第9回 「学校の使命」 Sr.杉田紀久子

「カトリック学校の使命」についてはこれまでの話や、分かち合いの中でいろいろ出されているし、現場での経験、問題などを通しても、自分なりのとらえ方も持ち、または、感じてきている方も多いと思うので、まず、私が話す前に、いくつかの質問を投げかけておきたい。

Q1.あなたがカトリック学校に就職する時の思いはどんなものでしたか。カトリック学校で過ごしてきたあなたの今の思いはどのようなものですか。あなたの学校は、何を大切にしていると思いますか。それはどのように表わされていますか。

Q2.あなたは「カトリック学校の使命」をどのように捉えていますか。

Q3.カトリック学校の使命をめぐって、あなたは、現場の仲間と話し合ったりすることがありますか。建学の精神の深めや表し方についてはどうですか。

Q4.あなたとあなたの学校の「良い点」(他の人と助け合い、力のなるもの)は、どんなことですか。学校のことで、「もっと多くの人に知らせたいこと」は、どんなことですか。

Q5.あなたの学校で、「カトリック学校の使命」をより具体的に生きていくために、どのようなことが必要と思いますか。どのような助けがほしいでか。(司祭・修道者がいなくなってからのことも考えて)

*      *   *

「学校の使命」というテーマをいただいた。それを即「カトリック学校の使命」に入る前に、一般的に「学校」というものに少しだけ触れてみたい。

「学校」というのは、「一定の教育目的のもとに、組織的・計画的に教師が、児童・生徒・学生に継続的に教育を施す施設」(広辞苑) とある。

どんな学校でも、ある教育目的があって、それに向かって大小の計画・目標が組み立てられていく。施設もそれに沿って作られる。

・ぺルーで出会った学校作り:学校を建てる前に、人々を呼び集めて、目的、やり方などを話し、賛同する人が一緒に、資金、労働力、時間、技術などできることを提供し、文字どうり「共に」創っていく。子供も自分たちの机、椅子も作る。従って、学校の最初は、地面の上に、あるだけの古い机、腰を下ろすものを用意し、よしず張りの小屋での授業開始。――目的がはっきりしているので、みんなで協力して作っていく。

日本では、「国・公立」の学校と「私立学校」あるが、カトリック学校に関係する「私立学校」の目的、特徴に触れておきたい。

①    私立学校

「私立学校の健全な発達を図ること」を目的とする  (私立学校法)そのために私立学校の

1 自主性の尊重――独自性を主張 (私塾、寺子屋の流れも)建学の精神

2 公共性の確保――公共の利益を目的とする 日本社会全体に開かれたもの(公/全体の奉仕者)

*私立学校は、学校法人の設置する学校をいう。=非営利法人/経営の責任 (私学法)

②    カトリック学校

私立学校であるカトリック学校:  A.自主性=独自性 と B.公共性をみていく

A.カトリック学校の独自性

カトリック教会の使命を担う学校=キリストから、派遣、教会から派遣され「人間の人生に関わるいろいろな学校」(幼少から成人になり、様々な分野)で、「福音」を伝える使命(ミッション)。キリストから使命を託されて派遣されているカトリック学校での使命を果たすために

1. どのような人間に育っていくことを手伝うか

2. キリストのミッションを続けていく学校共同体/教職員共同体として どのように成長していくか、

この二つの点を中心に見ていきたい。

1. どのような人間に育っていくことを手伝うか

モデルはキリスト――学校の創立者が誰であっても、カトリック学校の源は、キリストであるから、キリストとその生き方、大切にされたこと、ミッションを聖書を中心に知っていくことで「どのような人間」を育てるよう手伝うか、また教職員自身も「どのような人間」になっていくか、理解と実践を助けられる。

*教職員が信者であっても信者でなくても“同じミッション”を生きるために、知っていくことは必要。

*児童・生徒・学生の卒業時の姿・プロファイルを描くと同時に、卒業後10年~15年後の姿・プロファイルを描いてみる

聖書に見られる「人間とは?」について、創世記1章から4章の始めまでの中から、いくつかの特徴をあげてみる。

―― 「人間とは?」:

・人間は、「神に創られたもの」「神に似せて創られたもの(神の似姿)」(創世記26・27) 似姿(image、)=交わるもの(受ける/与える、愛される/愛する)、自己表現するユニーク(唯一性)自由に選ぶ(自由意思)―(責任が伴う)

・人は「土の塵」で創られた  (創世記2:7)――「土の塵」=人間の弱さ、もろさ、惨めさ、醜さ、限界、死,,,―――神はそこに働かれる。キリストはそこに目をとめられる。人間は「土の器」。失敗して当たり前、失敗を通して何を学ぶか。

・人は、土の塵で創られたが、「命の息」を吹きいれられ、「生きるもの」となった。「命の息」=神の命、愛、神のDNA(神に似た者)

・「人が独りでいるのはよくない。(私が)彼に合う助けるものを与えよう」(創2:18)

人間が生き、成長するには、一人ではできない。「交わる者/かかわるもの」として生きているから。語りかける相手、聴く相手、愛しあう相手なしに、いのちは、育たない。「彼にあうたすけるもの」、つまりお互いにとって助け合えるもの、どちらがが上とか、下でなく「互いの脇/傍らに置かれた」者同士として,対等でかかわる中で育つ。

・「2人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創2:25)

お互いに、ありのまま、その人として受け入れ合っているので、不完全な部分も、恥ずかしくはない。自分が「土の器」であることを受け入れ、生きているのは「命の息」をいただいているから「生かされている」ことを理解し、自覚していれば、「自分の弱さ、惨めさ,,,」も恥ずかしいというより、受け入れ、自分を知り、他を知り、受け入れていく力につながる。

