第15回 養成塾最終回の記録

ついに養成塾の最終日である。この日、塾の「終業式、卒業式?」が行われた。

この日は塾生だけでなく、塾生たちの勤めている学校の校長先生も9人ほど参加されていて、最初にその紹介があった。

そのあと、前回宿題として出された「1年間養成塾に通って」という感想文をくじびきできめられた4人の先生が読み上げた。

●自分を教師である以上では「ああしなさい、こうしなさい」という前に教師自らが変わらないと親も子どもも変わらないものです。人に話するときは正論だけではダメでとおっしゃったことが残っています。きもちが繋がっていないと共感は得られず分かり合えないのです。
これから、カトリックの精神を、いかにして子どもだけではなく親を巻き込んで教育していくことを意図してやってみようと思っています。わたしの学校では、学校行事に親を参加させていたり、親の学習参加の機会を増やしています。この機会を利用して、カトリック教育を一緒に感じられるようにしていきたいと思っています。

●かつては神父さまがたくさん学校の中で働いていたことが当たり前の状況でした。
今は一人しかいないという状況です。そのような現状でこの先どうなっていくのか、いろいろと考えていたのですが、「光の見えない混沌」という状態でした。
この養成塾で、同じような不安、問題意識に持って参加した多くの仲間に出会えました。これが最大の収穫だったのかもしれません。
森司教のお話しを目を覚まされる思いで聴きました。責任の重さを痛感しました。福音書の背景もおもしろかったです。
河合神父の話のなかで、カトリック学校の使命について「顧客満足度」という観点から語られたの画印象に残っています。生徒達が学校の中でどれだけ肯定的経験を積み上げていけるか、ということなのですね。「回心のいろいろ」について話されたことも興味を引きました。
梶山神父は、「ナザレのイエス」とはどういうものなのかを示してくださいました。イエスの全人格的成長という観点は新鮮で、生徒の接し方や愛、温かさというところにいかすことができると思いました。
土倉先生の使徒職についての話で使徒職の責任の恐れと有り難さについて身につまされる思いで聞いていました。
中尾先生は、学校が本音で語れる場となるようにということを強調されました。
濱田先生が日々の出来事をとおして語られたことに先生の信念と情熱が感じられました。
合宿では、本音の話しをきくことができたと思います。親しい友人にも語ることがなかったことをここでは話すことができました。個人の振り返りをすることによって、ここにいてよいのだという確信と目には見えない信頼感を感じることができました。ともにイエスがおられるという感覚と同じでしょう。
浦神父の「根本決断」の話はわたしの心の中の転換点となったと思います。
土屋先生の話は、実践的でとても役に立つ話でした。とくに普通だったら話すことのない自分の失敗談から語ってくれたことがありがたかったです。
瀬本神父は学ぶこと、育むこととを掘り下げて考えさせてくれました。カトリック学校が、それぞれユニークでありながらも共通精神で支えられているということを実感しました。
水嶋先生は人を大切にするということはきく姿勢から始まることを、体験的に学ぶことができました。
どの話の中でも、現代の日本社会で光を照らす存在となること、一人ひとりを大切にし、使命を持って社会に送り出すことのカトリック学校の使命を語っていたと思います。人の物差しでなく神様の物差しを持つということでもあります。
将来を見据えたプロファイルを少しだけわかったような気がしました。根源的ささえを示すことができるようになったかなと少し思っています。
強大なものにどのように立ち向かうのかを、戦士としてではなく、愛されるもの、愛するものとして立ち向かっていきたいものです。

●今か25年前、わたしが学校にきた時には6人のシスターがいたのに、今ではひとりです。校長も替わりました。シスターが減少していくに従って、カトリック学校の精神からはなれていったという印象をもっていました。ところが最近カトリック学校のあり方をもっと強く出すべきであるという意見が出るようになりました。ミサや宗教行事をもっと大切にしたほうがいいというのです。
そのあたり、他の学校ではどうしているのか知りたいと思いました。個々の学校を越えたここでのつながりに期待していました。
新しい方向を見いだすというよりはキリスト教について何も学んでこなかったということに気付いて愕然としました。学ぶということは、知識を植え付けるよりも自分自身が成長していくことで、とくにミッションの自覚が大切なんだとということを骨身にしみて教えられました。
私のミッションとは何か、それは「社会の縮図」としての学校の中で、子どもが安心して学校で学ぶことができるようにすることでしょう。こどもも親も今より以上に満足して卒業していってほしいと願って日々勤しんでいます。

