第3回 聖書における人間理解

100605

第3回目

聖書における人間理解

Sr.杉田紀久子(幼きイエス会)

聖書をもってくれば良かったのですが、多少でも知識があると思ってお話しします。あとでゆっくりと聖書を見ていただければありがたいと思います。

聖書については、話す人によって異なります。私の話もそのなかのほんの一部として理解してください。

今日は、旧約の創世記を中心に話を進めていきます。

創世記は、 遠い昔の話ではなく 自分自身と家庭、学校、日本の社会を考えるきっかけとなる話と捉えてください。

まず、本の紹介をさせてください。

「脳に悪い7つの習慣」(林成之著 幻冬舎新書)という本です。電車を待っている時間に立ち読みして「おっ」とおもって買ってしまいました。

この本には人間を理解するための聖書理解と重なっている部分がたくさんあると思って読みました。

聖書を書いた人たちは、その時代背景のもとで書いているのですけれど、人間の苦しみ悩みに応えるという普遍的なテーマにも応えようとしています。

新約聖書においても、キリストの生き方からは現代に生きる人間の生き方を学ぶことができます。

パウロの時代にアンティオキアで初めてキリスト者と呼ばれるようになったわけですが、それから2000年近くを経た現代でも参考になる多くのメッセージを聖書はなおも発し続けています。

SG01

「脳に悪い7つの習慣」の著者は「脳の本能」として3つをあげています。生きたい、知りたい、仲間になりたい(人が喜ぶことが自分にとってもうれしいと感じさせる)というのがそれです。

人の喜ぶことが自分にとってうれしい、それが脳にとってはとてもいいこととして書かれています。

脳が本来的に求めている生き方は、違いを求めてともに生きることなのです。人は違いがあるからおもしろい、それぞれに才能を発揮し、違いを認め、誉める力を養うことは脳にとてもいい習慣なのです。

脳にとってのご褒美=うれしいと感じることが、自分への報酬となり、それが脳の本能を磨くわけです。つまり自分の役に立つことだけでなく、人のためになることをしたときに、貢献心が満たされるのです。

こういうことをあたまにおいといて、これからの話を聞いてください。

SG02

デカルトは「われ思う。ゆえに我あり」と述べました。でも、関係性を生きる人間はむしろ「われ思われる、故にわれあり」といったほうがいいのかもしれません。

人の誕生成長は、両親の思いや周囲の人からの思いのなかで行われます。まわりの人からの「無償の愛」の中で育つのです。もし、子どもの存在の否定、無視、無関心の中でつまり『思われる』ことが不十分な中で育てられたなら、生きられないし育たないでしょう。

いのちの継承ということは一人、二人だけの思いではないのです。子どもがほしいという思いや願いは、どんな子でもいいからうまれてきてほしいという思いではじまります。生まれる前から、生まれてきてからもそういう思いの中に子どもが授かります。

NHKの番組で、養子の家族のことを報道していたのを見ました。子どもが3人とも養子の家族を紹介していました。養子縁組をするときに約束ごとがあるのだそうです。あなたのお母さんは別にいいることをいつかはかならず言うというのです。何時いうかは夫婦で相談してきめます。

あるとき、その子どもがバスケットの応援に来てほしいと親に頼みました。でも返事がなくて、こられませんでした。あとで試合が終わってから、手紙が来ました。バスケットの試合ではあえなかったけれど、自分を思ってくれる人がいるということは自分が生きていていいよというしるしなのです。

ある30代の夫婦の話しです。養子を引き取るためにはNPOに来て研修をすることが必要です。そしてどんな子どもでもことわらないという条件を念を押すのです。それに「いいです。障害があってもどんなことでも面倒を見ます。どんなことでもいのちを請けます」と応えるのですね。すごいなと思いました。

両親との面接で、おとおさんの感じを聞きました。かれは「自分のいのちよりも大切なものが目の前にある」とこたえたのです。この思いはすごいなと思いました。この思いがなければ存在が否定されていることになってしまいます、無視無関心だと育たちません。

いま、そういうことが社会にたくさん起きています。

投書欄に、電車の人身事故が多いという放送に「ちぇ、またかよ」と答える人がいかに多いのか、いのちが消えてしまうことに胸を痛める人が何人いるのかとおもうと寒々としてきます。

親の思いと子どもが思われているという実感にずれがみられます。生徒にも普通のことのようにみられます。「自殺」とか「自死」が増加しているということは、思われること、思うことが足りなくなっている現実をしめし、それなしには生きられないと感じることの希薄さと関係しています。

