中3 自分がイヤになるとき好きになるとき

中学3年生の「総合」の時間の「心の働き」というシリーズのなかに「自分がイヤになるとき自分が好きになるとき」という授業があります。

その授業の一番最初の作業は「現代こき下ろし言葉辞典」。生徒たちに「自分をあるいは他人をこき下ろすときに使うことばをあげて」とたのみます。「こきおろすってなに?」ってきかれることもあるけれど、とにかく「自分てなんて××なんだ」「あなたってどうして××なの」っていうときの××にあたることばだと答えます。

もっともよく使われるのは「ばか」かな。関西だと「あほ」ということになるかも。どじ、まぬけ、あんぽんたん、だめということばから「あなたなんていないほうがいい」「じゃま」から「死んだほうがまし」とかずいぶんきついものもあります。

どういうのが言われたときにダメジが大きいか?というように問いかけてみるのもいいでしょう。たぶん「自分の存在自体を否定している」のがもっともきついのではないでしょうか。

次にB8くらいに切った小さなカードを1人6〜8枚くらい配り、そこに「どういうときに自分が嫌いになるか」を1枚にワンポイントずつ書いてもらうように頼みます。 紙は横置きで横書き、名前は要らない、みんなが書いたものをシャフルして誰が書いたものかを分からなくしてから、そのまま全部読み上げるので、読む人が恥ずかしくなるような品の悪いことは書かないようにといいます。全部集めてシャフルして2つの山にわけ、交互に一枚ずつ取り上げて読んでいきます。

「鏡を見たとき」「体重計にのったとき」「試験で悪い点を取って親に叱られたとき」などなどのカードを読み上げるたびにどっと笑いが起きます。

「朝起きて鏡を見たら髪の毛がはねていた」
「試験中ちょっと一休みのつもりでベッドに横になって、気がついたら朝だった」
「パパとケンカをしてパパを怒鳴ったら、パパが落ち込んでしまった」
「自分の血をたっぷり吸った蚊を取り逃がしたとき」

こんなカードが読み上げられると、生徒たちはいすから頃が落ちんばかりにわらいころげます。私はそういう「ばかうけ」カードは別にしておき、次のクラスでするときに何気なく混ぜておいて読み上げるようにしています。

そして「自分がイヤになるとき」なんてほんとはクライテーマだよね。なのになぜそんなにおかしいのか?」と問いかけると何かに気づく生徒がいます。

今度は「自分が好きになるとき」です。 まず「現代誉め言葉辞典」づくり。「かわいい」「かっこいい」「きれい」「スタイルがいい」など外見によるものが多いのは女の子の特徴かもしれません。

「どういう誉め言葉がいわれてもっともうれしいか?」と問いかけ、「それを意識して人にもいえるようになると「誉め上手」になるよ」といいます。さきほどの「こきおろしことば」のダメジの大きいことばの逆になるでしょうか。つまり、存在そのものを認められたとき、「あなたがいてくれてよかった」というようなたぐいのことばがあげられると思います。

誉め言葉がたくさん上がったら「自分が好きになるとき」というのをまたカードに書いてもらい、同じように全部読み上げます。

今度は生徒たちは明らかに受けねらいのことを書いてきます。自分の書いたものが皆にどのように反応されるかを気にしだします。

「テストでいい点を取ったとき」「親に誉められた」「後輩の注目を浴びた」「自分の言ったことがまわりに受けた」なんていうのから 「朝起きて鏡を見たら二重だった」「彼から好きと打ち明けられた時」とかいう「ばかうけ」ものもあります。 気になるのは「そんなときはありません」「いつも自分が嫌いです」というのがけっこうあることです。 なかには

「自分は真剣に悩んでいたことを書いたのに、皆に笑われてしまい、何だか救われたような気がした」
「自分は思いつかなかったことを誰かが書いてくれて、そういうことってよくあるなとおもった。思いだした人がえらい!」
「自分が何気なく書いたことが思わず受けたことがうれしかった」
「結局それを書いた人を笑っているのではなく、その人と同じようなところがある自分を笑っているんですね」

というような「うがった」気づきも生まれます。 次の授業までに「自分がイヤになるとき好きになるとき」の「すし詰めプリント」をつくります。粗く分類して番号を付けて箇条書きにして書き連ねていきます。

jibunsukijibuniya

そのプリントを配るとまたまた「興奮」します。「何番を見てみて、これおかしい」というようなことばが行き交い、その度にみんなからどっと笑いが起きます。 私はこう言います。

このプリントは傑作です。中3のみんなの感性がうみだす福音(Good News) ものです。自分が落ち込んでいるときに読むと元気が出るという人もいます。それからご家族の人にも見せてください。友だちにも見せてください。このプリントが、それを読む人にはとてもおかしがられ喜ばれます。これを書いた人たちへいとおしさと読む人に幸せを運ぶよい Good News になっていることを知るでしょう。

ひととおり読み終わった後に、いくつかの詩や文章を読みます。 私がもっとも好きなのは、シュルツの「スヌーピー」のマンガです。 アントニー・デ・メロの「変わってはいけない」「たんぽぽ」の文章もいいなと思います。(いずれもアントニー・デ・メロ著「心の歌」女子パウロ会刊)

この時間は「総合」の時間なのでここまでは言わないけれど「宗教」の授業なら、このスヌーピーのマンガのライナスの言ったことから、あるいは、『変わってはいけない』の最後の『神さま、あなたはこんなやり方で私たちを愛してくださっているのですね」という神さまの人に対する愛し方が現れていると言います。

さらに「自分が好きになるための3つのクスリと健康法」を紹介します。

その1 称賛(誉められる)という名の精神疲労痔の栄養補給剤

その2 ユーモア(笑われる)という名の解毒剤

その3 「愛される」という名の特効薬 ただし副作用あり

そのいずれもが「受身形」であることに気づきます。 だから 誉められたいなら 誉めなさい 笑われたいなら 笑いなさい 愛されたいなら 愛しなさい 情けは人のためならず、なんです。
さらにこの授業の「結論」です。それは「健康法」なのです。

God doesn’t make junks.

「junks はガラクタという意味です。ジャンクフードなんていいますがこれは文字通りの『駄菓子』です。神さまはガラクタを作られない。神さまが作られたものはみんな一つひとつが最高傑作であり、駄作や失敗作はあり得ない」という意味を持っています。 つまり、「この私もあなたも神さまの作られた最高傑作なのですよ」ってことです。「神を信じる」ってことは「こんな自分も神のつくられた最高の傑作である」ということを信じることができるってことですね。きっと。

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終わりに

終わりに

私の「宗教・倫理」の授業の話しはまだまだつづくけれども、このあたりでひとまず止めておこうと思います。

最後にひとこと言っておきたいことがあります。これらの授業実践の多くは、じつは「宗教倫理教育担当者ワークショップ」で紹介されたものです。それを聞い たほかのメンバーが自分なりにアレンジして自分の学校で実践し、その結果を持ち寄って更に改良を重ねて積み上げてきたものです。

こういう授業研究と実践交流の場があるということが、現場で試行錯誤している「宗教倫理」の担当者たちにどれほどの支えとなっているかということを最後に 述べて、話しを終わります。

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高3「愛と性を考える」

カトリック女子校に勤める男子教員が「愛と性」を女子生徒に説くのは大変難しいでしょう。それは女の子たちの心の地雷原を歩くようなもので、地雷に触れると爆発して大変なことになります。 しかし、これは避けて通れない教育場面なのです。

何回かこれを試み何度か地雷が爆発して傷ついて、最近ようやく地雷に触れずに、しかも男子教員にしかできない「愛と性」の教育を編み出すことができまたような気がします。

まず1時間目授業の前半は「恋愛について」書かれた文章を読むことにし、後半でこの「恋のシナリオづくり」を生徒にやってもらうことにしました。 「恋愛について」という文章として選んだのは

「恋愛なんかやめておけ」(松田道雄著 筑摩少年図書館)

「恋愛は失恋と別離を生む」(亀井勝一郎著 『青春論』所収)

「男から女へ」(大宅歩著『詩と反逆と死』所収)

「思春期 デート」(山本コウタロー著 朝日新聞社『生きてある日々』所収)

あるいはさだまさしの「恋愛症候群」「新恋愛症候群」をきくこともある。

いずれも男性の立場からの恋愛論です。女性の立場からの恋愛論は私のスクラップブックには当時なかったのですが、その後「恋愛論」(柴門ふみ)を紹介したこともありましたが、なかなか適当なものが見つからなくて………。

そして後半の「恋のシナリオづくり」のワークシートを作成しました。当時まだワープロはなく、手書きの文字でプリントを作りました。そこにはこういう設定が書かれていました。

【作業1】ひとりひとりがシナリオライター

ボーイフレンドとデートをした。お茶を飲んで、映画を見た帰り。所は渋谷公園通り。彼がささやく。
「今夜はかえりたくない。きみのこと愛してるよ。いいだろ。 今日読んだプリントの感想、自分の気持ちを代弁してくれた文章、心を揺さぶられた、カチンと来た部分があったら、それをあげ、どうしてそうなのかを書き記しなさい。 その返事と以下につづくセリフを考えてみてください。
【作業2】上の問題がどうしてもできない、あるいはひとことで終わってしまったという人のための予備の作業。

【作業2】は【作業1】をどうしてもできない人のための「予備の作業」でした。みな【作業2】を選んでしまうかもしれないという危惧はあったのですが。それでもいいことにしました。

しかし、【作業1】は猛反発を食らいそうな気がして不安だったので、それを実施する前の晩に、知り合いの若い女子大生に聞いてみました。「こういうことをしてみたいのだけれど、どう思う?」とプリントを渡して読んでもらいました。 彼女はそのプリントをじっと読んだあとにこういいました。