・人間は、神に似て、一人ひとり「唯一/ユニーク」、一人一人違う。

これを忘れると、自分と同じでないものを差別、いじめる、他との競争、比較、ハラスメント、最悪の場合殺人にまで至る。家庭、学校、社会での人間関係、能力の伸ばし方、評価の仕方の工夫が求められる――「一人ひとりは違っていい」「あなたは大切」「みんな神に愛されている、神に似たものをいただいている」「あなたがいただいている能力をよく伸ばし、他の人のために使うように」と言って、受けとめ、励ますように。このことは、一人ひとりに「その人のための居場所」があることでもある。

*そうでない場合――「神のようになる」(創3:5) 「賢くなるように」(創3:6)「裸であることを知り,恐ろしくなり隠れている」(創3:7,10) カインとアベル(兄弟殺し)(創世記4章)

*神の眼差しや、物差しは、比較や競争ではない。その人にふさわしいものを見ておられる。(やもめの献金の話、砂漠でのマナの話―出エジプト記16:17)

2. キリストのミッションを続けていく学校共同体/教職員共同体として

学校共同体や、教職員共同体も「人間」の集まりであり、「土の器」である。人間関係で難しいこともあるだろう。ありのままを受け入れることが難しいこと、許しあう、補いあうことが難しいこともあるであろう。頭でわかっていても、行動に出さないこともある。

だからこそ、失敗、挫折、限界は人間なら当たり前と受け止めあって、「命の息」をいただくチャンス、謙虚になり、助けを願い、お互いのために祈りあい、成長への呼びかけととらえてみる.この歩みは、キリストの「十字架―死―復活」の体験。このような歩みのなかで、カトリック学校の使命は、日常の生活で果たされつつあると言えると思う。

*各学校での「使命」の果たし方は、学園に関係するものの協力なしにはできないが、なかでも、直接、教育現場に立つ「教師の資質向上」のための努力と支援がいる。

学園の目指すもの、(育てたい人間、大切にしたいこと)の共通理解と互いのかかわりが必要。同じ目的に向かう共同体の仲間、助け合える仲間、「一つの体の一部」として、「各自の良さ、恵まれた部分」を出し合うことが、少しずつでも出てくると、その共同体は生き生きしてくる。学校に「特徴」が出てくる。

*発達段階に応じて、日々の教育活動(授業、行事、部活など)で具体化していく。

男子校、女子校の特色もあるだろう。特に、子供たちに「感嘆する心/センス」を育てる(金子みすずの詩の例)

B,カトリック学校の公共性

カトリック学校も「公の奉仕者」として、日本全体に開かれたものであり、カトリック学校に在学する児童・生徒・学生の多くはカトリック信者ではない。親や本人の自由な選びで来ている。

だからこそ、学校は、学校の願い、目的とすること、そのための協力願い、共にしたいこと等を、はっきり打ち出し、選んでいただく。

前の河合神父様の話に出ていたように、「生徒からみた満足度=豊かな学力と、この学校にいてよかったという肯定的な満足度」も考慮することは必要。

地域社会との連絡・連携も必要です。カトリック学校が独りよがりにならないために。また、教区の司祭たちとの連携もあるといい。

*          *

教育は人間の一生と社会の在り方に大きな影響を与える。国の方針や社会の価値観に影響され方向づけられていく。それも敏感に感じながら、カトリック学校の使命について考え、生きていかなければならない。 社会に貢献する人材を育てることも大切だが、それだけでは足りない。社会そのものも変えていく力になるような人を育てる使命がカトリック学校には与えられている。

カトリック学校は、現在難しい問題も抱えているが(司祭、修道者の姿が学校から消えていく、少子化とその影響で、経済的な問題,,,)、現代の日本社会が人間らしさを失いつつある中で、カトリック学校の果たす役割は、ますます大きくなっていると思う。

カトリック学校への教会の期待も大きい。それに応えるために、カトリック学校相互のネットワークを作り、協力連携を図る必要がある。養成塾の目的の一つはそこにもある。

【全体会議にてだされた感想など】
● 小中高のセクションを超えてどう連携していくのか、小1プロブレム、中1ギャップなどに対処するために協力が必要です。ピンチをチャンスに変えていきたいです。
● 人のために汗を流すことを喜びとするような「人間の器」に育てていきたいです。
● なかなか教職員の一致ができないけれど、「祈り」をするときは一致しているということはすばらしいことです。
● 水害の時、水かさが増えて今にも水につかってしまうときに祈っていた先生が紹介されました。祈りのすごさだと思います。
● シスター方が学校からいなくなったときの大変さを今味わっています。こういうときだからこそカトリック学校同士の横の連帯が必要です。
● 学校共同体ということが話題となりました。教職員の共通理解と一致がそのためにもっとも大事であることを確認しました。
● 生徒も学校共同体の大事な一員です。生徒と教員との違いを意識しながら、柔らかい器を作っていきたい。
● 教職員がホンネで語り合うことができる環境はどのようにしたらできるのだろうか?
● 担任、教科、くらず/委員会、行事など、多面的な活動の活動のなかで、ひとりひとりの優先順位をことば化して認め合うことが大事ではないか。
● ともに働く仲間としての意識を育てるために、お互いのよいところを認め合うことがもっとも大切である。
● 共同体であろうとするときのなやみについて分かち合った。共同体を作るときに妨げとなること、助けになることがある。それをみなで出しあったらいい。

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