第4回 キリストについて 河合恒男神父

第4回目の講師は、カトリック学校連合会会長の河合恒男神父でした。河合神父は、本題に入る前に5枚のプリントを配布されました。河合神父の講演は前に聴いたことがありますが、その時もこのようなテーマには直接関係のないけれど教員をつづける上で役に立つようなプリントを提供されました。これについては最後の方で紹介致します。(HP担当者)

なぜ「イエス・キリスト」なのか?

皆さんの学校は大丈夫ですか?大阪では助成金が30%近くカットされ、ちまたでは幼稚園、高校の無料化が検討されています。そしてそういうときに、高い学費を払ってわざわざ私学に来てくれるでしょうか?出来高を値段で割るのが価値であるとしたら、出来高が多くなくては意味のある価値が生まれないというのが経営の基本です。

そこまで考えて学校教育に携わっていますか?教育の核となっている皆さんが自分の学校は何をどのように売り物にするのか、それを本気で考えるときがきています。

ミッションスクール卒業生の話から

2月にカトリックプロテスタント合同でキリスト教学校シンポジウムを行いました。

立教女子校の卒業生は、彼女が今の仕事をするのに自然にそう思えるようなキリスト教教育が支えになっているという報告をされました。

フェリス女学院の卒業生は、公立の道徳観ではない、ぶれない道徳教育や礼拝や朝礼の時間をとおして教わった「あなたは大切な存在」というメッセージを公立校の教員になって教えたい」と述べていました。

六甲学院の卒業生は、裸足に上半身裸で行う便所掃除の体験から、自分が必要とされているならば、いやな方を進んで選ぶという選択の価値観を教わったと述べていました。

卒業生たちは、学校の教育カリキュラムから学ぶこととともに、一人ひとりの先生の生き方を通して学んでいるということも印象的な発言でした。

学校を顧客満足度から評価する

サービス業は「顧客満足度」を、自らのサービスの質をはかる指標として大事にしています。顧客のニーズを上回る満足を与えなければなりません。それが、リピーターをつくりだし、さらに口コミ効果でその評価を高め、広めていくからです。

学校教育でもこの視点から、満足度について考える必要があるでしょう。

生徒からみたら、2つの面つまり、豊かな学力と肯定的な経験(学校にいてよかったという経験)が生徒の「満足度」を決めるでしょう。

保護者は、 投資したお金以上の成果をあげてくれるかという見方をするでしょう。 たとえ学費が高くても塾に行かなくてもいい学習をしてくれたら、 あるいは新たな受験をしなくてもほとんど上級学校に入れるシステムならば結果的には「満足」するものです。大学を持つプロテスタントの学校にはそういう考え方を示しているところが多いでしょう。

地域住民からの視点もあります。地方にある学校はその地域社会を挙げてサポートしてくれる所も多いのですが、都会の私立学校は地域社会と遊離しているのが現状です。

他に、教職員の視点からみることもできますし、教会や修道会の立場にたてば、イエス・キリストの望まれること・創立者の精神がどこまで生かされているかという視点もあるでしょう。

ミッションと派遣したもの

ミッション・スクールの「ミッション」とは使命を意味します。その使命を与えて遣わすのはイエス・キリストです。ところが自分の学校の「使命(ミッション)」と自分を派遣したものを分かっている人はどのくらいいるのでしょうか。知らないものは伝えられないのです。

先生たちはどの学校でもよく、たまたま就職したのが、ミッション校であったのかもしれません。

公立の学校では就職するとすぐに県職員の身分となりますが、私学は1~2年目非常勤となり、身分の安定性に欠けます。そんな中でも私立で働きたい、ミッション・スクールで働きたいという意向を持って、デメリットがあるにもかかわらずに、学校に働きに来てくれる先生がいるということはありがたいことです。

その志を生かすために、ぜひとも学校の「ミッション」の内容と自分を遣わせたものは何者かを理解してほしいと思うし、そのためにはイエス・キリストによって解放された体験が必要なのです。そしてそのためにまず聖書に親しんでもらいたいのです。