「至さん、このセリフ言ったことないでしょう。これ男のセリフじゃないわよ。」 「えっ!」私ももう一度読み直して気がついた。 「男だったら、『今夜はかえりたくない』ではなくて『今夜は返さない』あるいは『今夜は返したくない』じゃないのかしら」 「なるほど。そうだよなあ」 はからずも私の経験不足が露呈した。 「でも、いいんじゃない。私もこういうのを書いてみたいし、ほかの人が書いたものを読んでみたい。こういう授業を受けてみたかったわ」

これで決まりました。しかし、もうプリントは全部印刷してしまったし、作りかえるのはもったいないし……………。いいやこれでやろう!ということにしたのです。 今から思うとかなり大胆な試みです。あのころの私は本当に恐いものしらずでした。

さて、いよいよ授業です。 まず「恋愛論」のプリントを読むことからはじめました。黙読して、印象に残った部分にアンダーラインを引いてもらいながら読むように指示しました。

そしてだいたいひととおり目を通したころを見はからって、「恋のシナリオづくり」というプリントを配りました。 そのプリントを見た生徒は「え〜! なにこれ。こんなことを書くの?」という反応が表れます。その反応はプリントが教室全部に配られるとともに、クラス中に広がっていきました。

「今日は、みんなにシナリオライターになってほしい。」といって、配られたプリントに書かれていることを読み上げました。

「名前は書かなくてよろしい。ということは、誰が何を書いたかは詮索しないということだ。自分の考えていることと異なった展開になってもいい。経験のある人は自分の経験に即してリアルに、経験のない人は想像力を働かせてリアルに仕上げてほしい。どうしても書きたくない、あるいは書けないという人は先に配った『恋愛論』を読んでの感想を書いてください。」

ここまで説明しても生徒たちはなかなかシナリオづくりに着手しようとしない。そこで、思い切って次のような話しをしました。

「実はこの作業をするにあたり、みんながこういうことをするのに対してどう思うか不安だったので、知り合いの若い女子大生に相談してみた。彼女はこのワークシートを読んで、『至さん、このセリフ言ったことないでしょう。このセリフは男のセリフじゃないわよ』と言ったんだ。なぜだかわかるかい?」

生徒たちはもう一度プリントを読んで、まわりの人とひそひそ話をはじめました。「男だったら、『今夜は帰りたくない』ではなくて『帰したくない』だわよね」という声が聞かれます。

「そうなんだ。男のセリフは『今夜は帰したくない』もしくは『帰さない』だというわけである。はからずもわたしの経験の未熟さがばれてしまったというわけだ。彼女は続けてこうも言った。『でも、いいわ。やってみなさい。私もこういう時のセリフを考えてみたかったし、他の人がどういうことを書くかとても興味ある。この授業を受けてみたい』とまで言ってくれた。 「とは言ってもワークシートはもうすでに印刷してしまったし、恥を忍んでこのまま出すしかないと思って、そのまま配ったというわけである。このセリフをそのまま生かしてもいいし、男のセリフに変えて書いてもいい。」

私が自分の恥を忍んでこの話をしたことによって、生徒たちは、「そんなら書いてやってもよい」という気になったようです。ペンを持つ手が動きだしました。

誰かが「不倫の恋にしてしまおうかしら」とボソッとつぶやくと全員がどっと笑います。書き進めていくに従って、「どうしよう。私止まらなくなっちゃった。」という声がでてきて、またどっと笑います。

そろそろ書き終わったかなという頃になると、あちこちで書いたものの交換が始まりました。前の生徒をつついて、黙って自分の書いたものを差し出す。自分のを読ませてあげるからあなたのも読ませてという意味です。

そして交換したものを読んでけたけたと笑って返します。なかにはさらに横の生徒やまわりの生徒と交換がつづき、教室中が騒々しくなっていきました。 チャイムが鳴って時間になりました。

「この次の授業で何人かのシナリオを読み上げるから、どうしても読んでもらいたくない人はその旨どこかに書いてください。じゃ、後ろの人、集めて。」

この授業は、その後毎年行うことになるのだが、シナリオづくりのワークシートは一番最初に作った手書きのものを使うことにしています。つまり、毎回、私の恥をさらすことになっていて、生徒たちも「それだったら書いてやってもいいか」という気にさせているのに役立っていると思うのです。

授業が終わって、さっそく生徒たちがどのようなシナリオを書いたのか、ちょっとハラハラしながらシナリオを読んでみました。あんがい真面目にこれを書いていてくれて、ちょっとほっとした感じです。

学年全体で170名の生徒がこの作業を行ったのですが、そのうち140名くらいが作業1のシナリオづくりをおこないます。この割合は毎年変わりません。そしてシナリオを書いた生徒のうち、「YES」の答えをして、ネオン街に消えていく展開をするのは1割足らずで、9割がこのボーイフレンドの申し出に「NO」と答えます。この割合も毎年変わらないようです。

「YES」の返事をしたなかにはあきらかにおちゃらかす感じの応答をするものもある。ここではそれは問題としない。そういう反応をする気持ちもわからなくはないからです。

問題は9割の「NO」の返事をしたシナリオの「NO」の理由です。大半が「明日学校があるから」「まだ高校生だから」あるいは「家がうるさいから」という理由なのです。

こういう理由をあげてことわると、男につっこまれるセリフがつづきます。「じゃあ、学校がない日ならいいのか?」「どうして高校生だといけないんだ」あるいはなかには「オレよりも家族のほうが大事ということだな」というセリフも生まれてくる。そうつっこまれて口ごもってしまい、みずから作った受けごたえに自ら窮しているという感じのものも少なくありません。

かと思うと、このセリフを言われたことがあるのではと思うようなリアルな展開になっているものもあります。 生徒の書いたシナリオの中から、次の授業で発表するものを選び出し、さらに「こういうセリフを言われたら、男はひるむのではないか」という「名セリフ」を抜き出してプリントにして、次の授業に臨みました。

さて「愛と性を考える」シリーズの2回目の授業です。 まぜ、前回のシナリオづくりに協力してくれたことへの感謝の意を伝えることから始めます。そして前述したようなシナリオづくりの全体の傾向を報告し、さらに生徒の書いたシナリオのうち、シナリオとして良くできたものを読み上げます。 たとえば次のような作品である。

♀:何が?(笑ってはぐらかす)
♂:なにがーって………。今夜は帰りたくない、いや帰したくないって言っているんだぜ。
♀:それで?
♂:朝まで一緒に過ごそうーと。
♀:つまり? (笑って相手をのぞき込むように)
♂:つまりーって、おまえわかっているんだろ。オレたち男と女だぜ。どうしていつもそうやってはぐらかすんだ。
♀:(真面目になって)私、イヤなの。あなたとのつきあいが、それだけになるのがイヤなの。
♂:そんなことないさ。どうしてそんなふうに考えるのさ。愛しているんだから、オレは。
♀:ううん、そういっているのは今だけよ。そのうち会えばそれだけになってしまう。そんなきがするの。だからイヤなの。あなたとのつきあいがそれだけになってしまうのが……………。
♂:おまえ、すいぶんマジに考えていたんだな………。
♀:ごめんネ。決してあなたを愛していないとか、そんなんじゃないの。自分を安売りしたくないの。自分を大切にしたいのよ。
♂:そうか………。わかった。オレの考え方があさはかだったな。
♀:(にっこり笑って)さあ、もう帰ろう! 電車なくなっちゃうもんね。………気にしないでね。でも、私の考えをわかってくれてありがとう。

女:え、どういうこと?
男:きみが欲しいんだよ。
女:困るわ。だって私たちつきあい始めてまだ3か月よ。わたしまだ、何の心づもりもできていないし。
男:でもオレはもう我慢できない。君を愛しているんだ。
女:愛しているって、どういうふうに? 私の何を愛しているというの? 男:君のすべてを愛している! 君のことを大切に思っているよ。
女:私のことを大切にしてくれているのなら、どうして私を抱きたがるの? 男:どうして! 君を抱くのは君を愛しているからさ! それとも君はぼくの愛を疑っているのか?
女:……あなたの愛はエゴイズムの愛よ。小さな子どもがおもちゃをほしがるのと同じ。私、あなたのことがもう信じられない。(泣く)
男:ごめん。君を悲しませるつもりはなかった。でもオレは不安なんだよ。君が他の男の所へ行ってしまうのではないかって………。だから、オレは君をオレのものにしたかったんだ………。ごめん。もう帰ろう。(二人が歩き出す。)………。 {家の前で)でも、これだけはわかって欲しい。オレは君を愛している。
女:ごめんなさい。私もちょっと意地はっちゃって………。私も反省しなくっちゃ。おやすみなさい。
男:おやすみ。また電話するよ。

女:でも、私たちはまだ若いし。他にもしなければならないことたくさんあるし。もっと清く正しくおつきあいしましょう。
男:きみはぼくを愛していないんだね。
女:そうじゃなくって。私たちはまだ自分たちですべてを判断して行動できるほど、大人じゃないと思う。だから、感情だけに流されて、後でよく考えて後悔する、そういうパターンになりたくないだけなの。
男:そんなことあるはずがないじゃないか。ぼくときみにかぎって………。必ずきみを幸せにするよ。
女:ほんとうに?
男:ほんとうさ。ぼくはウソなんかつかないよ。きみを真剣に愛しているからこそ………。
女:そうよね。私たちの愛はホンモノよ。若さゆえのあやまちなんかじゃないわよね。
男:そうさ。
女:うれしいわ。