●カトリック学校の状況と使命についてのいろいろな講師の話を聴き、自分で自分の教員生活を振り返ってみました。
これまでクラスの子どもたちのためにどのように向き合っていったらいいかどうか自分なりに研究してきましたけれど、ここでの研修をとおしてあれはこういうことだったんだということが見えてきたような気がします。
そして、これまでは学校全体のことが見えていなかったと言うことも気付きました。ここでそれを考えさせられたのです。ここで学校全体を見ると言うことを教わりました。
使命ということについても、はじめは重荷を背負わされた気分でした。それは自分には無理だと思いました。でも何回かきいているうちに何となく頭の中が改造されてきたというか、整理されてきたというか、自分にも何かしらできるのではないかという気になったのです。
何がその子にとっていいのかを考える、つまり子どもを中心にして考えることは、子どもたち一人ひとりを大切にするということでもあります。ここに一つの方向性を見いだしたように思えます。
その子たちの問題を子どもの立場になって考えることは、わたしの勤めている学校の生き方です。生徒ひとりひとりを切り捨てずに、マイナスを持っていてもそれをプラスに考えていくようにすることをここでも改めて確認することができました。
この1年の塾で、やはり合宿が印象に残っています。自分に与えられている多くの恵みに気づきました。人のために働くことのよろこびも知りました。分かち合いの中で多くの先生の考えと熱意にふれました。なんかやらなければという気になりました。
こういう研修をカトリック学校全体でできないかと思えるようになったことは、1期生としての誇りなのでしょう。どうもありがとうございました。

森司教の話し「第1期 養成塾を終わるにあたって」

ちょっと本音の話をいわせてください。
あるカトリック学校の研修会に行ったときのことです。学校の研修会に外から講師を招いて行う研修会は創立以来2回目なのだそうです。どういう洗脳をするんだというふうに見られていました。
帰りがけに現場に立っているシスターが、校長になれる人がいませんかとわたしに聴いてきたのです。そこの学校には見あたらないというのです。
その話をそこの先生方が聞いたらどう思うのでしょうか。
わたしは、このシスター方は将来を見据えたビジョンというのを持っていたのだろうか?と疑問に思いました。あまりに無責任ではないかという怒りさえを感じたのです。シスター方がいなくなった後どうするのかというビジョンやプロジェクトを理事会や校長が立てていたのでしょうか。それだけの責任感があっていいのではないのかと思いました。

実は、わたしはそういう切実感を長い間感じてきました。何とかしなければという声は挙がってきていたけれど、なにも具体化しませんでした。
それが、一昨年の校長教頭会で、何かを作り上げていくビジョンがうまれたのです。学校の先生方を育てるという方向でした。スタッフに賛同をえて、この養成塾が立ち上がりました。すすめて行けば何とかなるよという声もきかれました。

カトリック学校のなかには信者の先生が数人というところがすくなくありません。信者の先生を中心にしてこれからのカトリック学校を担っていくという考え方では立ちゆかないことは明らかです。そこには「発想の大転換」が必要なのです。そしてその根っこにあるのは「神理解の大転換」だと思います。
信者とそうでない先生の共通さ、それは人間にたいする誠実さといってもいいでしょう。それを神の名で言えば信者でない先生は離れていってしまいます。神の名を使わないでそれを伝える時が来たと思うのです。

