第10回 福音宣教する学校  浦 善孝 神父(イエズス会)

福音宣教する学校

−カトリック学校の使命を果たすこと−

浦 善孝 神父

(泰星中学高等学校・イエズス会)

「教会にとって福音をのべ伝えるということは『よい知らせ』を人類のすべての階層にもたらし『わたしは万物を新しくする』とあるように、固有の力で人類を内部から変化させ、新しくするという意味を持っています」(教皇パウロ6世『福音宣教』no.18、1975年)

はじめに

カトリック学校の教師養成塾での話を依頼され、「学校の使命」というタイトルが与えられました。私は「学校の使命」と言うタイトルを「カトリック学校の使命」と理解しました。従って、これららお話させていただくことのテーマは、学校の使命、特に「カトリック学校の使命」といたします。カトリック学校の使命は一言で言うと「福音宣教する」ことであり、すなわち「カトリック学校とは福音宣教する学校」ということになります。

「福音宣教」と言うと信者でない先生方には耳慣れないか、戸惑いを抱かせてしまう言葉かもしれませんが、簡単に言うと福音宣教とは、イエスの生き様、死と復活、そしてそれを信じる者が救われるということを述べ伝えることであり、そうすることがカトリック学校の使命だということです。カトリック学校には小中高であわせて約10万人の生徒がいます。その生徒たちに、具体的に福音宣教するとはどういうことなのでしょうか。「福音宣教する学校」の真相は、「イエスの生き様、死と復活、そしてそれを信じる者が救われるということを述べ伝えること」を通じて、生徒一人ひとり、彼ら、彼女らが、よい人間として成長し幸せな人生を過ごせるように、そして他者のために生きることができるように養育する(nurture)ことにあります。生徒がよりよく生きることを支える使命、そのためにカトリック学校があるとも言えるでしょう。

このような使命を持つカトリック学校にとって、最善の参考文献は新約聖書、そこに描かれているイエスの言葉と行いなのです。福音宣教する学校であるためには、現状では、この聖書を基にした教育を、キリスト教の信仰を持たずにカトリック学校の教職員となっている方々と信徒が一緒にチームを組んで働いてゆくことが求められています。多くのカトリック学校では、創立したときに苦労されたかたがたのほとんどが引退されつつあると思います。そして今ここに集まっている教職員は、私たちの先輩が作り上げてきた学校を、維持し発展させていくという使命を負っています。私が以前勤務していた六甲学院ではそれを「第2の創立期」という言葉で表現していました。この第2の創立期にあたって、カトリック学校の教職員の構成は修道者の減少のために-あわせて信徒の教職員の減少も最近危惧されるようになってきましたが-、非信徒の教職員でカトリック学校の特徴である「福音宣教する学校」を維持・発展させることが求められています。そのための方策を、以下のお話の中で皆様とご一緒に考えてゆきたいと思います。

1.カトリック学校の「根本決断」

カトリック学校に関していう「根本決断」とは、学校共同体がどの方向に向かって歩もうとしているかという、学校の根本的な態度を指します。カトリック学校の根本決断とは、学校の究極的な目的を言い表す「腹づもり」ともいえるでしょう。私たちの学校の根本決断を確認することは学校についての自己理解を行うことであり、それを表現することは自己の思いに素直になるということです。個人が自分の望みを表現しながら生きていくように、学校も同じように歴史を重ねてゆきます。自分は個性があると思っても引きこもってしまったら個性は表現されず、他者からその個性を承認されることもないでしょう。個人も学校も自分の生き方を主張して社会に認めてもらう必要がありますし、それが自信獲得につながります。

