第5回 イエスキリストについて 梶山義夫神父

今回のテーマも前回に続きイエス・キリストです。ただし講師はイエズス会の梶山神父です。前回と比較してみて、二人の講師の話の共通点と違いを意識することができたら、この講演の目的は達成されたといってもいいかもしれません。

ナザレのイエスあるいは歴史のイエスという見方

イエスを知るには4つの福音書しかありません。福音書に描かれているイエスは、史実なのかと問われることがあります。 今日はマルコ福音書からいくつかの個所を読みながら、イエスの姿を探求したいと思います。

マルコ福音書では、いきなり大人のイエスが現れます。イエスの誕生の記述はありません。また、マルコは16章からなっていますが、16章9節以下は、古い写本にはなかった、つまり復活したイエスが現れるという場面がなかったということです。

イエスという方はどういう存在なのか?

マルコ福音書のなかで、印象的なイエスのイメージの一つは、「祈るイエス」の姿です。

マルコ1章9~11節には、いきなり大人の姿で現れて、ヨハネから洗礼を受けたという話が出てきます。「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」天をからの声を聞くということは、祈りの大切な要素です。「心に適う」と訳されている言葉は、「喜ぶ」という意味も持ちます。つまり「私が喜ぶ者」という意味です。私は、ここで、イエスは自分だけではなく、すべての人一人ひとりが神から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、心の喜び」と呼びかけられていることを悟ったのではないかと思います。

6章46節には、群衆と別れてから祈るために山に入られたと書かれています。

一人でいること、沈黙していることが祈りの基本だということを示しています。現代人にはこれが難しくなった、一人での沈黙のエクササイズは現代人にも是非必要なのです。

ゲッセマニのイエスの姿を描いたところでは(14章32~36節)、イエスが逮捕される直前でのイエスの祈りについて書かれています。

イエスは父なる神に「アッバ、父よ」ととても親しく語りかけます。ここは「私の愛する子」と洗礼のところで呼ばれたことと呼応しているでしょう。当時、子どもは父親から出て、母親の胎内で大きくなって、生まれ出ると考えられていました。神を「お父さま」と呼びかけることは、人が直接神から生まれ出るという意味です。イエスだけではなく、すべての人が直接神から生まれ出たのです。神を父親として表現することは、現代の男女関係からすると抵抗があるでしょう。しかし、一人ひとりに対する、神の「おやごころ」を聖書は強調しています。

十字架上の祈り(15章33~37節)で、イエスは「エロイ、エロイ、レマサバクタニ」と叫び、さらに大声を出して息を引き取ったとあります。

祈りの基本は苦しみの中の叫びにあります。祈りとは、自分の苦しみの表明できる場なのです。神はどのような苦しみの叫びをも聞き入れる存在です。しかし、私たちも自分の苦しみの叫びだけではなく、他の人々の苦しみの叫びに敏感なのかが問われます。また、他の人のために祈るとは、他の人の苦しみに共鳴し、行動を起こすのでなければ意味がないでしょう。人間には祈る能力がありますが、現代人はその能力を十分に養っていません。

イエスの教える姿、つまり教師としてのイエスをみましょう。

「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章14~15節)これはイエスが宣教を始めるときの第一声です。

ここでは「罪のゆるし」が語られています。罪の概念は重要です。

罪という言葉は、「矢が的を射ていない」という意味からきています。歩むべき道を歩んでいないということでしょう。一人一人すべて罪人であり、どこか歩むべき道を歩んでいないということに気づくかどうか。道徳的な倫理観を喪失しがちな私たちは、誰もが自分の目標を見失い、また自らの罪を見ようとしないいわば「目隠し構造」のなかに生きているのかもしれません。

「悔い改め」をしめすメタノイアというギリシャ語は、「考える道筋を変える」ことです。

悔い改めというと、悪い点だけを反省するという感じですが、まず大切なことは、自分がいかに多くの人々から実際に大切にされてきたのかを思い起こすことから始めます。「内観」の方法は学校現場にも使うことができます。罪を自覚するのは、いかに愛された存在であるかを気づくときなのです。