創世記の2章で「人が一人でいるのは良くない、彼に助けるものを与えよう」と書かれています。

人の誕生に当たって、いのちがうけつがれていく源の最初のいのちが生まれるときの「神のあつい思い」つまり「われわれに似せて神をかたどったものにつくろう」という言葉が書かれています。人間の時はこういう思いで作ろうというコミットの表現です。全身をかけて熱い思いで作ろうというこの神の思いは、子どもが生まれてくるときの想いとよくにています。

その思い入れの強さは、互いに思い合う、関わり合う、対話の相手としてもうひとりの人間をつくり祝福されました。幸せであるように人に対して祝福を与えて食べ物を与えられました。

このように想い想われる中で人間は育っていきます。一人では生きられない、育たないのです。しかもだれでもいいかというとそうではない。彼にあう「助け手」をよびだします。動物などではふさわしくない、そこでアダムをねむらせてあばらぼねから女と呼ばれるものを横に置くのです。本当に私と一体になるふさわしい対等なパートナーとして与えられます。

これは、男と女だけでなく人間同士にでも言えることです。対等なものどうしで上下があってはよくない。一人では絶対によくない、目的に叶わない、響き逢えるもの、人格、ペルソナ、マスクという仮面と同時に響きあう存在、『ペルソナ』ということばには響くという意味があります。。お互いに響きあえたら、うけとりあえる、ふさわしい助けるものとなれるのです。

人と関わって人となっていくということは、相互性関係性を生きる人間になるということです。

人間の中にある渇望、つまり出会いたい、関わりたい、交わりたいという渇望が充たされるように生きてほしいと創世記のこの箇所を読むたびに祈らずにはおられなくなります。

参考としてイザヤ書や詩編をあげてきました。わたしたちにいのちを与えられたかたがどんな思いでおられたのか、人間のことをどんなに想っているのかが描かれています。

たとえばイザヤ書49章15〜16節を読んでみてください。「親が自分の生んだ子を忘れることがあろうか、たとえ親が忘れようとも私は決して忘れない。」「手のひらに刻んでおくくらいあなた方をおもっている」とかかれています。あの「脳の本能」と重なってくるのですね。

SG05

2つ目のポイントは、創世記2章にあります。

「土の塵で作られ、息を吹き込まれて生きるものとなった(2章7節)」というところです。「土の塵」というのは人間の弱さ、醜さ、惨めさをあらわすのでしょう。老いていき、病を持ち、そして死ぬという、限界のあるものとしての人間を表現しています。

2章17節には、生きるために食べ物を与えられ、園のすべての木からとって食べなさいといわれます。ただし、「善悪の木」からは決して食べてはいけないといわれます。

この約束事を破ると人間としてのアイデンティティを失ってしまいます。自分だけで何でもできると思ったらおおまちがえですよと教えているのだと思います。

人間のうちにある強い渇望そのもの、つまり生きていきたいという望みがいのちなのです。「いのちの息を吹き込まれる」というのはまさにその渇望を吹き込むことです。

子どもの側から愛されている実感がなければ育っていけないのと同じように、はく息、すう息の交わりが機能していないといきられません。息が拭きっぱなしではだめです。呼吸が生きる息になるには吸ってはかなければならないのです。相手に受け取られないはたらきかけだけをやっている人は消耗して燃え尽きます。

いきるものとしてうけとる、ふきこむということは、身をかがめ、相手と同じ高さ、目線になり、この人が何を必要としているかということを感じることです。身をかがめることがないと助け手になれません。

「土の器」であるというアイデンティティは、生きていきたいという渇望であり、いのちをうけたいとおもうことです。そのためにはそういう自分をそのまま出していくことです。落ちこんで駄目だと思ってきたときにこそ息が入ってくるものです。つらい出来事にあるいは困った生徒とともにむきあっていくときにこそ、その息が吹き込まれてくるのだと思います。

ヨハネ4章に「サマリアの女」に対してイエスが身をかがめて相手と同じ立場に立ったという話があります。

ルカ19章のザアカイの話しでは、引け目を感じていて相手にしてもらえなかったザアカイに「あなたの立つところにおりてきなさい」といい、「あなたのそのままでいい」とザアカイの家に泊まられました。

クリスマスは、イエスが、誰にも近づける貧しいところで、一番弱い赤ん坊の姿で人間の高さになって、人間にいのちを吹き込むために来てくださったという話なのです。

SG06

第3のポイントです。

創世記2章25節には「裸かであったが恥ずかしくはなかった」とあります。ありのままであってそれでよかった、それで安心していられたのです。かけがえのないわたしとあなた、ユニークなわたしとあなた、一人ひとり違う人間、一回限りの人生でも、あなた自身であればそれでいいのです。