女:本気で私のことを愛している。
男:ああ。
女:私もあなたのことを愛しているわ。他のどの人よりもあなたのことしか見えてこない………。だから、つらいのよ。
男:えっ?
女:怒らないで、聞いて欲しいの。すごく大切なことだから。恋愛もそうだけど、お互いの秘密の部分を持っているからこそ、いつも会うたびにドキドキして新鮮で。盛り上がっていくものだと思うの。でも、いつか終わりが来るし、いつか別れの時が来る。あなたのすべて、私のすべてを知ったあとに、何が残るのかしら。すべての満足を得たあと、私たちに何が残るの? もちろん否定するのがいいか、肯定するのがいいかわからないわ。ただ、すべてが満たされたあと、残るのは何かしら。別れよ。 私はあなたのことを愛している。本当に愛しているからすべてに臆病になれるし、すべてを慎重になる、本当に愛しているから何もできない。そう、もしかしたら、このままで別れることになってしまうかもしれないけれど、このまま別れる方が、満たされたあとに、飽きやお互いの欠点、醜さを見いだしたあとで別れるよりもずっといい。あなたを愛しているから、私は真剣だし、おじけづいているし、私、まるで中学生みたいにどきどきしているもの、ははは、愛してる。本当に愛している。 でも、帰るわ。あとはあなたの判断にまかせる、すべて。

たぶん、このシナリオを読んだ時だったと思う。ひとりの生徒がそわそわして、ひどく照れくさがっていた。無記名で書いてもらっていたので、こちらも誰が書いたシナリオかはわからなかったのだが、その生徒の反応は自分が書いたものであることを隠せなかったようである。
その生徒は、じつは生徒指導上でしばしば問題となる生徒であった。文化祭などにも男子高校生を連れてきたりして、この面でも目立つ「かるい」生徒でもあった。 その彼女が、このようなシナリオを書いたのが意外というか驚きでもあった。
まわりの生徒にとっても、ふだんから「かるい」子と思われていた彼女であるが、こういうシナリオを書いたことによって、その生徒を見る目が一変したのである。
卒業するまえにその生徒は、私にメッセージを送ってきた。「この倫理の授業は忘れられません。まさか私のものが読まれるなんて。作文でも何でも私は先生に自分の書いたものを紹介されたことなどいちどもなかったのですから。あれからみんなの私を見る目が変わったような気がします。」

上のようなことをもし私が言われたなら、どうするだろうということが頭でいっぱいになりました。さまざま考えた結果、私はそのときの私の状況、彼の状況、二人の仲の深さが関係すると思いました。もし、私が遊び半分でつきあっているなら、かりに彼が本気で愛してくれていてもわたしは「NO」ときっぱりいえるでしょう。もしデート、二,三回目くらいの仲でそういわれても「NO}。

やはりかるい気持ちでついて行くことはできないです。 お互い深く知り合い、理解し合って、愛し合っていた時にそれは自然と来るものであり、すんなりと入っていくことができると思うんです。男が自分の体を欲することが愛のすべてではないと思うんです。もし、本当に自分を心から愛してくれるならその分だけ私を何よりも大切にしてくれるんじゃないかと思うんです。 だから上のセリフは状況によって答えが変わってきます。もし上の男性がそれまで私を大切にしてくれていて心から愛してくれて私も心から彼を愛しているなら[YES」と答えます。

このシリーズの終わりの授業で生徒に書いてもらった感想に、こんなことを書いた生徒がいたことを紹介する。「言い得て妙」というべきかもしれない。

「この授業は幻滅です。なぜなら、恋人と一番盛り上がっていいムードの大事な時に、先生の顔を思い出してしまうからです。」

この冗談とも本気ともつかぬ感想を紹介すると生徒はどっと笑う。しかし、このことは、ムードに流れて自分を見失ってしまいそうになる時に、この[倫理]の授業を思い出すことによって、それが少しでも「抑止力」となる、あるいはふとわれに返るきっかけとなるなら、もっとも実践的な効果のある[倫理]の授業となったということではないだろうかと考えることにしている。
さて、次は「名セリフ集」である。次のようなプリントにして生徒に配る。毎年、その学年の「名セリフ」を付け加えて、バージョンアップしてきた。

1.あなたのこと好きだから大切にしたい

女:私だって一緒にいたい。でも怖いの。
男:なにが?
女:許した後に捨てられるんじゃないかということが。こんなこと言ったら怒るかもしれないけれど。
男:そんなことない。正直に言ってほしい。
女:あなたのことすごく愛しているから、大好きだから、ずーっと一緒にいたい。だから今の雰囲気を大切にしたいの。よくあるでしょ。許した後にわかれてしまうってカップルって。そういうふうになりたくない。

2.今は二人で一緒にいるだけでいいの。

女:どうしてデートするだけじゃ駄目なの? 今日は一日中一緒にいたのにどうしてそれだけじゃいけないの?
女:あなたが私のことをそんなふうに思っていたなんて………。余りに突然で何を言ったらいいのか、どうしていいのかわからないわ。少し私の気持ちを整理するために時間がほしいの。だから今夜は帰らせて。
男:わかったよ。君がボクの気持ちに応えてくれる日をずっと待っている。
女:私はこのままで充分なのよ。あなたが好きだし、あなたも私を好きでいてくれるんでしょ。

3.結婚するまではいやです。

女:どうしてそんなに焦るの。別に今夜でなきゃいけないわけでもあるの。それに万一のことを考えて、結婚を前提にした交際でなきゃいやなの。
男:そんなこと言ったってまだおれたち学生だぜ。結婚なんて………。
女:それじゃあ、あきらめるのね。それに今夜は絶対に無理よ。

女:あなたが私のことを愛してくれているなら、私の言うことをわかって。私は結婚または婚約していないうちに、男の人と二人で夜を明かしたくないのよ。これは私のポリシーとして曲げられないことなの。

女:でも私たちまだつきあって3週間だし、もっとお互いのことよく知り合う方が先よ。
男:君は古風だ。堅いよ。
女:そうよ。それは知っててつきあってくれているんじゃないの? 私はね、昔から結婚まではって決めてるんだから。

4.わたしってそんな軽い女じゃないわ。安っぽくそんな言葉口にしないで。

女:でも、私たち、そんないい加減な気持ちでいままでつきあってきたのかしら。あなたの口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
男:ごめん……。男なんてそんなものなんだよ。でも君のこと思っているからなんだよ。
女:ごめんなさい。私こそ言い過ぎだったわ。でも雰囲気に流されるのはよくないと思わない!?
男:家までおくっていくよ。君の言うとおりだ。僕がどうかしてた。

5.結局男ってみんなそうなのね。女は受け身でも愛情と情欲の区別は知っているの。

女:好きなことは好きだけれど、まだ愛していないもの。それなのに、すぐ肉体を求める即物性には幻滅だわ。
女:女の人は愛情と情欲の区別を知っているの。少なくとも今のあなたは、この二つのことを混乱して考えているんじゃない。
男:そんな、誤解だ。僕はただ君のことを愛しているから………。
女:愛情を自分の欲望の言い訳にするようなマネはやめてちょうだい。
女:私もあなたのことを好きよ。だけど、今だけ愛されて、あきられて捨てられるのイヤよ。捨てられるのはいつも女………悲しいけれど、女は一度愛されると、どうしても離れたくなくなるのよ。それで男のほうが離れていく。そんなつらい目に会うなら愛さない方がいいわ。
女:私そういう不誠実なことがだいっ嫌いなの。だいたいね、結婚もしていない男女がそんなことして肉体的にも精神的にも打撃を受けるのはいつも女なのよ。男はいいわねえ、いい加減なこといっていい思いをしていればいいんだから。

6.あなたとのつきあいがそれだけになるのが嫌なの。

♀:私嫌なの。あなたとのつきあいが、それだけになるのが………。決してあなたを愛していないとか、そんなんじゃないの。自分を安売りしたくないのよ。自分を大切にしたいのよ。

女:ただね、このままいっちゃうと、これから会うとき、それだけを求めて会うようになりそうで嫌なの。

女:こわいのよ。自分が自分でなくなりそうで……。

7.その他

女:めんどくさいのよね。そういうのって。わかる?

前に、こういうケースでことわる理由には、圧倒的に「明日学校があるから」「親がうるさいから」という理由が多かったということを述べました。このような理由で言い逃れるのではなく、自分の考えと自分の意志とで拒否することをすすめたいわけです。
上記の文中に「私のポリシーとして曲げられない」という表現がありました。「ポリシー」という言葉を聞いて生徒たちは笑いますが、確かにこれは一つのポリシーなのかもしれないと私は思います。だから自分の明確なポリシーを持つようにとすすめているのです。モラルとかいうことばよりも「ポリシー」の方が適当な表現なのかもしれません。

もしも、ボーイフレンドからこのように言い寄られたときに、この「倫理」の授業の「恋のシナリオ名セリフ集」の一つでも思い出すことができたら、この授業の効果が表れる、まことに実践的な「性教育」であるのだと思いませんか。

ところが、この授業は高3では遅すぎると言われています。もっと早い時期にこのようなことをしなければならないのです。でも「シナリオ書き」は中学生には難しいでしょう。中学生にはどのようにしたらいいのか、いい案が思い浮かびません。 さらにこの授業は、少し古くなってきて、今の高校生のセンスとのずれも感じないでもないのです。さらなるバージョンアップが必要です。

