第11回 生徒の成長  中尾正信・濱田正夫

「子どもの成長」     中尾正信 聖マリア小学校

神奈川県の逗子という町で小さなカトリック小学校で教員を務めて30数年になります。

1.聖マリア小学校教育指針までの経緯

「聖マリア小学校教育指針」が採択されたのは、中学校の進学率をあげるという教育目標だけでいいのかという反省があったからです。
それまでもこの学校では「遊びの時間」をもうけていたりして、わざと受験とは関係ないことをしてきたという経緯がありました。それはたしかに今の受験体制にたいする批判に基づくものではあったが、明確な方法論がなかったのです。批判はしていても、いつのまにかあちらの土俵で相撲を取る、こちらの土俵ではないということに気づいたのです。
学校には奉仕的、創造的で一人ひとりを大切にするという雰囲気がありました。けれどもそれは生徒たちの家庭がカトリック的な暖かい雰囲気に恵まれていて、たまたまそうなったという結果であり、明確な意図のもとに作られた雰囲気ではありませんでした。
学校の職員研修会で大阪大学の梶田叡一先生をお招きして話を聞いたことがありました。先生は「教育的意図を明確にする」ことの重要性を強調されました。抽象的理念でなく、具体的方針を与えるものを教職員の間で共有することが必要であるといいます。
その方針の下に「プロファイル」を作成しましたが、それは教育目標の「核となるもの」を見いだせず、理想論的な発想で作られていて、そのうちに忘れられた存在となってしまいました。
2007年にその「プロファイル」が再び問題となり、再挑戦しようということになりました。そのときに実際に大切にしていることを確認する作業を積み重ねて「教育指針」が成立しました。そこにはこう書かれています。
「愛を実感していたい、自分の価値を実感していたいという人間の基本的欲求を子どもたちが充たしていくのを助ける方向に、われわれのすべての教育的営みを位置づける」
つまり「愛と自己価値の実感」を生徒が持てるようにという教育目標を優先することを確認したのです。たとえば、国語の授業目標は「正確に自分の意図、考え心情を理解する、伝える」と一般的に思われていますが、それによってどうあってほしいのかをさらに考えていくと、生徒に愛と自己価値の実感を高めるようにはげましたいということにいきつきました。この意図がわれわれのほんねともいうべき目標であり、イキイキとした運動指針となるであることを実感しました。
その方針の下に「愛されるに値する価値ある人間であることを確かめるチェックリスト」を作成し、目標達成のために何をするべきか、授業において生徒をどう助けるのかを各教科ごとにさだめました。それを保護者に説明し、協力を得ることもしました。
愛を実感していたい、自分の価値を実感したいというのは人間の基本的欲求であります。そのもとに、自分が愛されていると感じることに焦点を当てました。これは、手段ではなくて、結果であり、目標である。2008年からこの目標を定めて動き始めました。

2.A.マズローの欲求理論への接近

この教育目標の設定のために心理学者マズローの研究が役だちました。マズローは「基本的欲求の5段階説」を唱えるアメリカの心理学者です。
マズローは自己実現が欠けている人と自己実現を成し遂げたと思える人の比較分析を試みています。そして人生を健康に歩んでいた人がなぜそうだったのかを考察しました。その結果、自己実現を成し遂げた人の特徴は「みんな充分に愛されていて自己価値の実感を認めている」ことにあると結論づけます。これは人間の普遍的で基本的である欲求であり、これが満たされないと病んだり、死んでしまったりするものであるとしています。
そしてマズローは「欲求の5段階説」を唱えます。欲求には優先性があり、ある欲求がほどほどみたされたときに次のレベルの欲求が生まれてくるとしました。その欲求が100%満たされなければ次が出てこないということではないのですが、しかし全く満たされないと高次の欲求は生まれないというのです。
島秋人という人を知っているでしょうか? 彼は不幸な生い立ちをして最後は農家に盗みで入って殺人をおかし、死刑を宣告されます。かれは生涯ほとんど人から誉められたことがなかったのですが、一度だけ誉められた思い出がありました。それは中学生の時に描いた絵が「とても構図がいい」と先生に誉められた思い出でした。
その先生との間に獄中からの手紙がやりとりされ、先生の妻が書いた短歌に触発されて自分も短歌を作るようになります。

その返書は、親身なもので、自分に対する驚きと反省を呼び起こすやさしさで満ちていました。同封されて奥様の手紙があり、その中に少年期を過ごした象の前の香積寺とそのお住職を詠んだ短歌が3首添えてありました。これが私の短歌に接した初めであって、過ぎし日のなつかしさもあり、歌はなんとよいものであろうかと思った。これがきっかけとなり、また刺激ともなって、自身にふさわしいものとし得て、時折に詠み始め詠んで今日に至っている。島秋人「遺愛集」

