聖パウロ学園高等学校

修道会以外の経営 共学校・・・聖パウロ学園高等学校 高橋博校長先生

私どもの聖パウロ学園は聖パウロ修道会が創立しました、昨年60周年という節目を迎えたのですが、聖パウロ修道会はすでに学校から去っております。 もともとの設立の理念、建学の精神ということですが、聖パウロ修道会というのは出版事業を通じて、マスコミュニケーションを通じて宣教しようという修道会 です。その聖職者、ブラザーが自らの場所で働く人を養成したいという思いで、東京の赤坂の地に設立した学校です。

ですから、現在の一般の学校になった形と、創立時はまったく異なっています。当初そういう設立で始めたのですが、東京、赤坂の地で一般の生徒を入れ た学校へ徐々に転換していきます。ですから、当初に書かれた設立の理念、建学の精神はあるのですが実態にまったく則していません。しかし、長年にわたって ブラザーを養成するために5人、10人、多い時には20人近くの養成課程の生徒を入れていますので、そこが中心に動いてきたんだろうと思っています。

さて、今から7年前に聖パウロ高等学校は一度破たんしました。全寮制男子校として赤坂で、学年180人の寮生をかかえ、進学率もそれなりの学校だっ たのですが、最終的には全校25名の学校になり、ほぼ廃校寸前という状態になりました。ですから、その段階で、聖パウロ修道会は経営から去っていきました ので、建学の精神、カトリック精神ということよりも「学校の存続をどうするのか」ということが問題になるという流れの学校でした。

今考えれば、その時に廃校にしていればそれで終わり、聖パウロ学園の使命はそれで終わったということで、私はそれでも良かったのかなとも思っていますが、様々な事情があり、存続させようということになり、私の前の校長が理事長として展開していったわけです。

カトリック学校として展開するには非常に不都合なことが多い、つまり修道会はまったく去ってしまって、そのあとを誰がフォローするのかということで す。この問題は実はここにいらっしゃる先生方の学校にはないかもしれませんが、全国でいくつも、おそらく二桁の数字になるかと思いますが、そういう問題を 抱えている学校があり、その先駆けとなったわけです。

修道会が去った後学校はどうなるんだろう。まさしく健全な学校であれば、それはそれなりに成り立つのだろうけれど、その時に経営がうまくいっていな い、なおかつ修道会が去る、そうした時にカトリック学校はどうなるのでしょう。建学の精神のみで学校が維持できるわけではありませんので、そういう問題を 抱えた学校の先駆けであったと私達は思っているわけです。

さて、その後、全寮制男子校から通学制の男女共学校へ変更しました。もちろん通学制男女共学校に変更したことがきっかけでまた、カーブがあがったのですが、実際には男女共学にしたからと言って生徒がくるわけではありません。通学制にしたから生徒が来るわけでもありません。

始めは「不登校の生徒を扱う学校」というふうに転換しました。ですから、来た子供は全員が不登校。不登校というのは学校に来ない子供を言うのですか ら、それを集めた学校というのはいったいどういう学校なんだと自分でも私は思いました。来ないやつが来る学校ってどんな学校だと思ったのですけれども、教 区長である岡田大司教から理事の依頼を受けて学校をみるということになったのですが、私はこの学校と何も関係がありませんでした。教区として、この学校が 存続できるかを見てくれということで理事として入りました。

2年後に前校長が退職して、私が受け継ぐことになったのですが、その時も生徒は80名から100名くらいでした。ほとんどが不登校の生徒でした。そ の中で、建学の精神、理念をどうもっていくのかという話になりました。もちろん聖パウロ修道会の設立した学校の理念は修道会そのものの理念とは違います。 1800年代にイタリアでできた修道会そのものの理念は確たるものがあるのですが、学校経営を目的にしてつくられた修道会ではないですし、破たんした時に はもう完全に経営から手を引きたい、手も出したくないという、ちょっと言い過ぎかもしれませんが、そういう気持ちだったのだと思います。学校経営を目的と した修道会ではないのですから、確かに頼ろうとしても気の毒ということもあるんですよね。

ここで様々な場面に遭遇して、建学の理念、スクールモットーというものが重要であろうと思い、私どもはキリスト教の理念を語るには何がいいのだろ う、「神の愛」ということですが、もっとも分かりやすい言葉は何なのだろうということから発想をしました。修道会やその経営による学校は、各時代の時代背 景、社会背景を根底にかかえてできています。ですから、その時代の社会に対してちゃんとしたテーゼがうてるということです。しかし、私どもの学校はそうい う意味で設立、再出発しているわけではないので、普遍的なもの、誰にでも受け入れられるものを探しました。なおかつその時点で学校ではまったくと言ってい いほど宗教教育はされていませんでしたので、私が校長で入った時に、宗教教育をやりますと言ったら職員の一部から、「なんでそんなことをするのですか?」 という、不満ではないのですけれども、そういう質問が起こりました。生徒の中からも「そんなことはしない学校だというから入ったのに、今さらなんでそんな ことをするんだ、聖書なんか持ち出して」というようなことまで言われたことがあります。

でも、それはたいした影響もなく進むことができました。そこで、建学の精神、スクールモットーとして考えたのが、マタイの第7章、「人にしてもらい たいことは、何でも人にしましょう」という理念であります。これは私どもが言わなくても、もうこれは聖書から離れて「黄金律」と言われる言葉で、道徳、人 間生活の規範というふうに言われているので、これは受け入れられるだろうということで、現在この思いを語っています。