あなたは、イエスのメッセージに基づいて聖書を読んだことがありますか。聖書は学校に就職したらただであげているところも多いでしょうが、わたしは絶対にあげないで買わせてくださいとお願いしています。ただであげたら読まないのです。身銭を切って買うと初めて自分から読むようになると確信しているからです………

本題に入りましょう。

喜びの存在としてのイエス

ルカ福音書に見るイエス・キリストの特徴を考えてみます。まず、喜びの存在としてのイエスがあげられます。

学校ではそこで学ぶ若者に喜びを伝えられるのかが問われています。だから、これは最も大事なアプローチであるでしょう。義務的に形から入っていったら生徒たちは反発するにきまっています。

祭司であるザアカイには祈りがありました。(1章5~16節)

ほとんどの人は神殿の祭壇に近付くことはできない。でも当番に当たったザアカイは祭壇のそば近くで神に仕えることができた。そしてその時、念願の子供が誕生するというお告げを受けたとあります。不思議な神の干渉に戸惑いながらも彼はその恵みを喜びを持った受け入れたのでした。

マリアに挨拶する天使(1章26~38節)のメッセージにも喜びがあります。

「もしあなたが望むのだったら」ということには、私の都合や能力を理由にしない、神さまの力を信じたらできるという委託の姿勢が見られるとともに、まず自分がその一歩を踏み出さなければならない、そういう思いが喜びとして伝わってきます。

マリアの賛歌(1章47~57節)には「神がわたしに偉大なことをなされた」ということを恵みを受けた親戚のエリザベトとともに分かち合いたい、一緒に何かしたいという喜びの気持ちが表れています。

クリスマスの夜の天使の歌もあります。(2章8~14節) 「おそれることはない」と言われています。そしてすべての人々のための大きな喜びであるとのメッセージがあります。ユダヤ人だけのためではない、キリスト教信者のためだけではない、すべての人に発信しなければならない喜びなのです。

共に歩むイエス

共に歩む姿もイエスの特徴です。イエスは私たちとともに歩む「同行者」です。それが最もよく描かれているのは「エマオへの道」(ルカ24章13~35節)でしょう。自分が信じていたイエスが殺された。しかし父なる神はイエスの復活を信じていない弟子たちに「死と復活」という出来事をあかしされたのです。

私たちの周りにいる子どもたちにしっかりとした死生観を教える必要があります。いつかは死ななければならない時がある。だからこそ、マリアへの祈りには「今も臨終の時も祈ってください」とあります。「私には終わりもあるんだよ、だからこそいまあるこの命は大事なんだよ」と繰り返して祈っています。

道々あのことを思い出して語りあうことで心が燃えた。でもその時は彼がイエスだとは気づけず、食事をしたときにイエスと分かったとあります。このことは何か大事なことを暗示してはいないでしょうか。

説教者としてのイエス

「説教者としてのイエスの姿」も私たちをひきつけます。

ナザレの会堂で人びとに説教しました。(4章16~30節)

イサヤ書61章に示されたことが今ここで実現したとイエスはいっています。 イエスにとって、このイザヤの預言は自分の生き方の支えとなったことばでした。いわば、神からイエスへのラブレターだったのです。聖書は一人一人に対する神さまのラブレター、つまり私へのラブレターなのです。

一方ではそれを耳にしても、目にしても理解できない人々がいます。たとえば故郷の人びと、彼らは古い見方にとらわれ、ラブレターとして受け取れないのです。私たちはどちらのグループに入っているのでしょうか。

共に歩む者の育成者として

共に歩む者の育成者としてイエスを見ることもできます。

「人生」とは

人として生まれる

人として生きる

人と共に生きる

人を生む              という四段階を生き抜く存在です。

イエスがペトロを選んだのは失敗だったのでしょうか。イエスにつき従っていた時彼は「弟子たちのリーダー」としての自覚もあったかもしれません。けれども大事な時にペトロはイエスを裏切りました。取り返しのつかない裏切りをしたのです。後悔に明け暮れていたことでしょう。そのペトロをイエスは「教会の柱」として選ばれたのです。