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高3「アウシュビッツと現代」

高校3年生にする「アウシュビッツと現代」という一連の授業の流れを気に入っています。

まず、一回目の授業は「夜と霧」という名のビデオを見ます。簡単にこのドキュメント映画の歴史的背景を説明してから、このビデオの上映になります。

このビデオはフランスのアラン・レネ監督が1955年に作成しました。第2次世界大戦中に。ドイツがユダヤ人などを強制収容し、大量死の舞台となった場所のドキュメントフィルムで構成されています。 大量の死体をブルドーザーで埋めているような凄惨な場面が出てきて、これを見た生徒のなかには保健室に行くような生徒も出てきますが、それでも見ます。30分くらいの映像です。

2回目の授業では、ビクトル・フランクルの「夜と霧」という文章を読みます。この文章はアウシュビッツを生きながらえた精神科医の体験記録です。私はこの文章を読む前にこう生徒にいいます。

この文章はきわめて読みにくい、三重苦を背負った文章である。
ひとつ目の「苦」はこの現実が醜い。この前見たビデオが映し出した現実について書かれている。
二つ目の「苦」は。原文のドイツ語が難解である。ドイツ語特有の表現がいっぱいである。
そして三つ目の「苦」は翻訳が読みにくい。
しかしそれでも読む勝ちのある読まなければならない文章だと思う。それはこの本が、こういう過酷な現実の中にいても生きることのすばらしさを説き、希望とか自由とか人間の尊厳とか信仰とかの本当の価値とすばらしさを表現しているからである。醜い現実のドロの中にきらっと光るダイアモンドのきらめきを見つけるからである。
この本はこの三重苦のゆえに、ひとりで読むと必ず挫折する。だから集団でよまなければならない本なのである。

三回目の授業では、このドキュメントフィルムを見たアメリカの高校生たちの話しから生まれた小説「ザ・ウェイブ」を読みます。といっても全部ではなく抜粋を読んでいきます。
原作はアメリカの高校が舞台ですが、ドイツが最近この小説を映画化しています。
この映画を見た生徒たちはどうしてこんなことがドイツで起きたのか信じられず、アメリカでは決してこういうことはおこらないだろうと述べました。
そこで歴史の先生がある実験授業を思い立ち、かれは実際にこの高校にファシズム的な状況をつくりだしてしまうのです。
この映画の中でこの動きに抵抗する新聞部の生徒がいました。小説は彼女の生き方を追っています。

四時間目は、この新聞部の生徒と同じように、ファシズムに抵抗した若い女性を紹介します。「白バラは散らず」のソフィー・ショルです。

彼女が書いたチラシ「白バラ通信」の原文を読みながら、この抵抗運動を紹介します。最近「白バラ抵抗運動」の映画が再び公開されました。この映画も感動的な映画だと思います。

5時間目は、ファシズムに抗した人たちの生き方を紹介します。「シンドラーのリスト」のシンドラー、スウェーデンの外交官ワレンバーグ、コルベ神父、ドイ ツ福音主義教会の牧師でヒトラー暗殺計画に加わり殺されたディートリヒ・ボンヘッハーや日本人の杉原千畝らを映像を使ったり、文書を読んだりして紹介しま す。

第6回は「ファシズムはどうして生まれたのか」というテーマで、アドルノの「権威主義的性格」や日本の「大政翼賛運動」などを紹介し、現代にもファシズムが生まれやすい 状況があることを説明します。

第7回は最後の授業です。 「荒野の40年」(ヴァイツゼッカー演説から)を読みます。ドイツの大統領としての演説の中から「過去に目を閉ざすものは現在に盲目とな る」「心に刻む」ということを読みとっていきます。

こういう一連の授業である。生徒たちのこういう悲惨な歴史の中を生きぬいててきた人たちの生き方を紹介し、人間の尊厳を理解してほしいと願って組んだ授業である。

社会科の授業ならば、こういう歴史の過酷な現実と流れを紹介し、それが生まれた社会的背景を理解するのが目的の授業となるでしょう。しかし倫理の授業としてはこういう歴史を生き抜いた人の生き方と思想を紹介するのが目的となります。

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中3 自己発見ワークショップ

中3には、クリスマス前に「自己発見ワークショップ」という名の1日プログラムがあります。 生徒に一日プログラムを紹介すると、生徒は「え〜っ」という反応をしますが、おそらく6年間の学校生活の中でももっとも忘れられない一日になるはずだと説明をします。

3つのプログラムから成り立っています。毎年少しずつ異なったプログラムになるのですが、私は担当するときは、

第1部 似顔絵コンクール

第2部 ラブレター交換会

第3部 講演 在日外国人の話を聞く

というようなプログラムで行っていました。

第1部は、6人のグループ作業です。グループでお互いの似顔絵を描きます。うまい人、下手なひといろいろいますが、どんなに下手でもどこか似るものです。一人には自分以外からの5人の似顔絵が集まります。こういうチャンスはたぶん生涯この時だけでしょうね。

書き上がったら、5人の自分の似顔をもらって台詞に貼り、グループのみんなにみてもらって、もっともよく表現できているものを選びます。それを集めて、クラス全員のものをB4の台詞に貼り、印刷して終了時に配布します。

第2部は、名前を言うのも気恥ずかしい「ラブレター交換会」です。便せんを6ページ分閉じておきます。机を凹の字にならべて一重につながるようにして、全員に便せんを配ります。まず自分の名前を書いて隣の人に渡します。そこからスタートです。

便せんの1ページ目の一番下に「便せんの名前のひとにあてて、ラブレターを1行で書いていきます。

『あなたの………はステキです』『あなたの魅力は……… です』『あなたの………にひかれます』『あなたが………してくれたことはとてもうれしかった』など1行メッセージを一番下の行に書き、自分の名前を書きます。

書いたらそれを折り返して次に書く人が見えないようにクリップで留めて右隣の人に渡します。だいたいひとり1分くらいの時間で書いて、合図があったら隣にまわします。

「マイナスになることを書いては行けません。名前が書いてあるのでだれが書いたかわかります。それから『あなたはこうでなければステキです』みたいな書き方をするのはルール違反です。相手が喜ぶようなメッセージをあげてください。」

こうやって、クラスの全員が、自分以外からの全員のプラスメッセージを受け取ります。これも生涯こんなことは普通だったら体験できないことです。

苦労するのは、こういうのを書き慣れていないために書くのが遅かったり書けない子がでてくることです。クラスで書くのがいちばん遅い子に合わせなければなりません。早く書けても次にすぐに渡さないように、合図が合ってから書き出すようにすることが大切です。そうしないと書くのが遅い生徒の前で滞留してしまいます。

全員が全員の分を書き終わって自分のものが戻ってきたら、「合図があるまでまだあけないでね」といいながら机を元の位置に戻し、深呼吸をして心を落ち着けてから一斉にあけます。

折り目がたくさんついていて、くしゃくしゃになった感じですが、そのしわを伸ばしながら読んでいきます。 そうすると、教室内を暖かい風がふわーっと駆け抜けていくような感じがして、大騒ぎになります。

「うそー」とか「誰こんなの書いたの」とか書いた人のなまえをよび「ありがとう」とかいう言葉が飛び交います。

「今日もらったものはおそらくみんなの生涯の宝物になるとおもうよ。落ち込んだときにこれを見たら元気が出てくると思うし。どういわれるのが一番うれしいかということを意識してご覧。それを今度は人にしてあげたらいいんだよ」

こんなことを言った後に、生徒一人一人にこれを受け取って感じたこと考えたことをひとことずつ発表してもらいます。 ほとんどの生徒が『うれしい』とか『サイコー』とか言いますが、なかには「こんなの自分じゃない。みんな私をかいかぶっている」なんていうのもでてきて、みんなからブーイングを受けたりする子もいます。

第3部は、在日外国人の人の話や外国で活動した日本人の話を聞く。そういう人たちの目で見た日本と日本人について語ってもらうことにしています。生徒たちにはけっこうショッキングな話しも多いようです。

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中3 「放蕩息子」をどう読むか

「放蕩息子」の聖書を読み、簡単な解説を加えた後にする作業です。対象は中3女子生徒。

作業は「放蕩息子」の話に登場する人物のうちひとりを選び、その人物になりきってその日の日記を書こうというものです。弟、兄、父、雇い人、(この話には出てこないけれど母親、妹でもよし)のうちの誰かの日記です。

案外オススメは雇い人でしょうか。この話を客観的に見ることができるから。 時間は20分くらいです。 次の時間にうまく書けているものを数点読み上げます。

とりあえずひとりを選んだ場合の結果です。中3の女子生徒たちは誰を選んだと思いますか?  兄を選んだのが100人、弟が29人、使用人が23人、母と妹が3人ずつという結果になりました。 兄がダントツなのですね。 これには考えてしまいました。

そこで生徒の書いた日記をいくつか紹介しましょう。

【雇い人の日記から】

あれから何年たったのだろうか。だんな様から財産の分け前を勝手にもらって出て行ってしまい、どこへ行ったのか連絡もしないで……………。もう、どこ かで死んでいるのかと思ったぐらいだ。

うすぎたない格好で最初は誰かと思ったんだ。今頃どうしてこの家に戻ってきたのか、私だったらぶん殴ってやるだろうに。

それなのにだんな様はとてもうれしそうにうけいれた。しかもあんなに大事にしていた仔牛を屠られたなんて、私にはだんな様が理解できない。

かわいそうに、お兄さんの方は今までずーっとまじめに働いていたのに、不平等だ。なぜなんだろう。私には理解できない。

あの放蕩息子はこれからまじめになるのだろうか。だんな様は死んでいたのに生き返ったといっていた。しかしあの放蕩息子が昔と変わったというのだろう か。また昔みたいに自由でワガママな暮らしをするんじゃないだろうか。心配だ。