これからの社会における「宗教」の役割について考えるきっかけを与えてくれたのは、インド大使館で行われた諸宗教のかたがたとの対話集会でした。ヒンドゥー教、仏教、イスラム教そしてキリスト教の人たちが参加していました。
その集まりで強調されたことは、どの道をとおってのぼっていっても頂上は同じだということでした。頂上は人を愛するということなのです。仏教の人たちは仏の慈悲について語ってくれました。
インドは植民地化に置かれていた歴史を持っています。植民地を支えていた背景はキリスト教であり、そのもとに搾取、略奪をおこなわれてきたとインドの方は語っていました。「神の名を使う教団を信じるな、そういう宗教はまちがっている」ともいいました。
それを聞いていて、これからの宗教がどういう役割をするのか、考えさせられました。自分たちが理解する神やキリストの再構築をしなければならないと思うのです。神の名をでんと持ってくると対話ができなくなる、キリスト教はそういう可能性をたくさん持っているのです。
神の名においてするという発想ならば信者でない先生との協働作業は不可能だったわけです。いままではそういう精神が染みついていました。だから、受動性、依存心を排除する作業が必要でしょう。

その意識転換の根拠は、教皇ヨハネパウロ2世の生き方にあると思います。過去の過ちを明確に認めて公けに許しを請う姿勢を大胆にうちだしました。
そして一つのモデルとしてマザーテレサがいます。カトリックらしさは信者であると否とを問わず対等な協働作業の中から生まれるといわれました。人間にたいする愛と誠実、情熱に信頼して一緒になって作業をするそのモデルを示されたのがマザーテレサでした。
人間の罪をさばく神ではなく、人間を見ていたたまれなくなってメシアを送った神の姿がそこにあります。そういうムーブメントを育てていくこと、学校にまだシスターが働いているところでは、自分の人生を賭けているシスターとともに、それに燃えている共同体を作っていくことこそがカトリック学校の生き残る道なのでしょう。

哲学者の高橋哲哉さんと小説家の五木寛之さんと対談したことがありました。そのなかでキリスト教に入れない壁があるとおっしゃったのですね。神を賛美する、礼拝する、捧げる、それを喜んでするというタテマエがあって、罪人である自分たちにはそれはできないといわれるのです。
五木寛之さんは「親鸞」を書いています。親鸞はタテマエの世界よりも徹底して現実の煩悩の中で生きた人物として書かれています。
それに対して、キリスト教は「タテマエばっか」なのだそうです。そういう理想を生きるのがキリスト教であるならば自分たちはそこに行けないとくりかえしていました。
この対談をしながら、キリスト教のセールスポイントをキレイゴトでないことを表に出す必要があるなと感じました。
イエスは苦しみの人であって、十字架上で「神よなぜみ捨てられたのか」というそのすがたがセールスポイントになるようにしていかなければならないのではないか。
建前で生きてる必要がない、苦しみを叫びながらそれでもいきていること、矛盾に満ちていて苦しいことを涙を流しながら分かち合いながらそれでも希望を持って生きていくことを伝えあう、そういう方向にいかなければならないと強く思います。
おなじようにカトリック学校もセールスポイントを変える必要があります。苦しみ悲しみのキリスト像とそれに寄り添う共同体的すがたを分かち合いながら生きていく教育共同体となる、それがカトリック学校のビジョンになると思います。

(文責 土屋至)

第14回 教職員の養成

「教職員の養成」

子どもと共にあり、子どもと共に歩む教師に

舞鶴日星高校校長
水嶋純作

日本海側の定員510人だけど在籍生徒が270人の学校で、苦しい毎日を過ごしています。
わたしは、日星高校と同じ系列の聖母幼稚園にいっていました。大切にしてくれたことを覚えています。50年後に戻ったかたちになります。
高校時代に家庭がぎくしゃくしていたときに、居場所を求めてカトリック教会に行き、大切にしてもらった記憶もあります。
ハヤット神父の「心のともしび」はよく見ていました。
堅信を受けてから教会に行かなくなりました。
教会に行っているときに出会った女子学生たちの影響を受けて、教師になろうとしました。
初等教育に30年間たずさわってきました。
自分の町にミッションスクールがあって、これにお返しができないかと考えました。これがわたしのミッションではないかと思いました。
南山大学で、教育ファシリテーションの勉強をしました。
「小さきものとあれ」という建学の精神に共鳴し、そこに教育の方向があるのだと確信しました。舞鶴というと軍港のイメージですが、今はさびれつつあるまちです。そこにあるカトリック学校を元気にしたいと思ってやっています。
56歳で教育実習をしました。指導は南山高校の西経三神父様でした。目的があればがんばれるものですね。
小学校で30年間やってきたその経験をふまえて、課題を持ってその解決のために教育学を学びました。課題を持ってする学問だったわけです。勉強する意味をつくることの大切さをこの時実感しました。
MS01
学びというものは相互作用で広がるものです。シナプスを頭の中で繋いでいくいとなみです。学びそのものが共同的なのです。仕事はチームでする、チームですることの大切さを学びました。
カウンセリングについて学んだことも貴重な体験でした。問題の答えはその人の中にある、それを引き出して聞くということがカウンセリングなのですね。
MS02
テーマが「教職員の養成」です。カトリック校であることを前提として教師力を伸ばしていくことが与えられた課題です。

