他共にカトリック学校としてのアイデンティティを深めることが可能となるような方策を発見したいと思われます。以下で、参考となるいくつかの教育法をご紹介いたします。

①ハワード・ガードナーの多重知能論 (Multiple Intelligence)[3]

a)多重知能論は、伝統的な学力観を否定する。MI理論では、IQ測定に主に利用される言語的知性と論理学的知性に加え、空間的知性、身体運動的知性、音楽的知性、そして人格的知性と呼ばれる心的知性と対人的知性の7つの主な能力を認める。

b)多重知能論は、教職員が生徒一人ひとりをよく知ることに依拠する。→生活の背景、長所、短所、興味、好み、不安、経験、目標などを知る必要性。

c)生徒の最新のプロフィールによって教育的決定がなされるべき。

d)真に理解することによって行動が変わる。

e)教職員が想像力豊かで、生徒の多様性を認めることが必要。

②ネル・ノディングスのケアの倫理に基づく教育理論 [4]

a)教職員が生徒を世話すること、生徒が他者やモノをケアすることを大切にする教育観の実践への招き、男性的倫理観一辺倒な世界に女性の視点を入れる。

b)教師と生徒、生徒間で互いにケアすること、モノをケアすることをとおして信頼関係を創造する。ケアすることは相手を傷つけないこと。

c)生徒同士が互いにケアすることに価値を見いだせば、次第に自分たちの生活様式は自分たちが知らない他の人々の生活様式にどのように影響を与えているか関心を持ち、社会的次元でもケアできるようになることが期待される。

d)世話しようとする精神は学校の内在的カリキュラム(implicit curriculum)。

(3)ダニエル・ゴールマンの心の知能指数論 [5]

a)EQとは、Emotional Quotient の略称。EQは、IQ(知能指数)を補う、別の視点から人間の能力を見るための指標(数値なし)。原著のタイトルは Emotional Intelligence。

b)前出のガードナーのいう人格的特性(心的知性と対人的知性)を重視し、特に人間の情動(emotion) を中心に人間の能力を描く。

c)自分や他人の怒り、不安、悲しみといった感情を肯定的に消化できるか。

d)モチベーション、希望や目標保持、集中力は自己と他者に肯定的影響を与える。

e)共感できることは大切であり、そのために情動の動きは重要。各人の持つ情動の動きは親子関係、友人関係、職場関係で他者へ影響を及ぼす(社会的知性)。

f)他者に共感することを教えることで、生徒は衝動や怒りをコントロールでき、自己認識能力や人間関係能力を高めることができる。

g)望ましい情動の動きを学ぶ場を家庭に期待できない以上、地域社会は子どもたちの情動、社会的能力の欠如を矯正する役割を学校に期待するしかない。

(4)ジェームス・ファウラーの信仰発達理論 [6]

a)社会学や心理学の視点からも信仰について理解でき、宗教教育の意義、人生における宗教の役割を理解する手がかりとなる。

b)人間の全生涯から見た思春期における、信仰の発達状況や役割を知ることができる。

c)「回心」といわれる体験による人間の成長のプロセスや意義を知ることができる。

d)ただし、キリスト教でいう「恩恵」による信仰への招きは、それが超自然であるがゆえに予期しえない経験を人間にもたらす。

むすび

学校の目的は生徒一人ひとりを育てることです。その生徒がもっとも幸せになるように育てることです。それが「ひとりひとりを大切にする(personal care / cura personalis)」ことです。学校にはいろいろな生徒がやってきます。知的なケアを求める生徒がいます。解けなかった数学の問題が分かったことに喜びを感じ、個人的にある先生の指導を受けることを望む生徒もいます。クラブ活動を生きがいとする生徒は、クラブ顧問の指導を喜んで受け入れます。学校にはいろいろな先生がいます。このように知的なケアを得意とする先生、クラブ指導が得意な先生、生徒の相談相手になることの得意な先生など。それぞれの教職員が得意な分野を活かしながら働けて、そこで教員自身も生きがいを感じることができるなら、私たちにとっても最高の幸せといえるでしょう。

たとえば、上述した「教会が所有する五つの教育手段」や「カトリック的教育に有益な心理学、教育法」で紹介した教育法を見て、自分であれば、あるいは自分の学校であれば、どれを実践できるか考えて実行してみてはいかがでしょうか。しっかりとしたカトリック学校の教育理念があれば、それを実現するアプローチは各人、各校、千差万別です。

これからは、各教職員が主人公となって、自らが働くカトリック学校の特徴を作り上げることに参加することが強く求められています。そのために、個々のカトリック学校の設立母体は、創立者の精神を提示し続けることを通して霊的息吹(spiritual capital)を供給し続ける責務があり、同時に教職員がそれを自由に理解し実践することを認める姿勢が期待されています(healthy conservatism)。現場で働く教職員は、そうやって継承された教育理念に新たな今日性を加味し、自らが実践できるアプローチでそれを可視化することが期待されています(healthy secularism of Catholic schools)。そのためには、設立母体である修道会と現場の教職員がコミュニケーションをとりながら冒険することになりますが、そのような弁証法的試みをとおして「創造的自由」が生まれてくると思われます。このように学校を活き活きと働ける場所にすることは、チームを作ってカトリック学校の使命を果たすことと関係があります。

以上


[1] ①Anthony S. Bryk, Valerie E. Lee, and Peter B. Holland. Catholic Schools and the Common Good. Cambridge: Harvard UP, 1993.  ②James Youniss and John J. Convey, Catholic Schools at the Crossroads: Survival and Transformation. New York: Teachers College Press, 2000.  ③P. H. コルベンバッハ「現代に挑戦するカトリック教育」『神学ダイジェスト』、88号、2000年。

[2] Maria Marris, Fashion Me a People: Curriculum in the Church, Ky.: Westminster John Knox, 75-163.

[3] ハワード・ガードナー『MI:個性を生かす多重知能の理論』、新曜社、2001年。

[4] ネル・ノディングス『学校におけるケアの挑戦』、ゆみる出版、2007年。ノディングスについては、次の研究から多くを学んだ。佐藤恭子「教育におけるケアリング再考-メイヤロフのケアリング論を中心に」『カトリック教育研究』、26号、2009年、39-52。

[5] ダニエル・ゴールマン『EQ:心の知能指数』、講談社、1996年

[6] James Fowler, Stages of Faith: The Psychology of Human Development and the Quest for Meaning, N.Y.: Harper One, 1981. 西脇良「J. W. ファウラーの信仰発達理論に関する文献研究」『カトリック教育研究』、15号、1998年。同「J. W. ファウラーの信仰発達理論をめぐるその後の研究動向」、前掲書17号、2000年。

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