【雇い人の日記から】

今日ご主人様の下の息子がかえってこられた。与えられた財産のすべてを食いつぶしてしまったのだから、もう息子としては扱われないだろうな、と思っていたが、ご主人様はいなくなっていた息子が見つかった!と喜び、仔牛を屠って祝宴を開かれた。

なんて心の広いお方なんだろうと私は思った。 私だったら、息子が遊びほうけて、財産をすべて使い果たしてしまったことを烈火のごとく怒るだろう。 それなのに歓迎してやるとは……………。

上の息子さまの気持ちもよくわかる。ご主人様にあんなによく仕えておられたのに自分には何もしてくれないで、遊びほうけていた弟のためには祝宴を開い てあげるなんて、怒られるのも無理はないと思った。

でも、今は兄の方も機嫌を直しているからきっとご主人様が説得されたのだろう。 なんだかんだといってもご主人様はどちらの息子も可愛がっておられるに違いない。これからは親子3人で仲良く暮らしてもらいたいものだ。

【兄の日記から】

まったくおれは何という弟を持ったことだろう! まだ父が元気だというのに財産だけ奪って出て行ってしまった。親不孝にもほどがあるというものだ。おまけにむこうでは遊び暮らして無一文になったとい うではないか。その上どこかの農家の豚小屋で豚のえさを食って生活していたというではないか。

我が家の家の名を汚すふとどきものだ。おれはあいつを血の つながった弟とは思わない。村に出るのが恥ずかしい。

父も父だ。遊び暮らしていたあいつが久しぶりに帰ってきたからといって、あんなに喜ぶとは。 だいたい不公平だ。毎日こつこつ働いているおれには何にもしてくれないで、あのバカがよれよれになって帰ってきても祝ってもらえるなんて……………。

思えば昔からそうだった。父は弟とおれがけんかしてあいつが悪いのにいつも叱られるのはおれだった。

奥の部屋からにぎやかな声が聞こえてくる。思えばあいつのあんなにうれしそうな顔を見たのも何年ぶりだったか。あんなぼろぼろの服を着ていたが、どんな生活だったのだろう。一日ほとんど食べられない日もあったことだろう。辛くて惨めだったに違いない。

考えてみたらおれも大人げない。弟がひとりで苦労していたあいだ、おれには温かい家族があったわけだ。 せっかく戻ってきたのだから、おれもいって祝ってあげることとするか。

【兄の日記から】

今日どこにいたかわからなかった弟が帰ってきた。父さんは一生懸命に働いてきた私にはしたことがないような祝いをした。私は弟が憎らしい。

なぜ私だけ がこんな目に遭うのだろうか。まるでわたしはバカみたいではないか。弟も苦労したらしいが、はっきり言ってそんなの自業自得だ。勝手にどこかで飢えよう と遊んでいた自分が悪いのではないか。まったくふざけた話だ。

だいたい父さんも父さんだ。甘やかしすぎだ。だからあんな弟になるのではないか。バカげてる!

だが待てよ。もしかしたら私もどこかに家出して帰ってきたら父さんはわたしに仔牛をごちそうしてくれるだろうか。 そうだ。こんな家、出てやる。そして今までやっていた仕事をすべて弟におしつけてしまえ。そうしたら私がどれだけ苦労してきたかがわかるだろう。父さ んにも私がいないとどれだけ大変かわからせてやるさ。ハハハ!

そうと決めたら気分がよくなった。今日はこのまま寝ることにしよう。

【弟の日記から】

今日ぼくは自分の生まれた家に帰ってきて、今自分の部屋の自分のベッドで横になろうとしている。父さんはずっとぼくの部屋に手をつけないでおいてくれ たらしい。不思議に素直な気持ちだ。こんな安らかな気持ちはなんてひさしぶりなんだろう。

それにしても今日は意外なことばかりだった。 ぼくは遠い国から二目と見られないほどみすぼらしい格好でかえってきたのに父さんはただ抱きしめてくれた。信じられない、どうしてゆるしてくれたんだ ろう。

ぼくは自分のおかした罪の大きさを知っている。父さんだってわかっているに違いない。それなのになにも言わないで、責めないで、ただただ喜んでくれ た。ぼくはこれでいいのかという不安さえ浮かんだ。

けれど実をいうと、父さんがぼくを愛しているという喜びの方がずっとずっと大きい。これは今まで感じ たことのないようなうれしさだ。 ぼくはこれから老いた父の片腕となって働きたい。自分は本当はゆるされるべき人間ではないということを覚えていよう。そうしてもうふたたび金にかどわ かされるような生活は二度とかえらないと決心しよう。

ただひとつ気になることは兄さんのことだ。兄さんは怒って当たり前だ。そうするのが本当だ。 でもこのままでは兄さんとうまくやっていけない。そうなれば父さんが悲しむだろう。ぼくは自分のこの気持ちをどう伝えればいいのだろうか。

この授業の話を吉山神父の神学講座で話したところ、「それは放蕩息子をとりあげる一番いい方法かもしれない」とお褒めの言葉をいただきました。 「でもできたら、好きな登場人物をひとりだけ書くのではなくて、弟または父の日記は必ず書くようにしたらいい。とくに弟の気持ちになりきるとこの話がもっともよくわかるのではないか。」 という助言をいただきました。

このように聖書の登場人物になって「日記を書く」というのは聖書をより深く理解するためのとても言い作業だと思います。「ぶどう園の労働者」や「マルタとマリア」の場面でもやってみるとおもしろいです。

以前「聖書を主題とする創作パーフォーマンス」というのを中3で行ったことがありました。聖書の中の有名な場面といくつかあげておいて、それを読んで紙芝居、影絵、スライド、演劇、ミュージカルなどを創作して演じることを授業でしたことがあります。 それをビデオにとってありますが、これは生徒も面白がって取り組んでいて、なかなか興味ある作品ができました。おそらく私の「宗教」の授業の中でもっともおもしろいものとなったと思っています。

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中3 イエスのここが好きここがきらい

中学3年生の「宗教」の授業では新約聖書を読みます。そのはじめの方の授業でこういうことを試みることにしています。題して「イエス・キリストのここが好き、ここが嫌い」。

生徒の半数は小学校でキリスト教についてみっちりおしえられてきているし、全校ミサやその他の時間に聖書の話をきくチャンスは結構多いので知識はかなり持っているはずです。

それにもとずいてイエズス・キリストのイメージについて自由にださせようと思って、紙を配り、「上半分に『イエズス・キリストのここが好き』というところ、下半分に『イエズス・キリストのここが嫌い』というところを思いつくままに書いてごらん。もちろん無記名」と指示しました。

最初は「本当に書いていいのですか?」という質問さえあったくらいです。 それには、「私も含めて信じている人がいるのだから、あまり冒涜するようなのはやめてほしいな」と釘を刺したのですが。 それを集めてそのまま全部読み上げていく。 生徒は書くわ書くわ、実に自由に書きたいことを書いてくれました。それらを読み上げるたびに、爆笑につぐ爆笑。中にはイエズス・キリストを冒涜するものと怒りたくなるものもあったのですが、そこはおさえて苦笑いしながら読み上げていきました。

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「イエズス・キリストのここが嫌い」というところでいちばん多くあげられたのはどんなことだか想像してみてください。私にはまったく思いもつかないことでしたが、よく考えてみればなるほどと思わせるものです。それは、「えらぶっている」「威張っている」というのであります。 読み上げつつこちらも一言ずつ言いたくなってきました。

「私は人と違うと威張っている」(なるほどそうか)

「私は神の子だとすぐ自慢する」(どこが?)

「命令形でいったり、親に『ですます調』で話す」(なかなか聖書を読んでいるじゃないか。そんなところあったな)

「自分が一番だと人に考え方を押しつける」(そうか。そんなふうにうけとっているのか)

「自分がすべてだというところ」(そんなこといってたかな)

「よくわかんない比喩を出す」(うーむ)

「まことにまことに私は言うなどという」(なるほど、確かに偉そうな言い方だ)

「自分の母親にむかって『婦人よ』などとよそよそしい」(カナの婚姻の所か、なかなかよく知っているな)

「生まれてきたときから偉大な人というのがわかっているところ」

「イエズスだけが神様に特別扱いされていてずるい」

「カッコつけている」

これにはすっかり考えさせられてしまいました。実際にイエズスという人はそんな尊大な人ではなかったはずです。もっと親しみやすく、優しい人であったはずなのに、彼女たちにそんなイメージを植え付けてしまったところに大きな問題がありそうです。 聖書の表現の仕方にも問題があるのではないでしょうか。あるいはそれまでの教え方がなにかそのような先入観をつくり出してしまったのかもしれません。

さてつぎに多かったのは、なんと「イエズスは不潔だ」というのです。「きたならしい」とか「汗くさい」とか「ほこりっぽい」とかいうのでう。 中でも「長髪で汚らしい感じ。シャンプーしてあげたい」というのには、満場爆笑。生徒は椅子からころげおちんばかりにして笑いこけていました。

この茶目っ気というか、このセンスというか男の子には決してないものだろうなと思いつつ、私も思わず吹き出してしまいました。 今の女子中学生の清潔過敏症候群の現れでしょうか。(そりゃ、砂漠の中を旅から旅への生活をしていたのだ。それにシャワーやシャンプーのない時代だし、水だって貴重だったのだ。汗くさく、ほこりっぽいのは当り前じゃないか)後になってこう言わなければいけなかったと思ったのですが後の祭り。そのときは生徒の笑いに圧倒されてよく思いつかなかったのが悔しかったです。