船に乗ったペトロをイエスが招く。「 もう1回漁をしよう」と。疲れ切っていたペトロは漁師としてのプロ意識も持っていたが、「もしあなたのお言葉だったら網をおろしましょう」といって仲間を呼んで漁をしたのです。そして大漁という体験をしました。その時からペトロは自分の考えによるのではなく、神の意向を第一のものとするという姿勢をとり、教会の頭としていろいろな困難を乗り越えていく役職が与えられたのです。イエスはこのような形で「協働者」を求めたのでした。

失われたものへのメッセージ

「マルタとマリア」の箇所(10章38~42節)で、イエスはマリアに「必要なことはただ一つ」と述べています。日ごろ生きている上で、価値観をどういうふうに設定するかという問題です。何かをすることよりも、傍にいて聞いてあげることに優先的な価値観を示したのがマリアでした。その人が所有しているものや何ができるかという資格よりも、存在そのものに価値があることを教えている出来事ではないでしょうか。

ヨハネ・パウロ2世は晩年、老齢のために引退してはどうかと側近から言われました。そのときに教皇は「私が退位したら、病気の人や歳をとった人を排除することになってしまう」としてその考えを退けらたらしいですが、これも含蓄のある姿勢だと思います。

「放蕩息子(15章11~32節)」は二人の息子を平等に愛する父親の愛を描いています。このエピソードを通して、どんな人でも同じように愛を示す神の愛を示しています。弟だけではない、兄への愛も描かれているのです。兄は自分をどのように評価していていたのか、父と一緒に働くことを喜びとしていなかった、それは喜びの奉仕でなく、奴隷の奉仕とあには受け取っていたようです。それでも兄を息子として愛しています。過去のことにとらわれず、将来に向けて現在を受け入れる姿です。

「ザアカイへの招き(19章1~10節)」 ザアカイはみんなからいやがられていた、嫌われ者だったからお金で見返してやりたかった。イエスと出会って、うれしくなったのですが、結局は「お金を半分寄付する」としか言えないのです。それにもかかわらず、イエスはそれで充分だと認めているのです。少し前の個所で、イエスは「完全無欠」の若者と出会った時 「持っているものを全部売り払ってついてこい」と要求したのに。つまりイエスは相手を見ていっているのです。

「イエスの足をぬらす涙(7章36~50節)」。この席で彼女は招かれていなかった余計者ですが、そうせざるをえなかった彼女をあたたかく迎えているのです。

これらのイエスの姿を見て、学校というのは純白のレースではなくパッチワークの集団でありたいと思います。個性がある、能力も違う、でも建学の精神という同じベクトルを持っている。やり方によってはいろいろなことがあってもいいのです。無理な排他的な集団ではいけないということです。

よく仕事ができる要素として、普通はその人の持っている「才能」と「情熱」が指摘されます。その要素は0~100の範囲で計測されます。つまり最善の状態は「才能」100×「情熱」100で100000の達成度というわけです。でもカトリック学校ではもう一つ「方向性」というベクトルが大事なのです。これは-100~+100まであり、どちらの方向に向けて一つになっていくのかが大きなポイントとなっていきます。それがカトリック学校としての在り方を

左右していくからです。

祈るイエス

マタイ福音書は完成されている福音書といわれています。 教えのオンパレードという感じです。でもルカ福音書にはそういう感じがしません。

たとえば「主の祈り(11章1~4節)」。ルカ福音書では弟子たちが求めて、イエスが答えた祈りとして書かれています。父に対する親しい祈りとして必要なことを述べています。その中で大事なことは「負い目のある人を赦すから」というところだと思います。