内面に入っていくだけでなく、逆に外に出て行く。しんどい思いをしている人と出会う、生徒を釜が崎に連れて行くと、ある生徒はそこで自分の愚かさに気づく。これも回心のきっかけになります。

イエスはたとえ話で「神の国」について説かれた。

「種まきのたとえ(4章1~9節)」で「よい土地に蒔かれた種」だけが、複数形です。農夫の働きは、さまざまな失敗や困難があっても、豊かな実りという形で報われるということを示しています。

これらのイエスのたとえ話をどういう状況で共同体は聞いているか、を意識してみてください。

あちらこちらで迫害されている中で福音を述べ伝える、それは必ず豊かな成果という形で報われるということを示していることになります。私たちの教育も同じです。

マルコには「病人をいやす、悪霊を追い出す(1章29~34節)」という話が多い。マタイはどちらかというと教師であるイエスを示しているのに対して、マルコは「癒す人」です。

「癒す」というギリシャ語の言葉は「テラピー」の言葉の語源となっています。癒すというよりも、献身的に手当をする、看病をするという意味で、直接関わって接していくということなのです。手を取って起こす、汚れている人に触れていく、つまり苦しみを共有していく行為によって、人が変わっていくのです。

私たち一人一人の幸せを阻む原因が自分の中に働いている、それは「悪霊の働き」です。良いものを選んでいくことは、悪霊を追い出す行為であり、善霊にゆだねることなのです。子どもたちが生活の中で何を具体的に選ぶのかは、重要です。その成長を促すための選びを助けることは教師に求められることなのです。

片手の萎えた人についてです。(3章1~6節)

その人は会堂の隅にいました。苦しむ人こそ、真ん中にいる存在であると考えて、真の中に出るように言いました。安息日のルールをイエスが守るかどうかに注目している人々に対して、イエスは「怒る」。怒りも場合によって教育の現場で必要です。

イエスは自分が実行するだけではなく、弟子たちを養成します。

3章1~6節は、弟子たちを選ぶ場面です。使徒とは「遣わされるもの」です。カトリック学校の教員はこういう観点から見ると、皆「使徒」なのです。宣教するとは神の国の福音をのべつたえることですが、それは子どもたち一人一人が愛される存在、喜ばれる存在であることを、自分が子どもたちを愛して証明していくことです。

マルコ福音書では、イエスは弟子になるために必要なことは3つあると述べています。「十字架」、「仕える者、しもべ」、「幼子」というイメージです。

まず、自分の十字架をになうことです。(8章34~35節)自分に担うことができない十字架はありません。しかし、自分を捨てないと担えない。自己実現するにも、「自分を捨てる、つまり脇に置く」段階を経なければなりません。

さらに皆に仕えるものとなることです。福音書には「しもべ」ということばがよく使われます。(10章42~45節)新約聖書の「しもべ」の一つのイメージは、食べ物に困っている人に食事を与えるというイメージです。人々の根本的な必要に、応える人です。もう一つのイメージは、

「奴隷」と訳される言葉です。自分の意志を「脇に置く」存在であることを示す言葉です。教師の権威は、しもべの権威です。教えるものの権威の根本は「いのちを与えていく」ということです。いのちを分かち合っていくこと、これは親の権威と同じ。その権威の中に育むこと、導くこと、教えること、叱ることなどがあります。

子どものように(10章13~16節)

当時に子どもはあまり価値がないと考えられていました。子どもの概念は近代に生まれたもので、この時代には人としての価値に数えられていませんでした。

こどもはおさなご。子どもを「うるさい」存在とする大人に対して、イエスは憤った。「神の国はこのようなものたちのもの」、そしてさらに「はっきり言っておく、子どものように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることはできない」ときっぱりと言います。