意外に多いのが「ウソっぽい」ということ。

「出生からしてうそくさい」

「本当に実在したという決定的な証拠がない」

「奇跡を起こしたなんてますます信じらんない」

「罪人に優しい手をさしのべてしまって、怒りの心をもたず、すこしいらだつ」

「その時代の一部の人にだけ奇跡を起こした」

というのまで、実に率直な感じを表現していてうらやましくさえ感じました。。 そのほかにもなんとも反論できないような妙にうがった見方もありました。

「私たちの心をしりすぎている」

「男だったところ。女だったらいいのに」

「マザコン」

「前もってしっていたはずなのに裏切りをそのままにしておいたところ」

「12人の弟子はみんな男だった」

「後生のことを予言して夢がない」

「けっこう気が短く、時に暴力をふるう」

「人々の前にいまこの時代にこそ現われてほしい」

「笑ったことがない」

「途中で天に昇らないでもっとながくまでいて完全に平和な世界にしてほしかった」

そういわれればなるほどその通りだというものや、そういう見方も確かにできると思うことも少なくない。

それでは逆に「イエズスのここが好き」というのをあげてみましょう。量としてはこちらの方が少なく、思いもよらぬというものが少なかったようです。

で、一番多かったのは、「すべてのものを愛する」というような所であったのには安心しました。

「男尊女卑や民族差別を嫌い、平等を貴ぶところ」

「罪人に優しい(だから私にも優しい)」

「いつも共にいてくれるところ」

「悪いところでもぜーんぶゆるしてくれる」

「外見にとらわれずに手をさしのべてくれる」

「小さい子が好きだったところ」

「女の人に優しい」

「世界のすべての人を見守ってくださる」

「自分をはりつけにした人々を許せるなんて、とても寛大で優しい」

なかにはこんなミーハーな所もあるが、まあそれはそれとして許してあげることにしよう。

「不思議なおかた。きれながの目」(そんなことどこにも書いてないぞ)

「ヘアースタイルがかっこいい。三つあみにしてあげたい」(勝手にしろ)

「りりしい」(うん、うん)

「手を広げている校庭のイエズス像」(あの像はなかなかかっこいい)

「クールでよろしいんじゃありません」(なんだ、その言い方は)

「ハンサムすぎてにくい。女性に優しくて持てすぎるところ」(ねたむな、やくな)

その他にもこんなのがあって、考えさせられてしまった。

「2000年たっても教えがすたれない」

「庶民的で親しみやすい」(こういうふうにみている人もいるんだぞ)

「会食をよくするところ」

「女じゃないところ」

とまあ、こんな調子で私の新約聖書を読む「宗教」の授業は始まったのです。これを読んでどのように思われたでしょうか。

一部には「ふざけている」「冒涜である」と怒られる方もあるかもしれないが、女子中学生の持つ自由さ、想像力の豊かさ、おおらかさ、率直さ、茶目っ気に圧倒される思いであっした。男の子には決して思いつかないとコンプレックスさえ感じさせられたものです。

私は彼女たちが持っている「偉ぶっている」というイエス像をなんとか変えていきたいと思いました。だからあえて、イエスの「説教調」の教えを読むことを避けて、イエスの人間的な側面を強調するところを集中的に読んでみました。

「イエスの泣いたところ、怒ったところ」をあえて拾って読んでみたり、たとえばペトロだったらペトロの登場する場面を拾い読み、ペトロの性格や生まれ、育ちを想像してみたりして、弟子たちの人間像を描いてみたりしました。

ユダを想像するときには太宰治の短編小説「駈込み訴え」を読んだりもしました。

このような聖書の読み方は彼女たちにはとても新鮮であったようです。考えてみれば、いままで私たちは聖書を余りに堅苦しく読みすぎていたのではないかと思われます。

あまりに倫理的な教えの書、誤りのない完璧な書として読んでいたのではないでしょうか。「聖典」としてありがたいものと奉って読んでいたが故に、「正しい解釈」に固執するあまり、矛盾しているところのつじつま合わせばかりして読んでいたような気がします。 もちろんそういう側面がないわけではないが、それは信仰を持つものの読み方ではあっても、信仰を持たない女子中学生には反発とイエズス嫌いにしてしまう結果を招くだけのような気がするのです。

もっと自由に率直に、感じたこと考えたことをありのままに表現していく中から、発見すること、気づいたことを大切にしたいものだと思いました。わからないところは無理してこじつけることなく、わからないとしていい、ここはおかしいと思うところ、許せないところがあったら、それはそれとしてどうしてそうなのかを意識して表現することによって、逆に生き生きとしたイエズスと出会い、何かを気づいていくのではないでしょうか。

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中3「怒り」という感情

「感情」シリーズの「怒り」というテーマも興味あるテーマです。

最初に「怒り」を表現する日本語のリストの穴埋め作業をしてもらいます。 「………を踏んで悔しがる」「………をたてる」「………天を衝く」「………の虫が煮えくりかえる」「………をおこす」などなど、日本語の怒りの表現はとても豊かです。

最後に聞く質問は「人はどういうときに何のために怒るのか?」です。 「人からバカにされた」「裏切られた」「思い通りにならないとき」………とかたくさん上がります。なかには「私はめったに怒らない』というひともたまにいますが………。

結局大きな理由は二つあることに気がつきます。ひとつは「自分が相手から不当なことをされたとき」他の一つは「相手が自分の想うとおりに動かないとき」です。 別な言い方をするなら「自分が正しいのに被害者になっていることを訴える」ためと「相手がまちがっていることを認めさせようとする」ためなのですね。それ以外の「怒り」の理由が見つからないことを発見します。

その「怒り」の対象はいろいろです。相手だったり、第三者だったり、あるいは自分自身にむけられていたり、ときには社会全体だったり、自分の運命だったりします。相手の場合にはケンカになったり、犯罪になったりします。自分や自分の運命に怒りがむかれれると「自殺」に至ることもあります。

この「怒り」が内にこもって蓄積するとこわいですね。それは「うらみ・つらみ」や怨念になって、つまりルサンチマンとなって蓄積します。それが爆発すると、犯罪や暴動になったり、テロになったり、社会的な事件となります。 歴史を動かす大きな原動力はこのルサンチマンにあるといわれています。フランス革命もロシア革命も戦争もほとんどのものは民衆のルサンチマンから生まれたものだといわれます。

このテーマは「怒りの健康的な処理方法」を示して終わります。 さらに「ゆるし」というテーマとつながっていきますが、それはまた別の学年で扱います。

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中3「感動のメディアカタログ」

中学3年の「総合」の授業の「心の働き」という授業は、「感情」というテーマをおって授業をします。 たとえば「楽しみと喜び」「怒り」「感動」さらに「自分がイヤになるとき」「生きがい」というふうに展開します。

まず「感動」というテーマの授業について説明しましょう。 この授業では「感動のメディアカタログ」というものを生徒に作ってもらいます。B5判の用紙に書式を印刷しておいたものをくばり、次のように説明します。

最近感動したものを一つ紹介してください。読んだ本、見た映画やビデオ、音楽CD、コンサート、体験したことでもいいし、メディアはといわないから、とにかく感動したものを一つ選んで、それをこの書式に従って紹介して。

内容紹介の所は文章で書いてもいいし、イラストを入れてもあるいはコピーしたものを貼り込んでもいい。 このまま4分の1に縮小するから、あまり小さく書くと読めなくなるし、薄い鉛筆でかくと鮮明に印刷されないし、写真もコントラストのはっきりしたものでないとうまく印刷されないから注意してくね。

生徒が提出してくれたものをまとめて4分の1に縮小、B4判1枚に8点を両面印刷して、生徒に配ります。 kandomedia2 配ると生徒達はむさぼるようにそれを読み出します。そして「これ、い〜い」「私も見た、見た」とか「これ、読んだけどそんなにおもしろくなかった」とかめいめいに言い出します。

あるいは、「A子、これ読んだ?」「どれどれ?」「〜番のやつ。」(そういうときのために書かれたものにはそれぞれ番号がふってあります。)こういう会話が教室中に飛び交い、さながら興奮のるつぼになります。 もうそれだけで1時間分の授業になります。

ある学年では、リストの中に数多く紹介されているビデオをみなで見たこともあります。

これをすると、中学3年生の感動するもののリストができあがるのですね。おそらくこれはこの世代の感性が発信できるもっとも良質の Good News なのだろうと思います。

なかには、この世代だけに読まれるような小説が多く出てきます。20年前ならそれは「アルジャーノンに花束を」という小説でした。おとなの世界にはけっして浮上しないでこの世代に受けつがれて読まれてきて、ミリオンセラーになった本です。これが読まれ続けた背景には尾崎豊という歌手の存在があるそうです。

20年前には三浦綾子の「氷点」や「塩狩峠」も毎年上位に来る定番ものでした。それがいつの間にか消えてしまい、また最近になって少し出てきていますが………。

つい4,5年前には「西の魔女が死んだ」「夏の庭」「バッテリー」「ハッピーバースデイ」それから外国ものでは、アレックス・シアラーの「青空のむこう」などの本が上がります。いわゆるヤング・アダルトものです。

わたしは、このリストにあるものを図書館や生徒から借りて出来るだけ読むようにしています。図書室にないものは注文して取り寄せてもらいます。 「西の魔女」のなかの一節をプリントにして、生徒と読みあったこともありました。

中高の学校図書室でこれらの本を探してみてください。もし見つからなかったら本の選定基準が生徒の関心からずれていると言ってもいいかもしれません。

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中3 神さまの話

中3の「宗教」の時間に「神さまの話」というのがあります。 私が中学校の時のイエズス会学校での「倫理」には「偉大なる人間」とかいう名の教科書がありました。これの冒頭は「神の存在の証明」という単元からはじまりました。トマス哲学風の「神の存在の証明」をとくとくと聞かされたことがあります。男子校にはこういう理屈っぽく迫ることは有効かもしれませんが、現代の女子校ではそういうのは通じないと思います。 snowflake

どんなことからはじめるかというとポール・ギャリコというアメリカの女性作家が書いた「雪のひとひら」という小説の抜粋を読みます。ポール・ギャリコという人の有名な作品は映画になった「ポセイドンアドベンチャー」でしょうか。「ひとひらの雪」というと渡辺淳一の不倫小説になってしまいます。

この小説は、女性の一生を「雪のひとひら」になぞらえて語っていきます。神さまが出てくるのは終わりの部分だけですが、いつも暖かい何ものかに見守られているということを述べています。自分の一生がいつも誰かのために存在してきたことに気づき、自分を見守りつづけた存在を知るのです。 そして最後に天から神さまが「雪のひとひら、よくやった。さあ、おかえり」と呼びかけるのです。

これを読んだあとに、「神さまの話」という「問いかけ票」に自分の考えを記入してもらいます。それには次のような質問が出ています。

1.神さまのイメージ?(イラストも可)

2.もし神さまがおられなかったら?