(1)カトリック学校は神中心の学校 God centered school / not Godless school

カトリック学校は、イエス・キリストとその後継者である教会と結ばれて、福音宣教を行う司牧的組織(pastoral institute)でもあります。したがって、そこで行われている教育は自ずとキリスト教的価値観にもとづいていることが求められます。しかし同時に、カトリック学校は公益的な教育施設として他のすべての学校と同じ教育目標を強く分かち合っています。恐らく学習指導要領に従って、カトリック学校のカリキュラム(explicit curriculum)の9割以上は他の学校とほぼ同じであり、残りの1割くらいでカトリック学校としての独自なカリキュラムを編成することができるのではないでしょうか。

カトリック学校は、他の公立や私立の学校と公教育を行う責任を共に分かち合っています。カトリック高校のほとんどが、全日制普通科であり、普通教育(general education)を行うという使命を持っているわけです。カトリック学校で働く教職員は、誰であってもこの責務を重要なものと自覚する必要があります。このことについて、米国における調査研究があります。[1] それによると、アメリカのカトリック学校の特徴は特に恵まれない教育環境にある子どもたち(disadvantaged students)のめに役立っているということが報告されています。学力から言えば、理科は公立のほうがよく、あとはカトリック学校の方がいいようです。したがって、カトリック学校が教科教育に力を入れることは、カトリック教育の伝統と矛盾するものではありません。

一方で、これまでカトリック学校は特別支援教育(special education)にはあまり関わってきませんでした。これからは、公立学校と協力しながらこの教育分野にもカトリック学校が参加すべきだという実践の試みも米国でははじまったようです。そう考えると、日本でもいままでのカトリック学校のタイプを変える選択肢もあり得ますし、カトリック学校と公立学校が相互に補完しあうことを模索する時期に来ているかもしれません。

(2)福音書のイエスの姿

一方で、カトリック学校と他の学校との差異も明白です。たとえば新約聖書のマルコによる福音書の1〜3章を取り上げて見ると、そこには「神の国の到来」について描かれています。たとえば、悪霊に取りつかれた人を悪霊から解放し、重い皮膚病を患っている人、中風の人を癒し、徴税人を弟子にします。人々はイエスと出会うことにより、新たな人生を歩み始めたり、人間性を回復したりします。それは、イエスと出会うことによって可能となります。冒頭に掲げている教皇パウロ6世の言葉をもう一度ご覧ください。カトリック学校と他の公立・私立学校との違いは、教科教育、生徒指導、特別活動やクラブ活動、そして教育相談など、あらゆる教育活動の中に、「新しい人となる」という次元が加味されています。すなわち、英・数・国・理・社・体・技術家庭・芸術などすべての場面で生徒一人ひとりに、イエスが人々に接したように、またイエスが彼の弟子たちに接したように、接することが望まれています。ただし、各自それぞれアプローチは異なるでしょう。

私たちが神中心の学校で働いていることを自覚することは、私たち皆が同じeducational communityで働いており、同じ教育哲学を分かち合っていることを意識することです。このように、同じ教育哲学を分かち合う人びとによって、他の教育システムとは異なる「カトリックの教育システム」を日本にも構築することが可能だと思います。これが私たちの将来に向かっての希望であり、この教師養成塾がその実質的な第一歩となっていると思います。自分がどんな学校で働き、どんな仕事をしているかということは、自分のアイデンティティと関係します。そしてイエスがどういうことをしたかを知ることは、自分の働いている学校を知ることであり、カトリック学校で働くことの意義の自覚とも関係してきます。

2.カトリック学校の根本決断の刷新 -新・福音宣教する学校-

(1)カトリック学校で働く教職員のミニステリア(ministeria)

今は、私たち教職員が自分たちの手で「福音宣教する学校」というカトリック学校の根本決断を刷新すべき時です。修道者が少なくなり、学校の構成メンバーが交替し新しいメンバーが学校の主役となりました。したがって当然、カトリック学校の根本決断の表現や理解の仕方が変わってくるでしょう。一方で、その学校の伝統を守るという点では「健全な保守主義(healthy conservatism of Catholic Schools)」という態度を持つことも大切にしなければなりません。