わたしたちは、子どもたちを本当に受け入れているかどうか、喜んでいるかどうか。子どもたちを受け入れていくためには、「自分を脇に置いておく」ことが必要です。

イエスは子どもを祝福したと書かれています。祝福とは、良いものが与えられるように願うこと、子どもの成長を願うこと、一人一人がユニークな存在であることを認めること、そして良いものを見つけて褒めることです。せっかく持っている素晴らしいものに気付いていないことが多いのです。教師は、子どもたち中の素晴らしいものや小さな成長を見つけて、自分も喜び、それを子供たちが気付くように導く使命をもっています。ここにもイエスの教師としての姿があります。

イエスは律法学者とわたりあって、ファリサイ派の人びとの教師像を厳しく批判します。

(7章1~2,6~7節)ユダヤ世界にギリシャ文明が入っていくうちに、排他的民族主義的な考え方が強く出てきました。それはユダヤ社会のアイデンティティとして律法を守ることを強調します。安息日や割礼などの掟を守ることを絶対的なおしえとした外面的な規則絶対主義をイエスは「偽善」として批判しました。

福音書に彼らへの批判が書かれているのは、福音書が書かれた共同体にファリサイ派的な考え方が根強くあったからでしょう。教会に実はこの考え方が入りやすい。

この考え方は、宗教だけではなく、教育の世界も陥りやすい問題なのです。「父、先生と呼ばれてはいけない」とイエスも言います。宗教や教育は「ハラスメント」が生まれる温床でもあるのです。

イエス神殿にて(11章15~19節)

イエスは、こういうことをするから死刑になるのでしょう。

イエスは神殿の中で当時行われていることが、本当の礼拝ではないと批判し、その批判を行動で示しました。神殿の管理職である大祭司は権力のトップにあり、それはローマ皇帝からも認められていた権威であったのです。ところがイエスはそこを根底から否定した。だから死刑をうけた。最高法院「神を冒涜するもの」として死刑の宣告を受けたのです。(14章53,61~64節)2人の強盗と一緒に、ローマ帝国に対する反逆者として十字架につけられました。「ユダヤ人の王」という罪状書きをつけられて。(15章25~28節)

5000人の男にパンを与える(6章30~44節)

そこは人里離れた場所で、砂漠、荒れ野であり、食物がなかったのです。 旧約聖書でも、荒れ野は、エジプトから出た民が、パンがないと叫びました場です。そこで「マナ」が与えられました。ここでイエスは、よい牧者として表現されています。これは今でも「最後の晩餐を記念する」共同体のミサとして生き続けています。このミサを通して、イエスは良い牧者として、つねに共にいるということを示しています。

学校もこのような場です。教師はいのちの糧が入ったかごをを与えられ、パンを子どもたちに配る。教師はいのちの糧を配り、仕えるしもべなのです。

湖の上を歩く(6章45~52節)

ガリラヤ湖が舞台でした。海は「カオス」です。嵐は秩序をひっくり返し、いのちを無にしてしまいます。このカオスの暗闇に舟があります。舟は共同体のシンボルです。この湖の上で危機の状態を迎えます。こういう中で「安心しなさい、恐れることはない」とイエスは言います。

今の学校の現状を、「あらし、くらやみ」ととらえている方もいるかもしれません。そのようななかで前向きに子どもたちを大切にしていく、成長を祝福していくことができるのかが問われます。その困難のなかで、「嵐のなかの舟」とも言うべき職員室が、神の国となっているかが問われます。そうであれば、「安心しなさい。恐れることはない」という言葉を聞くでしょう。

質問 イエスとキリストとはどう違うのですか?

イエスは、よくある人名です。・キリストという呼称は、油が注がれた者という意味です。イエス・キリストという表現は、イエスはキリストであるという信仰告白を込めて使われる言葉です。

感想

今回の話も、聖書の話でちょっとどうかなと私は思っていたのですが、小グループで皆さんの感想を聞いてみると意外にもおもしろかったという感想が多かったのですね。ちょっと驚きました。聖書のイエスを学びながら、学校の中の自分をそれと重ね合わせながら聞いているというのです。

特にファリザイ人を批判するところで、心を動かしました。学校というところは律法主義に陥りやすいところです。イエスがファリザイ人を批判するのは、学校の中の私たちが批判されているように感じました。

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