3.神さまを信じる人と信じない人はどう違う?

4.神さまがいるはずなのにどうして?

そして、生徒が書いてきたものを次の授業までに「すし詰めプリント」にします。生徒の出してきたものから、神さまについてよく書かれたことやユニークなものを1枚のプリントにできるだけたくさん詰め込みます。イラストもとてもいいです。

このなかに「神さまがおられるはずなのに」という質問があります。ここもとても大事な質問です。 もちろん生徒の中には「神さまなんていない」と思っている生徒もけっこういます。そういう生徒にも考えや疑問を述べさせるチャンスです。「神さまの存在を押しつけているつもりはない」ということを示している質問のつもりです。

もっとも授業でこれらの疑問に答えるつもりはありませんが、そういう疑問があることを意識する必要があります。

それを読んだあとに、「私はそこにいます」というアメリカのJ.D.Freeman という人の書いた詩を読みます。この詩は「永遠の彼方から」というタイトルで日本教文社から発行されている本に収録されていますが、今は絶版です。

この詩は、生徒たちが最初読むとえらぶっている人が上から目線でものをいっている傲慢さを感じるらしいのですが、「私」が神さまなんだ、この詩は神さまの視点から作られた詩なんだということを納得するとそれが感動に変わるのですね。

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中2「何とかしなくっちゃ」ポスターづくり

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中学2年の『倫理」の授業で「今何とかしなくっちゃポスター」づくりをグループでします。そのテーマ選びから、表現方法、表現内容などを皆で相談しながら、5時間分の授業を使って行います。倫理科ではこういうグループ作業を多く取り入れようとしています。

まず最初に「テーマ選び」です。「今何とかしなくっちゃ」というテーマをひとつ選ぼうといってグループで考えます。それを黒板にどんどん貼らせて、そのなかから自分のグループで取り上げるテーマをひとつ選びます。

つぎにそのテーマに関するアイディアや知識を出しあいカードに書いて、KJ法ふうにまとめていきます。更に資料集めです。写真やデータ、絵やイラストを集めあるいは自分で書き、それをまとめます。

まとめるときに、現状の実態、どうしてそういう問題が起きるのかという分析、更にこうしたらいいという改善案というふうに整理していくといいとヒントを出します。

次に資料集めを皆で分担します。絵や写真、メッセージなどを集めます。 そしてそれらを1枚のポスターにまとめていきます。写真やイラストのコピーを使ってもいいとしています。

全部が出来上がったら、学年全部のグループの作品を展示室に掲示して、全員でよくできたものを評価して、優秀作品を発表表彰します。

これをすると、生徒たちが今何を問題と思っていて、それに対してどういう考えをもっているのかということが少しずつ分かってきます。時代を反映してそのときの社会問題がよく現れてきますが、たとえば「自殺」「いじめ」「少子化」とか「学力低下」などの自分たちの問題を生徒たちがどうとらえているのか、そこを探るのに興味深い作品が出てきます。

この作業をとおして学ぶことはなにか。

第1に現代のモラルの問題に対する理解です。「いじめ」や「自殺」などの問題にたいする倫理的効果は、講義や読み物で教えるよりもすっと効果があるはずです。 第2にお互いの理解です。生徒同士がこの問題をどう考えているのかということを理解することができます。 第3にグループ作業の良さを体験し、それをクリエイティブに取り組んでいく協働のしかたを身につけます。倫理科ではこれを大切にしています。

というようなことが考えられます。こちらからインプットを与えるのではなく、生徒同士からのアウトプットを次の生徒へのインプットにするわけです。「インプットは最小にアウトプットは最大に」というのは私の「宗教」「倫理」の授業の個人的なモットーです。

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中1 それで木はうれしかった

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中1の5月に一泊二日でオリエンテーション合宿があります。そのときに倫理科は毎年「それで木はうれしかった」というスライドを学年集会で見せます。これはシルバスタインの「大きな木」(原題は Giving Tree)という絵本を音響映像というところがスライド用にリメークしたものです。

20分間くらいこれを見た跡に、生徒に見て考えたことや感じたことをインタビューしていきます。「大きな木」という絵本は小学校ならばきっとどこかで読ませているでしょう。

「この木は誰だと思いますか?」という質問があります。姉妹校の小学校から来た生徒に質問すると、すぐに「神さま」という答えが出てきてしまっておもしろくも何ともないので、この問いには外部から進学してきた生徒に聞くことにしています。

すると「親」とかいう答えが多いのです。この音響映像のスライドでは木は「おじさん」になっていますが、英語の原文では「木」は She になっています。

最後に「『それで木はうれしかった』という題と日本語の絵本の『おおきな木』そして英語の原題の『Giving Tree(与える木)』という3つの題のどれがいいかな?」ってききます。皆さんはどう思いますか?

かなり多くの生徒が「それで木はうれしかった」を選びます。 「じゃあ、『それで木はうれしかった』と『それでも木はうれしかった』とどっちのほうがいい? それはどうして? どう違うのかな?」という質問をします。

この質問にこの話の真髄が表現されているように思うのですが、どうでしょうか? この絵本が示している「与える生き方」というのがこの学校でもっとも学んでほしいことなのです。難しいことばで言えば「アガペ(無償の愛)」といいます。

「教科の方針」にでてきたところの「Getting Way of Life を捨てて Giving Way of Life を実践的に喜んで生きる」なのです。

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倫理科の教科方針とカリキュラム

ここで、私が勤めていた学校の「倫理科」の「教科の方針」と「6年間のカリキュラム」について紹介しましょう。 curr1

私たちの学校には「清泉の根本精神」なるものが定められ、それにもとづいて各教科が「教科の方針」とカリキュラムを定めます。倫理科の場合これらは、学習指導要領の改訂があるたびに見直され、教科の会議で検討されます。

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カリキュラムに関しては、各学年で行われている授業の単元やテーマをカードにしてそれをマッピングしながら、どの学年で何を教えるのかを皆で検討します。

学年を横軸に、5つの分野を縦軸にしてそれぞれの単元テーマを位置づけていく作業をします。その5つの分野とは「神との関わり」「自然いのちとの関わり」「自分との関わり」「他者との関わり」「社会・世界との関わり」というもので、その分野ごとに学習方針が作られ、各学年でそれらをスパイラルに深化していくようにということで考えられています。

「根本精神にもとづいて」の中にある「周囲の人びとの呼びかけとニーズに応える」「神の内なる呼びかけと時のしるしに応えることの喜びを知っている生き方」「Getting Way of Life を捨てて Giving Way of Life を実践的に喜んで生きる」という表現が気に入っています。

「倫理科」の授業では、中1と中2では「建学の精神とキリスト教的生き方」を教える倫理、中3で「新約聖書」高1で「旧約聖書」高2が「公民科倫理」高3では「現代社会に生きる倫理」というように教えています。

では、この教科方針とカリキュラムにもとづいて、どの学年でどんなことを教えているのか、できるだけ具体的に実践的に、時間の許す限り紹介していこうと思います。これはきっと皆さんが授業をするにあたって、あるいは担任やクラブでの指導においても、きっとどこかで役に立つだろうと思います。

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福音の10の特質

福音の10の特質

「Good News(福音)」とはどういうニュースなのでしょうか? 普通の「情報」と「Good News」とはどこが違うのか?次にこのことを考えてみようと思います。 私は「情報」の教科書を執筆したことがあります。そこで「情報の10の特質」というのを紹介しました。

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1.情報は無限に創造できる。

2.情報は使っても減らない

3.情報は複製(コピー)できる

4.情報は伸縮自在

5.情報は即座に移動できる

6.表現形態(メディア)と意味(メッセージ)の二重構造がある。

7.情報は情報を呼ぶ(発信効果)

8.情報は活用されて初めて価値を生み出す

9.情報は発信者の何らかの意図を含む。

10.情報には正しいかどうかの保証はない。

これに対して「福音の10の特質」というのを考案しました。

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1.福音とは「よきたより(Good News)」である。

2.福音とはマイナスの価値を持っているものをプラスの価値あるものに変えていく

3.福音は分かち合えば分かち合うほどに価値を生み出す。人に知らせてやりたくなる「ちょっといいはなし」である。

4.福音にコピーライト(著作権)はない。どこにでも移植可能である。

5.福音は「センス オブ ワンダー」という心の動きとともにやってくる。

6.福音は逆説的(パラドキシカル)である。

7.誰もがどんな境遇にあってもその人しか発信できない、その人だけが発信できる福音をもっている。

9.福音は主体的真理(キルケゴール)である。

10.福音は回心(メタノイア)をもたらす。

どうですか? これを聞いて何を感じていますか? 何を考えていますか? ちょっと意識して心に留めて置いてください。この「福音感覚(Sense of Good News)」が宗教教育にはとても大事なのです。