「ミニステリア」とは何かの目的をもって派遣される職務を指します。奉職、役目、任務などの言葉でも表現されます。カトリック学校が特別な使命を帯びているなら、それに加担する教職員も特別な使命を持っていることになります。そういうふうに考えるなら一人ひとりに与えられる校務分掌はみなミニステリアなのです。教科を教える場合でも、クラブ活動の顧問をする場合にも、カトリック学校においては、福音宣教すなわちイエスの言葉と行いに心を馳せながら教育に携わる使命をもっていることになります。

カトリック学校の教職員は自分たちの仕事をミニステリアと考えることによって、学校の根本決断と自律的に関わることができるのではないでしょうか。さらに、カトリック学校の根本決断(使命)とそこで働く人々の生き方(vocation)が重なる領域があれば、そこで互いに協力し合いながらカトリック的教育を実践していくことができるのです。カトリック学校で働く大部分はキリスト教の信者ではないけれども、「カトリック」の学校で毎日働いています。けれども、ほとんどの教職員が、生徒に教えたい、私たち自身いい生き方をしたい、生徒と人間的な関わりを築きたいというところでは一致しているわけです。この部分で私たちの教育哲学は一致するのではないでしょうか。ただ、神中心という縦軸が存在するのがカトリック学校なのです。私立・公立を問わずすべての教育組織には先に述べた教育哲学があり、時としてそれが教育現場に緊張感をもたらすのも事実だということも付け加えておきます。

(2)教職員と設立母体である修道会の対話

日本のカトリック学校のほとんどは修道会によって設立されました。設立母体の修道会はイエスのしたこと語ったことを受けついでいく修道会のカリスマをもち、具体的な表現形態の一つとして教育活動があります。創立者の精神はイエスの姿に結びつきます。先生方が勤務される学校に関わっている修道会は、現在どんな事柄に関心を持っているでしょうか? そのことは、修道会自身からは話さないかもしれません。修道会から先生方にコミュニケーションをするのが弱いのではないかと思われます。でもそうだとしても先生方の方から、シスターや神父さん方にそれを聴いてみたらいいと思います。

設立母体である修道会と学校の教職員との対話は実はあまりうまくいっていないといえます。「宗教法人と学校法人は別個のものだから」ということが理由だからかもしれません。けれども、修道会からは学校運営に責任を持つかそれに関わることが修道会の使命を果たすことになり、学校が会の使徒職の場であるという意識に基づくビジョンを教職員に提示することが必要でしょうし、教職員も学校が自分の人生の自己実現の場であるという意識に基づく人生のビジョンを提示して、そこで両者の使命の共有ができたら相互理解が可能となるような気がします。司教や地区の教会とのつながりについては、教会の教える務めについて教会法にも説明がありますが、基本的には同じようなことが言えると思います。

さらに最近、経営母体という言葉は使われなくなってきて、修道会は設立母体といわれるようになりました。それと同時に、修道会の学校に対するスポンサーシップのあり方が問われるようになってきました。そこで、具体的な修道会と学校のコミュニケーションの一例として次のようなモデルが考えられます。修道会は、設立母体としての権利を持っており理事会のメンバーとなります。学校内には、修道者と教職員からなるアニメーター・グループをつくります。理事会、校長、そしてこのアニメーター・グループが協力して、カトリック学校としての特性を維持・発展させる核となるように連携して活動します。

(3)「協働意識」とネットワークによる新しいカトリック学校の権威構造

次に、修道会のスポンサーシップと新たな担い手としての教職員との協力のあり方について考えてみましょう。聖書の使徒言行録に、ユダヤ人でないキリスト者に律法に基づく割礼を求めるかどうかということが問題となりエルサレム使徒会議があったことが書かれています。パウロの活躍により結論として、割礼を異邦人キリスト者には求めないことが決定さら、それがキリスト教が世界宗教となる契機の一つとなりました。そこには、イエス・キリストの教えを純粋に保持することを第一とする根本決断があったために、これまでユダヤ人の大切な伝統として守られてきた割礼を求めない決断を下すことができたのです。この出来事は、真のメッセージを大切にするために、今までの言い伝えや習慣を大胆に変えていくことの重要さを示しています。