さて、私どもの学校は現在2つに分かれていて、不登校の生徒たちを対象に通信制のシステムを使ったエンカレッジコースと全日制のコースがあります。 実は、今日、集まっていらっしゃる学校からもエンカレッジコースに生徒が来ています。中高一貫校からは大変たくさんの生徒が来ています。学校に学力でつい ていけなかったという生徒もいるし、様々な意味で精神的についていけなかったという生徒もいます。現在、エンカレッジコースには千葉県の提携校も含めて 180名の生徒がいます。全日制は270名で、全部で450名の生徒をかかえています。このどちらにとっても、学校のモットーは大切です。

特に今日私が最も言いたいのは、エンカレッジ、通信制に通う不登校生徒です。こういう言い方は良くないかもしれませんが、健全な子供に対する理念と いうものは非常に訴えやすいしそれなりに理解されると思いますが、エンカレッジコースに通う生徒はそういうところで打ちひしがれてしまった生徒です。本当 に行けなくなってしまった。様々な理由はありますが、学校へ行けなくなった生徒たちをどう立ち直らせるか、そこでカトリック理念の「神の愛」を立派に語っ たところで響きません。

じゃあ、何が必要かというと、まさしく「あなたは愛されている」「あなたの存在は確かだよ」ということを体で、形で示すことなんです。まさに、神の 愛を実感させるということです。私達は今、本当にそういうことで学校を運営できていると思っています。しかも全日制は通常の学校に進学することを目的とし ますが、ここでの教育理念は、私はエンカレッジコースで生まれたと思っています。なぜかといいますと、エンカレッジコースに来る生徒たちは一派ひとからげ に教室でどんな立派なことを言ったって誰にも通じないんです。一人ひとりがみんな違う思いをもって学校にきいます。ここでもできないかもしれないという思 いを持ってきている中では一人ひとりに対峙しなければなりません。

なおかつ、物理的な問題として単位制をとっていますので、どうしても、1年生の単位はこれですとみなさんに発表できないわけです。全員と対話してあ なたの持っている単位は何ですかとか何ができますかと、一人ひとり、180人と180回ガイダンスをやるわけです。毎回、前期と後期にわかれていますか ら、年に2回やるわけなんでず。本当に一人ひとりやらなくてはいけない。

その中に、先ほどサレジオの「支援する」という理念を聞きましたが、私どもも同感です。私どもには、「引っ張る」というような理念はまったくありま せん、「支援する」「支える」です。もちろん、全日制は「リーダーシップをもって引っ張る」という言い方をテクニックとして言いますが、生徒を教職員が支 える、見えないところでもというような思いがないといけない。それを実はエンカレッジコースから学んでいます。

そして、スクールモットーとして、「人にしてもらいたいと思うことを何でも人にしましょう」という思いを様々な形で常に生徒に語っています。ここは 私の思いと私達の学校の思いであるわけですが、では、それを語ればいいんだ、確かに語るのは大切で、耳にタコができるほど語るのは大切だろうと思って語っ ていますが、実はそのカトリック理念をどこで発揮すればいいかというと、個々の生徒に対して先生方はどう接するのかということだと思うんですね。

様々な局面が先生方に出てきますよね。一番簡単な例は何かと言うと、生徒を指導する時、あるいは成績についてなんとか言う時、全員に様々な指導が出 てきます。その指導をするときにどんな思いで何が語れるかというのが、カトリックが本当にそこで生きてくるかということだと思います。私どもの学校では、 設立理念が修道会を背景にしていないので一気に言えない、あるいは言いにくいところがあるので、このマタイ福音書の言葉を学校のモットーとしているので す。そして、人を支える人、人の痛みが分かる人、人のために働くことができる人、これを基盤として自分の将来を考えなさいというものの見方をしています。

最後になりますが、実は不登校生徒というのは不登校じゃないんです。学校に行けなくなった生徒ですよね、様々な理由で・・・。うちに来た学校にいっ さい通えなかった生徒の90%以上は通えます、卒業します。通常NHK学園が通信制で不登校生徒を多く扱っていますが、20%しか卒業させることができま せん。私どもは90%です。

ただ、卒業させるだけではありません。勉強させることを目的としています。一番簡単な不登校の学校は駅前にあるフリースクールやサポート校なんです ね。来ればいいのです。通信制であれば来る必要もないんです。そこでお茶飲んでいようが、話していようが、あんぱん食べながら授業をうけていてもいい、親 は行ってくれればいいということになり、近所の公園でブランコをして体育はそれでいいという、そういう学校もあるのです。

しかし、それではまったく意味がない、学校やっている意味がない。私達が本当にその子たちを愛するのなら、その思いを本当に神が彼らを掛け替えのな い存在として創られたと思うのなら、彼らに高校生として勉強をさせ、それなりの目標を達成させるという思いでやっています。もちろん進学に関しては、進学 率のパーセンテージは低いのですが、それなりにがんばっています。通常、とってくれないところが多いのですが、カトリック大学は通信制からもとってくれて います。良い大学に進学をして頑張っている卒業生もたくさんいます。目標を達成させているわけです。

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