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先ず初めにとっておきの Good News

先ず初めにとっておきの Good News

s4 つぎにいくつかの「とっておきの話し」をします。(実際にはこれらの話しを養成塾では紹介しましたが、ここでは私のブログでの説明に代えさせていただきます。)

「南の島に派遣された2人の靴のセールスマン」 この二人のセールスマンの「もののみかた」の違いはなぜ生まれたのか?そこを考えてみてください。

「必ず儲かる話し」 この話しは「うまい話」だけれどどこかおかしいんです。この詭弁を見破れることが必要です。

「死海で釣りをしているアラブ人の話」 前の話とよく似ていますね。これはユダヤジョーク集のなかにあります。

「?」と「!」 −Sense of Wonder

これらの話を聞いて何を思いますか? いちばん初めの授業で生徒に紹介するこれらの話しの共通点は「Good News(ちょっといい話)」なのです。 私はこれからの授業で「Good News」を伝えたいと思っています。

これは「よきたより」とか「よき音信(おとずれ)」とか訳されます。日本語には「果報」なんていうステキなことばもあります。「果報は寝て待て」のあれです。「果報者」というと幸せ者という意味で使われていました。「朗報」という言葉もいいことばですね。

キリスト教のことばでは「福音」です。イエスが伝えたメッセージは、当時の人びとには「Good News(とてもいい話)」だったから「福音』と呼ばれているのですね。いったいイエスの話しのどこが『福音(Good News)」だったのか、それをこれから勉強していきたいと思います。

教員としては仕事がら「この話しどこかで使えるな」っていう感じがするでしょう。そうです。どんどん使ってください。「福音にはコピーライト(著作権)がない」のですから。そういう話しをこれからたくさん紹介したいと思っています。もっと知りたいという人は私のブログをみてみてください。 Good News が満載です。

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一番最初しかできない不思議な授業

一番最初しかできない不思議な作業

先ずこんなことを一緒にすることからはじめましょう。 プロジェクターで数を映し出します。その足し算をして答えを一斉に言ってください。………
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え、いくつですか? 5000? 本当ですか?
そうです。正しい答えは4100です。正確に答えられた人、手を挙げてください。おや、4,5人ですね。あとはみんな間違えた。
そうなんです。これは「世界でいちばん間違えやすい計算」なのです。うそだとおもったら、ぜひ教室で生徒相手に確かめてみてください。まず9割は間違えま す。たぶん、小学生がいちばん正しく計算するとおもいます。 なんで、間違えるんでしょうね。不思議です。
実は、私はこの計算をある国際会議で行ったことがあります。英語でいいました。「Speak the answer in a loud voice at the same time!」こんな英語なら簡単です。みんないっせいに「one thousand and ten」と大きな声で答えてくれました。そして、最後に「Five thousand!」。「やったー」と思いましたよ。

「Is it true?」って聞き返すと正しい答えをいう人が現れました。ドイツ人です。彼は確信を持って「どうして5000なんだ。答えは4100じゃないか。こん な簡単な問題どうして間違えるんだ」といっていました。 そうしたらこれはイタリア人だったと思います。「いやこれは絶対に5000だ。ここに電卓があるから計算をしてみるぞ。………あれおかしいな。4100と 答えが出たぞ。これはこの電卓がおかしいのだ」ともっていた電卓を放り投げてしまいました。

私はこの「世界でいちばん間違えやすい計算」をはじめて教える生徒に必ずすることにしています。そして

『この実験おもしろーい。友だちにやってみよう。』と思う人は、私の授業を楽しくおもしろく受けることができるで しょう。ただし、他の学校の友達にやってもいいけれどクラブの先輩や後輩にはしないでくださいね。先輩たちはすでに知っているし、後輩たちには私がすると きにねたばれしていたらこまるので。

といいます。

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福音的価値観の教育 −カトリック学校の宗教教育

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まず自己紹介から

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初めに自己紹介をします。土屋至といいます。清泉女学院中学高等学校で23年間「宗教」「倫理」を担当してきました。「世界史」「現代社会」「総合学習の時間」や「情報」も教えたことがあります。

次に「宗教倫理教育担当者ワークショップ」と「宗教倫理教育担当者ネットワーク」を20年間やり続けました。カトリック学校の「宗教」「倫理」を担当する教員たちの研修会です。教員の研修としては、おそらくもっともパワフルな研修だと自負しています。

教会で「キリスト教入門講座」を担当して25年になります。

SIGNIS Japan というカトリック教会のメディア担当者の国際的ネットワークのメンバーとして「インターネットと福音宣教」を考えています。養成塾のホームページもこのグループの助けを得て私が作っています。

清泉女子大学で、教職科目である「宗教科教育法」を担当しています。

その他に「横浜のおもしろ科学たんけん工房」「きぼう日本語教室」などに関わっています。 あと「Good News Collection」というブログを作っていて、1200ページのコンテンツと毎日500のアクセス数を誇っています。 インターネットで「キリスト教入門講座」を開設するのは自分のミッションだと思っています。

一番最初しかできない不思議な作業

先ず初めにとっておきの Good News

福音の10の特質

倫理科の教科方針とカリキュラム

中1 それで木はうれしかった

中2「何とかしなくっちゃ」ポスターづくり

中3 神さまの話

中3「感動のメディアカタログ」

中3「怒り」という感情

中3 自分がイヤになるとき好きになるとき

中3 イエスのここが好きここがきらい

中3「放蕩息子」をどう読むか

中3 自己発見ワークショップ

高3「アウシュビッツと現代」

高3「愛と性を考える」

終わりに

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年間計画(2010年度 第2期)

日時        テーマ            講師(敬称略)

2010年

 5月 8日(土) 今日の問題 (懇)       河合 恒男(サレジオ会)

 5月22日(土) 宗教とは(神理解)       森  一弘(司教)

 6月 5日(土) 聖書における人間理解     杉田紀久子(幼きイエス会)

 6月19日(土) イエス・キリスト(1)    増田 祐志(イエズス会)

 7月 3日(土) イエス・キリスト(2)    梶山 義夫(イエズス会)

 7月10日(土) イエス・キリスト(3)    大原 正義
                            (ノートルダム女学院)

 7月11日(日) 教会について         森  一弘(司教)

 9月 4日(土) イエス・キリストにみる教師像 河合 恒男(サレジオ会)

 9月18日(土) 弟子・使徒職         土倉 相 (仙台白百合学園)

10月 2日(土) 教会における教育       梶山 義夫(イエズス会)

10月16日(土) 建学の精神(カトリック学校の多様性)(1)

11月 6日(土) 建学の精神(カトリック学校の多様性)(2)

11月27日(土) 学校の使命          浦  善孝(イエズス会)

12月11日(土) 宗教科・宗教行事       土屋 至 
                         (宗教倫理教育担当者ネット)

12月26日(日)~28日(火) 合宿研修

2011年

 1月15日(土) 学習・教科の位置づけ     瀬本 正之(イエズス会)

 1月29日(土) 教職員養成          水嶋 純作(日星高校)

 2月 5日(土) 生徒の成長          中尾 正信(聖マリア小学校)

                         濱田 正夫(聖園女学院)

 2月19日(土) まとめ   展望

 3月 5日(土) まとめ   展望

                      (懇)懇親会を行います。

 合宿 日時:2010年 7月10日(土)~11日(日)

      :2010年12月26日(日)~28日(火)

    場所:YMCAアジア青少年センター

養成塾スタッフ

  世話人代表 河合 恒男

  世話人   梶山 義夫・シスター杉田紀久子・中尾 正信・齊藤 一子

  スタッフ  大原 正義・小圷 洋・土倉 相・濱田 正夫・土屋 至

        森 一弘・北村 司郎

 2009年度の計画
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養成塾がめざすもの(2010年3月)

カトリック学校のカトリックらしさの継承の危機を克服し、カトリック学校を、日本社会の中で生きる子どもたちに生きる喜びと希望の光を伝える、活力ある場とする為に、信念と情熱を持った教職員を養成する場が長らく待たれていましたが、昨年度、多くの方々の声を受けて、養成塾が発足する運びとなりました。今年度もご参加をお待ちします。以下に学習の概要を示させて頂きます。

私たちはこの養成塾に於て、キリストの福音のより深い理解を求めつつ、現代社会の声に耳を傾け、そこにおかれたカトリック学校の使命を探ります。そしてその使命に応える力を学校が如何にして身につけていくかを考えます。更にこれらについて、お互いに話し合うことを通して、参加者がカトリック学校の担い手としての自覚を深め、力量を高めていくことを目指しています。

特に参加者同士が互いに与えあうプロセスを大切にしたい、と考えています。その為、本年度は2回の合宿を計画しております。

この趣旨に添うべく、以下のような項目を設けて学習していくことにしました。

1.現代の課題

2.聖書の人間観

3.キリスト

4.弟子・使徒職

5.建学の精神(カトリック学校の多様性の理解)

6.学校の使命

7.児童・生徒の成長

8.宗教科・宗教行事

9.学習・教科の位置づけ

10.教員養成

以上、直面している現実の諸問題を常に念頭に置き、分析しながら、聖書に、カトリックの伝統に、カトリック学校の伝統に光を求めます。共に祈り、考え、分ち合う中で、参加者に多くの気付きと希望が与えられ、そして参加者同士のつながりが、日本のカトリック学校を支える大きな力となっていけばと願っております。