日本のイエズス会の学校は、4つの学校に共通の幾つかの伝統があります。たとえば、授業前の「瞑目」や「中間体操」、「校内服」などはそれらにあたります。「瞑目」は授業の開始時と終了時に、生徒は目をつぶって先生の授業開始や終了の合図を待つという習慣で、「中間体操」は午前中の2時間目と3時間目の間に上半身はだかになってランニングしたりと体操をしたりするという伝統です。最近、私の学校ではシャツをきて走ってもよくなっているのですが、学校内ではこれを続けるかやめるか度々議論があります。そもそもは六甲学院が軍事教練の一環として始めたと言われています。私は、必要ならばこの伝統を変えてもいいと思います。もし学校の根本決断が揺らぐことがないならば、それに照らしあわせて今やっていることが学校の教育理念や目標と合致するかどうか識別して、それらの表現の仕方を変更することは正しいことだと思われます。それによって、学校で働く教職員は、心理的自由を獲得でき、それは創造的自由に発展してゆくと思います。それは、根本決断の刷新のプロセスでもあります。言い換えると、カトリック学校の学校の新たな担い手によって、学校の根本決断を自由に表現していくことと同義なのです。

このようなカトリック学校の過渡期にあっては、リーダーシップの所在の変化が伴うでしょう。これまでのカトリック学校のリーダーシップは設立母体である修道会が持っていました。しかし、学校の教職員の構成の変化はリーダーシップの所在の変化をも伴います。新しい学校のリーダーシップは、司祭・修道者と教職員とのコミュニケーションによって、同心円的に構築されていくことが期待されています。それは、「信徒の教会」や「基礎共同体」のイメージに類似します。上下関係と従順の原理に基づく権威構造ではなく、より共同体的な同心円的な権威構造といったらいいでしょう。ただし、霊的リーダーシップの必要性はとても大事です。学校が真のカトリック学校として「教会の一部である信仰共同体」としてあり続けようとする限り、学校の教育全体はキリスト教的な価値観に息吹かれていなければなりません。だからこの点に関しては、修道者や信者がそれを意識的に担わなければなりませんし、他の教職員はこの点について協調する必要があるでしょう。場合によっては、その部分を教区や教区司祭に協力を求めることも一案です。そうやって、学校共同体全員で、カトリック学校たる根拠を自覚し、保持することになるでしょう。一口で言うと、私たちはカトリック学校の健全な保守主義(healthy conservatism of Catholic schools)的態度を持つことが必要でしょう。

3.カトリック学校の刷新された根本決断の実践

-カトリック学校の創造的自由の獲得と建学の精神の健全な世俗化を目指して-

カトリック学校の特徴は、学校が「福音宣教する学校」であることです。そして、設立母体である修道会の霊性を表現することによって各学校は独自な仕方で「福音宣教する学校」であることができます(健全な保守主義)。そのためには、学校共同体が設立母体である修道会とコミュニケーションすることが必要となるでしょう。以上がこれまで述べてきたことの要点ですが、このセッションでは、実際にカトリック学校で働いている教職員が、いかなるアプローチで「福音宣教する学校」を創り上げてゆくことができるか」、試論として考察を進めてゆきたいと思います。それは、「カトリック学校のアイデンティティを自分たちで作り出す」ことを意識化し実践することと同義でもあります。