島秋人はこの手紙によって自分が愛されているという自己価値の実感が得られ、その結果短歌をつくりだします。これに比べて最近の秋葉原殺人事件の犯人を見ると、この根っこの部分が空洞のままおとなになってしまったという感じが色濃くするのです。
小学校において、子どもたちの親と話していると、自分の意志で判断するようになってほしいと親はいいますが、受験勉強がいいとか悪いという問題に直面しようとすると泥沼に陥ってしまいます。こういう状況の子どもや親に対して、ややこしいところはさしあたり不問に付し、「愛と自己価値の実感の波状攻撃をかける」ことを指針の戦略としました。あらゆるところから、くりかえしくりかえし、何度も「愛と自己価値の実感」を高めるための攻撃をしかけるわけです。とくにそれはまず子どもの評価を一人一人文章で書くという形で行うようにしようと申し合わせました。

3.教育指針と5段解説の戦略的価値

この「愛と自己価値の実感を高める」「欲求の5段階説」という教育指針をどのように具体的にしていったかについて話を進めましょう。それにはまず愛されたいという欲求が普遍的であり基本的であるということの確認から入りました。

1.この考え方は、はいりやすい、多くをまきこむ、だれも反対しない、教師も飢えている、生徒のニーズでもあるとともに自分のニーズであるという特徴を持っている。
2.そして説得力がある。保護者との面談のときにもこの考えを説明すると説得力があるということを教員たちも気づいていく。ここで言う愛は理想でなくて欲求であり、それが満たされないと生きていけないという切実性をもつからであろう。それで子どもは愛を感じるでしょうか、自己価値を感じるでしょうかと保護者に問いかけることができるわけである。
3.これはユニークな可能性を引き出す道でもある。自分の用意する可能性でもあてがわれた可能性でもなく、助ける作業を積み重ねておのずと出てくる可能性であり、こちらにはわからないけれど必ずある可能性でもある。
4.それはまた公教育への批判でもある。新教育基本法に見られるような教育行政に、普遍的にして個性的な文化の存在がなくなったことへの批判でもある。
5.教師の自己養成法の見やすさという側面もある。子どもの可能性を引き出したという実感を持つことができるのである。聞く姿勢を持つこと、無条件の愛の存在を知ることにもつながっていく。
6.関わり重視への必然的移行が計られる。親が、子どもによって自分のニーズを満たす、つまり自分の満たされないものを子どもに期待すると、子どもは親の期待に応えて自分はやらねばだめな子どもと思ってしまう、普通はそういう方向に行きがちなのが、ここでは基本的欲求の充足からはじまり、他との関わりに波及するという方向にすすんでいく。そうしなければならない必然性が生まれる。
7.そのための共同体であり、家族であり、学級集団である。それはすぐに授業形態にあらわれ、子ども同士の関係性を作るようになる。また、教師がホンネで話せる関係をつくり、教師と保護者との関係にも波及効果を及ぼす。それは新しい共同体づくりへの時代のニーズでもある。
8.キリスト教の出番である。なんでそういう欲求があるのかという答えはない。心理学では説明がつかない。キリスト教の学校として答えがなければならないところである。そういうふうに育ってきた教師もいないし、親もいないけれど、それに対する答えはキリスト教にあることは確信できる。

現在、学校と子どもあるいは親とのかかわりにくさが生まれているけれど、この教育指針はうまくいかないときの助けを持てるようになるでしょう。さらにそれはキリスト教学校のアイデンティティにも関わってくるだろうと思います。
それを、学校で取り組み始めましたが、これはカトリック教育のこれからのかたちを示しているのではないかと思っています。

第2部 生徒の成長   濱田正夫(聖園女学院中学高等学校)

1.存在の根源への問いかけ

わたしはむずかしい話はできません。ですので生徒指導の現場を歩んできた経験を話したいと思っています。
私は「聖書に触れる」ことを大切にしてきました。今でも3つの集いに参加しています。
まず、金曜日の聖書の集いです。先生が12名ほど参加して聖書を読んで分かちあうということをしています。
次に「アルファコース」にも参加しています。これはビデオを見て分かちあいながら学ぶキリスト教のコースです。入門編で祈りとは何かを学んだり、聖書の「放蕩息子」についてさまざまな視点から話し合ったりします。これをとおして聖書の多様な見方があることに気づきます。
「父親のための聖書研究会」は月1回土曜日に開かれ、14,5名が参加します。イエズス会の神父様の指導によって黙想会も開かれます。昨年の夏は「生きる恵み」をテーマにした黙想会があって、毎日の仕事の厳しさのなかで生きる父親から学ぶことができました。そういう場にいることがとてもありがたいと思っています。
私は直接は関わっていませんが、母親の聖書研究もあり、毎週火曜日、水曜日に神父様とシスターが担当しています。中1保護者には「聖書入門」をシスターが担当し、また「カウンセリングの集まり」には51名が参加して学校カウンセラーの話を聞きます。
また、授業前には短い黙想の時間があります。音楽に合わせて黙想して授業を始めます。呼吸を整えて、ぴたっと心が合う、いい時間だと思っています。ダメだと思うときや呼吸が合わないときは少しこの時間を伸ばします。体と心が動いている間は授業には入らないようにしていますが、生徒によっては沈黙は苦痛ということもあります。