教職員養成のリーダーになるための視点として、カトリック学校として大切にしていかなければいけないことを理解することが必要です。
生徒に対しては、かけがえのない存在であることを理解できることです。
教育観としては、社会の中に生きていく力、自分自身を生きる力を身につけることです。

イエスがそうであったように、教師間の関係を隣人愛にもとづき、ともにある教師、共に歩む教師として生きることです。
MS03

そのために何が役に立つか、きょうはそれを実習を含めて考えていきたいと思います。
それは「コミュニケーション」なかでも「聴く」ということです。
それぞれの思いに気づく 教育的なつながりを作るためにどういうことが起こっているのかを実習の中で気づく、つまりフィードバックの大切さにきづくことでしょう。

以上 前置きです。

これから2人組での実習をします。
2人組を作り、青と白の用紙を一冊ずつもちます。
与えられた課題について交互に話していきます。第1ラウンドは白い方が話して青いほうが聞き手です。第2ラウンドはその逆になります。
話し終わったときに感想を書く用紙に気づいた気持ちを書きます。
持って帰って職員研修に使えるようにあとで「与えられた課題」についてのプリントをお渡しします。
課題の用紙に書かれていることを読んで話し手はなにを話すのかということをまずイメージしてください。
そして2分間話します。
聞き手は腕を組んで黙って聞きます。うなづきながら」
振り返り用紙にメモする。
終わってからわかち合いをするのでいまは感想を話さない

第2ラウンド 話し手と聞き手が交替
課題用紙を読んで話しては話す内容を考える 聞き手はどんな聞き方をするのかイメージする。
2分間話す
感想を書く

実はこうだったということを明かして話し合います。ここでは全体に聞いてみましょう。

●イライラしてめんどくさい はやくおわらないかな。
●聞いているようで聞いてない。悪いなという気持ちがあった。
●何にも反応しないように指示が出ていた。作業していると理解できない。
●イライラしている。速く話しをはじめろよと思っていた。
●関係ないことをメモ取っているとは思わなかった
●言葉が宙にを浮いている 虚しい感じがした。
●話しが頭に入ってこない。悪いなと思いながらも集中できない
●メモ取られるような内容を話していないのにと思った。
●とても忙しそうで伝わっていないとおもった。わかっているのかなと同じことをくりかえしている。●わかっているか確認したい。
●聞くようにという気持ちはしめすが、感動していることを上滑りしている聞き方をした。
●頭の中がヨソのことを考えていると話していることが入ってこない。
●生徒の話を聞いているとき、もういいやという感じになる

第3ラウンド

話し手は先ほどの続きでもいい。「わかってもらいたい」というきもちが現れるように
聞き手「わかってあげたい」というきもちが伝わるように聞く。
ふり返り票を書く

●さっきとのギャップがありすぎてあまりにくだらなくて
●すいとりました。
●繰り返して詳しく知りたいというそぶりを見せてくれた。
●話の内容を繰り返した。
●合いの手 もう少し話してみよう 詳しいエピソードを付け加えたり
●こういうふうにして嬉しかった
●相づち めをみながら  笑顔できいてくれた
●予定外のことも話してみようという気になった。