ミサは赦しを願う祈りから始まり、聖体拝領の前にもう一度赦しを願います。赦されることの喜びがミサなのです。今の社会は赦されにくい社会になっているので、強調しても、し過ぎることはないでしょう。

「2つの祈り(18章9~14節)」のファリザイ人の祈りは自信満々の祈りで、「後ろにいるあの人のようでないことを感謝する」という祈りでした。一方、後ろにいた人は自分の罪を認めて赦しを願った人でした。そしてイエスはその後ろの人を褒めたのです。どこか親鸞の「悪人正機」の考え方に似ています。

役人たちに捕まえられて詰問されていた時、そっと後を追っていたペトロは見つかり、仲間ではないのかといわれたとき、明白に否定しました。その直後に「イエスは振り向いてペトロを見つめられた」というのはルカだけにある表現です。イエスはペトロの弱さを指摘し、それを受け入れています。ペトロはそれを体感して、そのあたたかさに泣いたのです。

オリーブ山での苦闘の祈りはゲッセマニの祈りとも呼ばれています。人々の救いのために必死で祈るイエスの姿が描かれています。

もしかすると皆さんはご存じないでしょうが、ミッション・スクールのすばらしいところは皆さんの知らないところで祈っているシスターの姿があるいうところでしょう。病気や老齢で第一線を退いておられるシスターたちが祈りや犠牲をもって、学校関係者の一人ひとりのために支えてくださっているのです。このように誰かのために祈っている、誰かが祈ってくれている、目には見えない祈りによってカトリック学校が支えられているのです。

十字架上での祈りは、死に向かっていくは6時間にわたったと書かれています。イエスは人々に対して、人々のために十字架上から叫ばれました。弟子と母に向かって言われたことも、一番最後に「すべては成し遂げられた」こともすべての人びとに対しての取次ぎを願う、開かれた祈りでした。この祈る姿、祈りの力を先生方の間で共有してほしいと思います。

隣人になりなさいと招くイエス

他人の不幸をほおっておけないイエスの姿をよく表しているのは「よきサマリア人(10章25~37節)」です。

私の隣人があらかじめいるのではなく、すすんで隣人になることが求められています。

私の助けを必要としている人が「隣人」なのです。これは社会の中で多くの人に目を開いているのかということが問われています。

「かいしん」という言葉があります。この言葉にはいろいろな漢字が当てられ、それぞれ少しずつ意味が異なっています。例えば次のように考えられないでしょうか。

回心 心の向きを大きく変える

改心 心を悔い改める

会心 人の心と出会う

開心 閉鎖的ではなく、心を開く心

快心 心から喜ぶ

これらのいろいろな意味での「かいしん」が学校教育中でも求められていないでしょうか。

十字架の苦しみがあるから希望がある

今、カトリック学校は原点に戻ることが求められています。でもそれは開校時以来築かれてきた信頼や伝統に甘えるなということでもあります。 現代社会での信頼をもかちとっていかなければなりません。その意味では日々、現代の若者たちが必要とする価値をきちんを与え続けていかなければなりません。そのニーズに応え続けていくならば、私たちの学校は存在感のある学校として存続できるのではないでしょうか。

だからこそ、各学校に携わる者たちが自分の学校でしかできないカトリック教育の価値を明確にし、日々その質を高めながら、周りの社会にその情報を的確に流していく働きが要求されるでしょう。

それは他と同じことをするのではないので、産みの苦しみを伴うことでしょう。そしてだからこそ、十字架の苦しみがあるからこそ希望があるとしたイエスの姿から学び取ることができるのではないでしょうか。

河合神父が配布された「資料」は以下のようなものです。
きっとなにかの参考になるだろうと思います。

1.今日のレジメ「養成塾『イエス・キリスト』」
KawaiRejime1

2.顧客満足にかかっている私学の存続
KawaiRejime4

3.イエス・キリストに見るいくつかの特徴
KawaiRejime2
KawaiRejime3

4.教師に見るイエスの一生。
KawaiRejime5

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