(1)カトリック学校のアイデンティティの成長 教育理念の今日化

学校から修道者の姿が見えなくなってきて、カトリック学校のアイデンティティが問題となってきました。多くのカトリック学校では、教職員自身も自校がカトリック学校でなくなることに不安を感じているというのが現状です。また、学校によっては、これまでのカトリック学校としての「ブランドイメージ」は残しながら、カトリック学校としての特色を薄めていく傾向も見られます。カトリック学校の看板を下ろすところもでてきました。しかし、カトリック学校は、教会から離れたらそのカリスマがなくなり、カトリック学校でもなくなります。

現代社会にあるカトリック学校のアイデンティティは、カトリック学校の刷新された根本決断に基づく健全な世俗主義(healthy secularism of Catholic Schools)に基づいて更に堅固なものとされることが期待されています。カトリック学校の建学の精神を大切に保ち、それに対する思いを深めると共に、それを学校で働いている人々で表現してゆきながらカトリック学校のアイデンティティは深められてゆくのです。カトリック学校の思いを表現することを通して、学校に勤める教職員と生徒は自らの学校の歩みに確信を抱くことができるし、学校の外の方々からもそれがカトリック学校であると認められるでしょう。

今はこのようなプロセスを通して、自分たちでできるカトリック学校の新しい特徴を自分たちでつくり出していく時です。あわせて、生徒をとりまく環境が変わったら教育も変わるべきで、時代にあった現実に即した指導方針を必要としている時でもあります。この作業の主人公は、信徒と非信徒の教職員なのです。そうすると、それに応じた新しいカトリック学校の雰囲気(school atmosphere / school culture)ができてくるでしょう。

(2)教会の所有する5つの教育手段 [2]

カトリック学校のアイデンティティを明確にし、School Cultureを創造しようとするとき、「教会の所有する5つの教育手段」というアイデアはきっと参考になると思います。教会は次のような5つの教育手段を持っていて(house)、これらを相互に有機的に用いながら、宣教内容を実質的に伝えることができると考えられています。

①コイノニア(koinonia) 「共同体的な交わり」のこと。さまざまな種類、レベル、規模の共同体作り。相互を結びつける者は「愛」である。さまざまな形の相互関係は、信頼関係を構築し友情関係を作る。このような感覚は、宗教的センスや霊性、信仰の基盤となることが期待される。

②レイトゥルギア (leitourgia) (*ラテン語でリトゥルギア/ liturgia)「祈り」。祈りは神や他者、そして自分自身に対する関心である。祈りを通して、他者の必要性を考え、神の意志を見いだし、また、自分自身の思いに気づいたりする。特に思春期には、抽象的思考能力の発展も伴い、祈る体験を通して世界に実在する、それまで気づかなかった事柄を見いだしていくことができるようになる。

③ディダケー (didache) 「説教」。キリスト教の信仰について組織的に語り、教えること。「カトリック研究会」や宗教行事でなされる「説話・福音的勧告」もディダケーである。

④ケリュグマ (kerygma) 聖書や神学(信仰の内容と形式)を学問的に教えること。いわゆる宗教科の授業がこれに当たる。たとえば、聖書のメッセージを解釈し、説明する。

⑤ディアコニア (diakonia) 「奉仕活動」。イエス・キリストの姿に、彼らが従うことが期待されている。もし、生徒がキリスト教的価値観を身につけたら、彼らはそれを実践することができるだろう。宗教科の授業で学んだ知識、カトリック研究会や宗教行事で身につけた宗教性、祈りを通して神の自分への期待を知ることと他者への関心、そして生徒間や教職員との友情や信頼関係が、生徒の現実の行動につながるように。

(3)カトリック教育の実践に有益な心理学・教育法(Pedagogy)を利用すること

カトリック教育は特別な教育法(Pedagogy)を持っているわけではありません。むしろ、「最新の」と言われるものを含めてあらゆる教育法をカトリック学校は用いることが薦められます。生徒の教育のための方法として何を使ってもよく、むしろカトリック学校は自らの教育哲学や理念、それに内包される教育の目的が大事なのです。それに従えば、カトリック教育は、生徒の人間性の領域に関わっていくことまで求められるので、それに相応しい教育法を採用することが望まれています。

