第1回 人間の危機とカトリック学校の今日的なチャレンジ

今日は「養成塾」の第1回目である。参加者はスタッフを入れて40名くらいである。みんなどこか緊張した面持ちで参加している。

今回の講師は森一弘司教。当初はカトリック学校連合会の河合神父であったのだが、直前で変更になった。

森司教の話しは、この「養成塾」の趣旨の説明からはじまった。

今までは、カトリック学校には修道会があって、創立者の精神が学校の精神となって運営されてきた。しかし、修道者や司祭が減ってきており、このようなときに「カトリックらしさとは何か」という共通理解はない。それを見出していこうとするムーブメントがこの塾である。参加者は互いに刺激し合って、みんなで考えていきたい。今まで、先生方に本音、善意があっても、火花をはなち、形になるところまではいかなかった。具体案が出ても実現しなかったのがこれまでだった。2年前の全国カトリック学校校長・教頭研修会をきっかけとして生まれた塾、これからどうなるかは参加する皆さんの思いによっている、2年、3年と続いていけば大きな力になると信じている。

このような話しはこれまで何度も聞いてきた。しかし、だからどうしたらいいのかということについてはなかなか聞かれない。今回はそれが具体的に聞かれそうである。いや、結局これは自分たちで考えるしかないのかもしれない。ここはそういう場ととらえた方がよさそうだ。

この「養成塾」が、カトリック学校の校長・教頭研修会において有志の呼びかけからうまれていることにも期待が持てる。上から与えられるものではなく、カトリック学校の現場からのニーズに応える形で提起されているからである。

今回の森司教の話しの演題は「人間の危機とカトリック学校の今日的なチャレンジ」である。レジメを見ながらの説明だった。

レジメ1-1

この図では「人間として生きることを困難にする社会のシステム」を図解している。

レジメ1-2

さらにこの図では、それに対する「教会共同体」「キリスト」「神」の価値観を対置させている。

この現代社会を支えている資本主義の論理と教会・キリスト・神の価値観とのせめぎ合いの中にカトリック学校も置かれているわけである。

レジメ1-3

講師は「このせめぎあいの中でカトリック学校のもつべきアイデンティティと問題点がみえてくるのではないか」という「基本的な考え」を示された。

次に森司教は聴衆にある問いを投げかけた。

今の日本の社会に生まれてきて、幸せだなあと思う方はどのくらいいますか?

大変なことだなと考える方はどのくらい? 同じくらいですね。

ある国際的な修道会で話しをしたときに、多くの外国からの方は「日本は豊かで、子どもたちは幸せですね」という日本に対する印象を持っていた。

しかし、森司教は次のように応えられた。

私は、日本の社会が一番不幸かもしれないという話をした。先進国の中で、日本は自殺率がトップである。自殺率は人口10万人あたりの人数で比較している。1時間に3,4人もの人が自殺している。日本以外にはどこにもない。統計に上らない実際の人数や自殺未遂はもっとある。これは何なんだろうか?

続いて話しは、近代資本主義の論理についての説明に入った。

その論理は「迷惑の倫理」「自己責任の倫理」などを生み出しながら私たちの生きている社会全体を覆う。民主主義もその一環を構成しているし、企業や学校そして家族でさえもまぎれなくその論理のもとに包み込まれているという。

教育共同体もこの論理で侵されてしまっている。国家行政によって学校の教育の方針が決められ、乗せられてしまっている。結果として学校は、「国家に役立つ人材を派遣するシステム」に、知らないうちになってしまっている。この流れで、家族という共同体も汚染されてしまっている。親達はピラミッドの上へ子供たちを送り出すために準備する。家族の心までこの論理で蝕まれてしまった。人間の心や人間性を蝕むような論理が働いており、多くの人がもがいている。いつのまにか人間の心の空洞化、人間疎外が浸透していた。それが自殺率の増加という形であらわれている。

それに対置する「教会・キリスト・神の論理」がある。

上からの論理に対して、人間をささえようとする論理、人間の幸せを支える論理があるはず。カトリックの視点からは「神」がある。創世記の一章、神は人間を祝福している。神は人間の幸せを願っている。この祝福の中に人間の営みが始まっているということが明確。また、「一人でいるのはよくない」という言葉がある。一人では人生をまっとうできない。一人では「生きてきてよかった」という実感をもつことができない。一人では生きていくことの意味を見いだせない。「人と人との出会いは互いを幸せにするための出会いである」ということが聖書的では語られている。出会った他者を幸せにする役割が人間に与えられているという視点が聖書にある。幸せによりそっていく役割。神の「人間に幸せになってほしい」という願いの祝福で人間は始っている。

人間には二つの根源的な渇求、「生への渇求」、「幸せへの渇求」が基本にある。これらの渇求をどう展開するか? 物で幸せにするという視点だと資本主義になる。しかし、人間の中には身体性の部分の背後に「私」がある。身体性の部分は資本主義によって満たされることができるが、「私」の部分は満たされない。

新しくできた商店街で売っているものは「なくても生きていけるもの」。人間の深い心の交わりという視点はまったくない。売っている人の人間疎外や空洞化の犠牲の上に成り立っているのではないか。現代には、歯車としてではなく、能力でもなく、「役立つか役立たないというような視点とは全く違う視点」で人間が大事にされるということが必要である。

人間には、心への飢え渇き、柔らかな棘のないあたたかな心への飢え渇き、掛け替えのない存在として肯定されたいという飢え渇きが根っこにある。これに応えあうのが本来家族のはず。家族共同体の論理には、本来、時間の論理がないはず、みんなで・・・ということがあれば人間は生きていられるのだが、それが上からの力によって空洞化、家族の絆の希薄化が起きている。そうなれば、子供たちも落ち着きがなくなってくる。

この話の中で「出会った他者を幸せにする役割が人間に与えられているという視点が聖書にある。幸せによりそっていく役割。神の『人間に幸せになってほしい』という願いの祝福で人間は始っている。」という表現が、心に残る。「他者を幸せにする役割」「幸せになるという願いの祝福」教育はまさにこれに即結びつくだろう。しかし、教育が選抜と競争の機能を持つときに、教育は一部の人の幸福と多くの人の不幸をもたらしてしまうのではないかという考えが頭をよぎる。

「現代社会の直面する根源的な危機にあたって、このまま「資本主義の論理」に巻き込まれていっていいのか? カトリック学校は今どのようなチャレンジを求められているのか? それをこれからここで考えていきたい、一緒にチャレンジしていきたい、ここはそういう『養成塾』でありたい」と話しを結ばれた。

話しはまさに「序論」であった。その「序論」もいつも聞かされていることとそんなにかわりがない。しかし、この場がこれから定期的にもたれて、積み重ねていくという背景がある。いつもだと話しはここで終わってしまい、聞くほうに欲求不満が募ってしまうのだが、ここはちがう。これからがあるのだ。こういう共通認識のもとにこれから学び、分かちあいを積み重ねていくところから、なにかがうまれると期待させる「序論」であった。

この「序論」を参加しているカトリック学校の教員たちはどう受けとめたのか、がとても気になった。

このあと、10人くらいのグループに分かれての話し合いがあった。時間が短くて今回は「自己紹介」をひとまわりした程度で終わってしまったが、これからのこの「養成塾」への参加者の意気込みが少し伝わってきてうれしかった。

(文責 事務局 土屋)