公立とカトリック学校との違いはどこにあるのでしょうか。私は学舎に「神のまなざしがそそがれている」というところにあると思っています。この言葉によって生きていく喜びが生まれます。カトリック学校の存在意義を一言で語っている言葉でもあります。
常々生徒にもいっていることです。「君たちは神のまなざしが注がれている中にいる、学校で学ぶということはそういうことだよ」というヒントを出すと、「じわーっと熱いものがあがってきた」と述べる生徒がいました。その言葉には生かされている、支えられているという実感があります。
目には見えないけれど、それが出発点であり、生きていく核になるものだと思います。これ以上のものはないのではないかとさえ思います。カトリック学校の教師である私の立脚点はここにあるといってもいいでしょう。
授業の中で、生徒は鏡です。子どもが学ばないのは私の力不足と考えています。だから子どもにこのことをわかってもらえないとしたら、それは私の力不足なのでしょう。

話しがちょっと哲学的になりますが、「存在の根源への問いかけ」は大事だと思います。より深く考えるという哲学への志向は生徒にぜひ身につけてほしいことです。これは人間の尊厳とも深く関わり、カトリック学校の出発点でもあると思います。
わたしは、卒業生からよく言われます。「先生、あのくせなおりましたか。」わたしはよく授業中ボーっとするクセがあって、授業中もどこ見ているかわからない、目の焦点が定まらない時があることを生徒はよく見ています。そういう生徒の問いかけに、私はこう答えます。「そういうときは、いつも問いかけを自分にしているときなんだ。いまどうしてここにいるのかという不可思議さと生かされてあることの喜びに思いをはせているときなんだ」と。
その対極にあるものは現実です。人間の不条理さ、宿業、諸行無常、繰り返されている輪廻という現実です。その現実を正面から見据えていかなければならないのでしょう。
そういう現実の中で、出エジプト記でモーゼに神が語った「わたしはあるというもの」「私はいつもおまえとともにいる」ということばは「存在の原因」そのもとにあるものSomeone great を示しています。この言葉はわたしにとってまさに「神の啓示」なのですね。下からわーっとあがってくるように心にわき起こってきます。
こんな生きる喜びを問いながらともに子どもたちとわかちあえることができたらと思っています。

2.内面を耕す 福音の種まき作業

時代の様相と歴史認識も大事です。社会の価値観、倫理観の分析と福音的価値観との対比を歴史と時代の中でおこなうという「学びのアプローチ」を大切にします。時代を見ずして授業はできません。
今を生きる存在の確認をとおして、なぜそういう方向に行かねばならないのかを立ち止まって考え、付和雷同するよりも本質を見ることができる人間になってほしいと思います。表層ではなく目に見えないその奥底にあるものをみ据え、目に見える世界を超えたものの倫理感をもって、「あの時のあれはああいう意味だったんだ」と考えることです。焦ってすぐに出てくる結果のみを求めるのではないのです。これはそう単純には人間にはできないことかもしれません。しかし、なぜ大切なのかということがたえず問われていかねばならないと思います。
私は国語を教えていますが、国語の授業を通じて表面的な言葉にとらわれずに、奥底にある思想や倫理みたいなものを考えられるような授業にしたいと心がけています。
生徒の成長は「花咲かずとも、実ならずとも、よき種を作り、よき土地をつくり、耕す作業」です。目に見えているものだけでなく、その奥底にあるもの「神、キリスト、聖霊」への気づきに導く「根源への問い」を持ち続けること、それが「福音の種まき作業」だと思うのです。