ロヨラのイグナチオがイエズス会学校を始めた時代は、ルネッサンスの時期でした。彼は教育理念を持っており、その実現のために当時普及しはじめていた新しい教育法を採用し、それが現在にいたるイエズス会学校の教育法の基礎になりました。イグナチオは理念を大切にしましたが、それを実現するためのアプローチは何でもいいという自由さを持っていました。それと同じように、現代のカトリック学校でも自らの教育理念を実現するために有益な現代の教育学者の教育法を研究して応用すればよいでしょう。特にカトリック学校で働く修道者や信徒の割合が低下する中で、非信徒の教職員がカトリック学校の特徴を今後も推進してゆくために、カトリック学校の教育理念を今日化することに寄与する教育法を採用することが今後重要になってきます。そして、このような実践こそが、学校の教育理念を表現することと同義となり、それによって自他共にカトリック学校としてのアイデンティティを深めることが可能となるような方策を発見したいと思われます。以下で、参考となるいくつかの教育法をご紹介いたします。

①ハワード・ガードナーの多重知能論 (Multiple Intelligence)[3]

a)多重知能論は、伝統的な学力観を否定する。MI理論では、IQ測定に主に利用される言語的知性と論理学的知性に加え、空間的知性、身体運動的知性、音楽的知性、そして人格的知性と呼ばれる心的知性と対人的知性の7つの主な能力を認める。

b)多重知能論は、教職員が生徒一人ひとりをよく知ることに依拠する。→生活の背景、長所、短所、興味、好み、不安、経験、目標などを知る必要性。

c)生徒の最新のプロフィールによって教育的決定がなされるべき。

d)真に理解することによって行動が変わる。

e)教職員が想像力豊かで、生徒の多様性を認めることが必要。

②ネル・ノディングスのケアの倫理に基づく教育理論 [4]

a)教職員が生徒を世話すること、生徒が他者やモノをケアすることを大切にする教育観の実践への招き、男性的倫理観一辺倒な世界に女性の視点を入れる。

b)教師と生徒、生徒間で互いにケアすること、モノをケアすることをとおして信頼関係を創造する。ケアすることは相手を傷つけないこと。

c)生徒同士が互いにケアすることに価値を見いだせば、次第に自分たちの生活様式は自分たちが知らない他の人々の生活様式にどのように影響を与えているか関心を持ち、社会的次元でもケアできるようになることが期待される。

d)世話しようとする精神は学校の内在的カリキュラム(implicit curriculum)。

(3)ダニエル・ゴールマンの心の知能指数論 [5]

a)EQとは、Emotional Quotient の略称。EQは、IQ(知能指数)を補う、別の視点から人間の能力を見るための指標(数値なし)。原著のタイトルは Emotional Intelligence。

b)前出のガードナーのいう人格的特性(心的知性と対人的知性)を重視し、特に人間の情動(emotion) を中心に人間の能力を描く。

c)自分や他人の怒り、不安、悲しみといった感情を肯定的に消化できるか。

d)モチベーション、希望や目標保持、集中力は自己と他者に肯定的影響を与える。

e)共感できることは大切であり、そのために情動の動きは重要。各人の持つ情動の動きは親子関係、友人関係、職場関係で他者へ影響を及ぼす(社会的知性)。

f)他者に共感することを教えることで、生徒は衝動や怒りをコントロールでき、自己認識能力や人間関係能力を高めることができる。

g)望ましい情動の動きを学ぶ場を家庭に期待できない以上、地域社会は子どもたちの情動、社会的能力の欠如を矯正する役割を学校に期待するしかない。

(4)ジェームス・ファウラーの信仰発達理論 [6]