第4ラウンド
聞き手 向かい合う 目を見る うなづく 相づちを打つ 質問をする 相手の言ったことをくりかえす
気持ちを書く

●ここがわからないということを打ち明けてくれたことにありがたい。
●反応が返ってくるの共感している 相談しているという感じ
●話が発展したもう少し話したい 聞いてみたい
●意識して聞こうという気持ちがあることは大切
●指示通りにしたが、内容をよくわかってきた。相手がイキイキ話してくれたので聞くことが嬉しかった。
●ご自分のことを入れてくださったり、アドバイスを聞けたり
●質問されるので嬉しくなって話した。第2ラウンドは長く苦しかった。今回は短かった。
●指示を守ろうとして逆に気をつかいすぎた
●きっと聞いてくれるはず 安心感があった。
●距離が近くなった。

聴くことで大事なことを上げてみましょう。

ポジション、位置、心理的距離
先入観を持たない
名前を呼ぶと親近感
話し手のペースにあわせること
うなづき、相づち、承認 話しをしやすい
繰り返す(リフレイン)と聞いてもらっている感じがする

耳へんの「聴」という字は耳と目で聴くことを意味します。
「聞」という字は王様の耳で聞くという意味なのだそうです。
「応える」にはこころがありますね。
日本語ってすごいなって思います。

MS04

コミュニケーションにはコンテント(内容)とプロセス(関係的過程)とがあります。
話題、トピックスは見える形で表現されます。
しかし、氷山の下に見えないプロセスがあります。それはどのように聞いているかということです。

話題を聞いてもらうということは大切ではあるのですが、気持ちを受け止めることがもっと大事です。
気持ちを受け止めることは存在を受け止めることに繋がります。
「もっと自分のことを話したい。こころの深いところを話してみたい」と開いていく関係が生まれることがコミュニケーションを深めることにつながります。
事柄だけを聞くよりも、どういうことをきくのか、
コミュニケーションを通じて自分の中でおこっていること、相互作用でおこること、グループの中でおこること、そういうことに気づいていく、つまり関わりの奥でおこっていることにどれだけ気づくのか。そこが大事なのです。
西神父は「宗教教育」とは目に見えない背景を見る力を育てることであると述べていました。

MS13

6人のグループでおこることを意識しながら次のエクササイズに取り組んでみましょう。
「ももちゃんのおつかい」というエクササイズです。
19枚のカードを配ります。カードにはいろいろな情報がかかれています。
ももちゃんはお使いを頼まれました。
時間は15分間です。
模造紙にメモをしていきながら、グループで問題を解決していきます。一つのテーブルで情報を出しあって共同で作業をします。
模造紙をみせながら答えをいっていきます。
値段が確定したところを色で囲みます。

グループで問題を解決する 共同で作業をする。情報を出しあって一つのテーブルで出しあう。
これは「構成的エンカウンター」でよく行われているエクササイズです。
作業が終わったら振りかえりの用紙に記入します。
自分がどうだったのか、グループのメンバーがどうだったのかを振り返ります。

いうまがなかった。とか、いったことが採用されなかったとか、自分の参加度、どれだけ聞き逢えたのか、このワークで気づいたことなどを書いていき、そのあとそれをわかちあいます。

グループの話し合いの報告

●参加状態 いつでも発言できた シェアできていた
似た情報をだす。かさならない、最後の情報の確認
リーダーが早めに決まったらいい。リーダーがなかったけれど居心地がよかった
堅実で穏やかでいいグループだった。
●個人的に仕切りたがる 仕切ったときにメンバーの反応したことが気になる
整理の仕方の方向性がでてきたので安心した
いった順番とかがはいっている 一番大事なのは場所と値段、何が引っかけなのかを速くつかむ 取捨選択を速くできた 流れができると達成感と協調感を感じた
●情報を手元に書いて集約できたことが速くできた原因だとおもぅ。全員で一人ずつ計算した。任せちゃうと間違えることがある。全員が同じ答えになった。
●このグループでは5分でできた。上手に情報を重ねていくことがよくできた。持っている情報は包み隠さずに出す。話しの流れの中で不必要な情報は出さない。どういうテーマでするかということをきちんとすることを気づいた。同じ立場で意見が出せている。
●よかったこと マジックを配らなかった。一つの情報を紙の上で共有する。スタートがよかった。情報を共有できた。整理する役の人が一人いるとありがたい。
●遅かったが満足度は高い。一つ一つの情報を確認 タイムレースであることの意識が希薄。彼女の意図は何かなど関係 場所を楽しむ、その仮定の中で自分たちも楽しむ。旗振り役が必要
鍋奉行の存在
●単純なカードの情報をもとにしながらする。タイムレースというと違っているかも
どういうしかけをするかによってしきりやの自分が見えた。相手がどう思っているか。お互いの振り返り用紙によってわかってくる。なぜ遅かったのかというところから振り返った
●できはよかったけれど一人ひとりはどうだったのか。リーダーだけが楽しんでいたとかいうことはなかったか。課題を解決することと一人ひとりの満足度をあげることとはことなる。一人ひとりはどういう感じだったのか