精神科医の加賀乙彦さんが「不幸な国の幸福論」という話しの中で「人は人と同じであることを恐れて鬱病になる」とか「日本人は、仲間はずれにされたり、いじめられたりたりして、人と異なることで心を病む」と述べています。人と違うように生きて行くには勇気が必要なのです。

日本人にとって「お前なんか生まれてこないほうがよかった」と本人がいうのとまわりがいうのとでは決定的な違いがあります。自分でいうのは傷つかないけれど他人にいわれたら傷つくのです。

つまり、ありのままの人間として認めて受け入れる存在が必要です。自分の中に閉じこめるのではなくて、言葉の力、自己表現とかによっていのちを与える言葉、可能性をひき出す言葉が必要です。関わりの中で自己表現の場を作っていき、不安とか恐れとか失敗とかの経験を受け止める存在であることが必要です。誰かが自分をうけとめてくれたことを思い起こし、どんなやりかたでうけとめてくれたのか、自分の経験からふりかえることも役に立ちます。

ところが、今の社会は比較と競争の社会です。比較の中で生きていくことや人の目を気にする社会の中でふさわしい助け手になれるのか、むずかしいことです。「競争社会の中であなたでいいよ、それでいいよ」を言える存在になっていきたいと思っています。

タテマエや規則はときにに気を付けないとひとを殺すことになってしまうこともあります。本当に育つ方向はどうしたらいいのかを考えてみてください。

現実の中には苦しいことや不安の方が多いもんです。そういうときにホンネで話し合うこと、どうにかしたいと分かち合うことをとおして、身をかがめたり、信頼を確かめ合ったりすることが可能となります。

修道会の責任者たちと小さいグループではなしあったときのことです。回数を重ね合うごとに失敗や問題やホンネがでてくるものです。はなしたくなる、聞きたくなる、ちからがでてくるのです。この養成塾もホンネの正直な話が聞けるようになって、ホンモノの養成となります。

子どもがいうことをおろそかにしてはいけません。子どもは、ホンネを言っているしホンネを聞き分ける力も持っています。

旧約の登場人物は、失敗を繰り返して裸になっていく姿がよく表現されています。

SG07

第4のポイントです。

人間の内なる強い渇望は「自由でありたい」ということです。自分らしくないということは何かに縛られているということでしょう。聖書には「真理はあなたを自由にする」という言葉があります。本当の自分、本当の私たち、ホンネの分かち合いが自由にするのです。

イエスが来られたのは「とらわれている人に解放を、目に見えない人に視力を、貧しい人に福音を」告げるためです。

イエスが来られるまでの旧約の歩みは解放されることを待ち望む時でした。エジプトでの奴隷状態から解放されても、40年も荒れ野をさまようことが必要でした。奴隷から自由になっていくときの歩みは解放への渇望をもち、救い主を待ちつづけたのです。

自由といっても、自由には「〜からの自由」と「〜への自由」と二つあると社会心理学者のエーリッヒ・フロムは述べております。「〜からの自由」から「〜への自由」となるまでに40年間の荒野でさまようことが必要でした。その自由は、自分の中に自己分裂や矛盾がなく、自分を統合できる自由です。誰をも縛らず、差別せず、互いを認め合い、いのちを育てあう自由です。自分の命を捨ててもいいと思えるまでの自由なのかどうか、目指す自由がどっちの方向に向かっているのかを確認することはどうしても必要です。

自由を育てていくときに、自分で考え、自分で選んで決める機会を多く作りましょう。決断をまかされるなかで自由が育っていきます。時には自分で決断した結果失敗することも大事です。その失敗の中からもっともいいものを学べるはずです。

日本の教育では自分で考え自分で決断するのは育ちにくいでしょう。親が、いい家庭、いい学校、いい会社、と思っていて、それを子どもに押しつけている例が多いのです。この子のために何がいいのかを一緒に考えることが少ないのです。これでは本当の自由は育ちません。

当の自由を手に入れるのは難しいかもしれないがそれをして行かねばならないことです。

「人間の内なる渇望と社会的次元」というところを見てください。

SG08

人間は「神のかたどり/似姿である」と創世記1章に書かれています。

それは人間の根源的な渇望に応えていくことです。

そのためにイエスの言葉と生き方を自分のものにしていくことがここで学んでほしいと思います。

聖書の言葉を断片的にとらえるのではなく、いろいろな話しの中でつなげていってほしいと思います。

このことばがこっちに繋がっていくということをきづくようになってください。

今日取り上げた聖書の言葉を再び家に帰ってあらためて読み直してほしいと思います。

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