a)社会学や心理学の視点からも信仰について理解でき、宗教教育の意義、人生における宗教の役割を理解する手がかりとなる。

b)人間の全生涯から見た思春期における、信仰の発達状況や役割を知ることができる。

c)「回心」といわれる体験による人間の成長のプロセスや意義を知ることができる。

d)ただし、キリスト教でいう「恩恵」による信仰への招きは、それが超自然であるがゆえに予期しえない経験を人間にもたらす。

むすび

学校の目的は生徒一人ひとりを育てることです。その生徒がもっとも幸せになるように育てることです。それが「ひとりひとりを大切にする(personal care / cura personalis)」ことです。学校にはいろいろな生徒がやってきます。知的なケアを求める生徒がいます。解けなかった数学の問題が分かったことに喜びを感じ、個人的にある先生の指導を受けることを望む生徒もいます。クラブ活動を生きがいとする生徒は、クラブ顧問の指導を喜んで受け入れます。学校にはいろいろな先生がいます。このように知的なケアを得意とする先生、クラブ指導が得意な先生、生徒の相談相手になることの得意な先生など。それぞれの教職員が得意な分野を活かしながら働けて、そこで教員自身も生きがいを感じることができるなら、私たちにとっても最高の幸せといえるでしょう。

たとえば、上述した「教会が所有する五つの教育手段」や「カトリック的教育に有益な心理学、教育法」で紹介した教育法を見て、自分であれば、あるいは自分の学校であれば、どれを実践できるか考えて実行してみてはいかがでしょうか。しっかりとしたカトリック学校の教育理念があれば、それを実現するアプローチは各人、各校、千差万別です。

これからは、各教職員が主人公となって、自らが働くカトリック学校の特徴を作り上げることに参加することが強く求められています。そのために、個々のカトリック学校の設立母体は、創立者の精神を提示し続けることを通して霊的息吹(spiritual capital)を供給し続ける責務があり、同時に教職員がそれを自由に理解し実践することを認める姿勢が期待されています(healthy conservatism)。現場で働く教職員は、そうやって継承された教育理念に新たな今日性を加味し、自らが実践できるアプローチでそれを可視化することが期待されています(healthy secularism of Catholic schools)。そのためには、設立母体である修道会と現場の教職員がコミュニケーションをとりながら冒険することになりますが、そのような弁証法的試みをとおして「創造的自由」が生まれてくると思われます。このように学校を活き活きと働ける場所にすることは、チームを作ってカトリック学校の使命を果たすことと関係があります。

以上


[1] ①Anthony S. Bryk, Valerie E. Lee, and Peter B. Holland. Catholic Schools and the Common Good. Cambridge: Harvard UP, 1993.  ②James Youniss and John J. Convey, Catholic Schools at the Crossroads: Survival and Transformation. New York: Teachers College Press, 2000.  ③P. H. コルベンバッハ「現代に挑戦するカトリック教育」『神学ダイジェスト』、88号、2000年。

[2] Maria Marris, Fashion Me a People: Curriculum in the Church, Ky.: Westminster John Knox, 75-163.

[3] ハワード・ガードナー『MI:個性を生かす多重知能の理論』、新曜社、2001年。

[4] ネル・ノディングス『学校におけるケアの挑戦』、ゆみる出版、2007年。ノディングスについては、次の研究から多くを学んだ。佐藤恭子「教育におけるケアリング再考-メイヤロフのケアリング論を中心に」『カトリック教育研究』、26号、2009年、39-52。

[5] ダニエル・ゴールマン『EQ:心の知能指数』、講談社、1996年

[6] James Fowler, Stages of Faith: The Psychology of Human Development and the Quest for Meaning, N.Y.: Harper One, 1981. 西脇良「J. W. ファウラーの信仰発達理論に関する文献研究」『カトリック教育研究』、15号、1998年。同「J. W. ファウラーの信仰発達理論をめぐるその後の研究動向」、前掲書17号、2000年。

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