MS05

グループ作業におけるリーダーシップについて考えてみましょう。いろいろな形のリーダーシップがあります。
これにもコンテントとプロセスに関することがあります。
コンテンツに関するリーダーシップには、仕事を進める、話をまとめる、発表する、アイディアを出すなどがあげられます。準備する、時計を見る、記録するというのもコンテントに関する役割でしょう。
プロセスに関するリーダーシップには、グループのみなの参加度に気を配る、グループのメンバーの出番を作る。これは自分が出ることよりも大切なことでしょう。こんなこといったらわらわれるかもという不安をなくすのも大事です。その発言いいねという発言をすることもこれでしょう。メンバーがどのような参加をするのかについて気を配ることです。

MS06
MS07

授業においてもコンテントとプロセスとがあります。
教える内容、課題などはコンテントに関することでしょう。
プロセスはどのように関係するかといえば、生徒の中で、教師の中で、生徒同士の中でおこっていることに気づくことが大事でしょう。
このクラスで自分は受け入れられているかどうか?それが確かめられないと安心して自分の意見が言えなくなります。

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MS10

プロセスに気づき応答することが授業作りやクラス作りの秘訣かもしれません。
先生はわかっている、友達が支えている、ここにいていいんだという安心と信頼があれば学習の効果も高いものです。
こういうトレーニングをすることで、クラスの支持的な風土作りをできるようになります。クラスの中で自己肯定感が高まるようになり、さらには「人の役に立ちたい」という意欲につながっていきます。

「誉め言葉のシャワー」のエクササイズをしてみましょう。
自分でいわれたいほめ言葉をカードに書きます。
裏返しに出して配り直して、人のものを隣の人にかたりかけるようにして。一周します。
このエクササイズをしたあとに感想を聞くと「うれしかった」というのと「照れくさい」というのが多く出ました。

MS11
MS12

フィリッピンのセブ島に行ったことがあります。そこにはスモーキーマウンテンがありました。ゴミの山です。ゴミを捨てるダンプカーがくると子どもたちがわーっと群がってきます。においが大変なところです。
そういう中でも子どもたちは明るいのです。そこでホームステイをしたときに子どもに夢を聞きました。自分はいま貧しいけれど、自分もまわりの人も貧しさから救われるように働きたいという夢をもっている子どもでした。

東チモールに行ったこともあります。インドネシアはイスラムが多いけれど、ここだけカトリック。ゴアから行ってポルトガルの植民地になった歴史を持っています。そこでもみんなの夢を聞きました。
高校に行くにはお金がいる、電気がないので夜に勉強ができない、そういうところです。

夜、電気がなくなると真っ暗、空を見ると満天の星です。都市文明は夜を明るくしようとしてきたけれど、夜のそれは星を見えなくしているのですね。
セブ島と東チモールに行った大学の2年間はとても有意義だったと思います。

マザーテレサのことばの「心の貧しさ」というのがわかったような気がします。
「地の塩」であることとは喜んでだれかのために損をできるということであるとも述べています。
使命とは「命を使う」と書きます。ひとりひとりが持っている使命をどういきるのか、このといかけは、生徒ひとりひとりにむけられているとともに、実は教職員にも投げかけられている問いかけなのです。