3.声かけと対話

生徒への生活指導で学んだことがあります。それは「まず生徒の心の地平に教師自らが立つこと」です。生徒に寄り添い、共に歩むことが、自己肯定、全面肯定、無条件の愛である「まるごと愛する」ことにつながります。上から見下ろすことはしないようにします。そこに行かないと生徒の本物が見えてこないし、「わたしとあなた」の関係が築けないし、相手のいのちを生かすこともできません。
わたしは運動部の顧問をずっとやってきました。ソフトボール部、テニス部、卓球部の顧問をしてきました。ソフトボール部ではできるだけグランドに立つようにしています。最初は生徒に避けられてしまうのですが、それでもめげずにグランドに出ます。
テニス部時代に、ふたりの生徒が部活だけでなく、学校生活全般に無気力な態度を取るようになりました。それを注意したら「クラブをやめたい」と言いだしました。何度か説得を試みたのですが、ある日ギブアップです。彼女たちは退部していきました。でもクラブをやめても「声かけ」はしようと思ってくりかえしました。その生徒は最初はフンという感じでしたが、卒業式が終わって親子で挨拶にきました。志望校に受かったというのです。そして「先生が毎日声をかけてくれたことが私を支えてくれた」といっていました。
いろいろなものが作用してあのふたりを導いたんだと思います。「声かけ」はそのひとつだったのでしょう。小さなことも拾っていくことが大事だと思いました。
よく問題行動を起こす生徒がいます。そういう生徒はなんらかの心の問題を抱えています。本校でそういう問題行動があったときに、担任、学年、指導部の教員が集まって生徒指導連絡協議会を開きます。そこではその子がどうしたらよくなるかを話し合います。憎しみを持って頭から悪い子だとみるのでは事態がますます悪くなります。生徒指導は、あとになって本当にそのことが起こってよかったと思われるようにならねば意味がないと私は思っています。
生徒と話すとき、最近は向き合わずに横に座るようにします。ペンと白い紙以外は何も持っていきません。生徒がだまっていればこちらもだまっています。どうしたのとは聞くが、今回したことはまずかったよとは言わないようにしています。
生徒の気持ちを探って引き出すようにしていくとだんだんと心を開いていきます。徹底して時間をかけるようにします。ときには私の力を超えていると思うこともあります。
生徒の心のふたを開けて話を聞くとなるほどなと思うことが多いのです。家庭のこと、兄弟のことなど実はそういうことだったんだと気づかされます。そこまで行くのに時間がかかります。泣きたいときには泣きたいだけ泣けばといいます。
これは「魂の対話」だと思っています。
親の面接には担任、学年主任、指導部長が必ず同席します。お互いのタレントを信用して2時間はかけます。相手の構えを崩す時間も必要です。我慢することも必要です。学校の教えは一番最後にもってきます。そして親にこの学校に子どもを預けてよかったという気持ちを持って帰れるようにします。

4.教科外活動

クラブ活動の顧問は正直言うときついです。休みに活動が入るとやすめなくなります。生徒も自分も健康管理が大事です。
しかしクラブ活動には、共同体の中でみちずれをしてお互いに楽しむことができます。我慢したり努力したり、お互いがかさねあわせて生きている喜びがあります。人の奥行きを作っていくことができます。
相手がいて、対戦相手がいて、思わぬことを言ってくることもあり、生徒の意外な面が見えることも多くあります。何となくではやってはいけません。
仕事だと思ったらつらい、やめたい、なんでこんなことをしているんだろうと思います。教会を造ることを考えてみましょう。教会を造ることは仕事だったらつらいと思い、やめたいけれど、何かを求めることだったら、それがつらくなくなる、教会を作りそこで祈る場を作るために石を運んでいると考えれば全然違ってくるんです。クラブも同じですね。
ともに力を合わせ、なすことができたときの喜びとそれ故の労苦を共有することができることはすばらしいことです。教室では見せない顔、生きていることへの叫び声、その背景にある家庭と保護者の姿、そして社会の状況を見ることができます。
出エジプト記には「旅に出よ」(3章7節)「昼も夜も歩き続ける」(13章20節)ということばがあります。マタイ福音書には「くびき」という言葉があって、目的を明確にして共有することの大切さが描かれています。

感想
●子どもが愛されているということがよく伝わってきました。手間暇が必要ですね。そうしないと愛が伝わらない。私も運動部の顧問をしていて、日曜日の試合など早く試合が終わってくれたらいいとよく思ってしまいます。手なひま欠けずに愛を伝えるのはむずかしいということがよくわかります。
●私たちの学校でも「プロファイル」を作りました。でもその「プロファイル」の見直しを先生が取り組むのがむずかしいです。研修のときは盛り上がるけれど継続することが難しいと感じました。
●私の学校の場合、プロファイルの見直しの中から先生がたの研究グループが生まれてきました。感性の教育についてとか、評価のありかたについてとか、聖書をもっと読もうとかなど
●私の学校でもカウンセリングのコースを保護者向けに開いたことがあります。保護者のカウンセリングよりも親同士の話し合いのほうがいい効果を出すと思いました。