中3 イエスのここが好きここがきらい

中学3年生の「宗教」の授業では新約聖書を読みます。そのはじめの方の授業でこういうことを試みることにしています。題して「イエス・キリストのここが好き、ここが嫌い」。

生徒の半数は小学校でキリスト教についてみっちりおしえられてきているし、全校ミサやその他の時間に聖書の話をきくチャンスは結構多いので知識はかなり持っているはずです。

それにもとずいてイエズス・キリストのイメージについて自由にださせようと思って、紙を配り、「上半分に『イエズス・キリストのここが好き』というところ、下半分に『イエズス・キリストのここが嫌い』というところを思いつくままに書いてごらん。もちろん無記名」と指示しました。

最初は「本当に書いていいのですか?」という質問さえあったくらいです。 それには、「私も含めて信じている人がいるのだから、あまり冒涜するようなのはやめてほしいな」と釘を刺したのですが。 それを集めてそのまま全部読み上げていく。 生徒は書くわ書くわ、実に自由に書きたいことを書いてくれました。それらを読み上げるたびに、爆笑につぐ爆笑。中にはイエズス・キリストを冒涜するものと怒りたくなるものもあったのですが、そこはおさえて苦笑いしながら読み上げていきました。

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「イエズス・キリストのここが嫌い」というところでいちばん多くあげられたのはどんなことだか想像してみてください。私にはまったく思いもつかないことでしたが、よく考えてみればなるほどと思わせるものです。それは、「えらぶっている」「威張っている」というのであります。 読み上げつつこちらも一言ずつ言いたくなってきました。

「私は人と違うと威張っている」(なるほどそうか)

「私は神の子だとすぐ自慢する」(どこが?)

「命令形でいったり、親に『ですます調』で話す」(なかなか聖書を読んでいるじゃないか。そんなところあったな)

「自分が一番だと人に考え方を押しつける」(そうか。そんなふうにうけとっているのか)

「自分がすべてだというところ」(そんなこといってたかな)

「よくわかんない比喩を出す」(うーむ)

「まことにまことに私は言うなどという」(なるほど、確かに偉そうな言い方だ)

「自分の母親にむかって『婦人よ』などとよそよそしい」(カナの婚姻の所か、なかなかよく知っているな)

「生まれてきたときから偉大な人というのがわかっているところ」

「イエズスだけが神様に特別扱いされていてずるい」

「カッコつけている」

これにはすっかり考えさせられてしまいました。実際にイエズスという人はそんな尊大な人ではなかったはずです。もっと親しみやすく、優しい人であったはずなのに、彼女たちにそんなイメージを植え付けてしまったところに大きな問題がありそうです。 聖書の表現の仕方にも問題があるのではないでしょうか。あるいはそれまでの教え方がなにかそのような先入観をつくり出してしまったのかもしれません。

さてつぎに多かったのは、なんと「イエズスは不潔だ」というのです。「きたならしい」とか「汗くさい」とか「ほこりっぽい」とかいうのでう。 中でも「長髪で汚らしい感じ。シャンプーしてあげたい」というのには、満場爆笑。生徒は椅子からころげおちんばかりにして笑いこけていました。

この茶目っ気というか、このセンスというか男の子には決してないものだろうなと思いつつ、私も思わず吹き出してしまいました。 今の女子中学生の清潔過敏症候群の現れでしょうか。(そりゃ、砂漠の中を旅から旅への生活をしていたのだ。それにシャワーやシャンプーのない時代だし、水だって貴重だったのだ。汗くさく、ほこりっぽいのは当り前じゃないか)後になってこう言わなければいけなかったと思ったのですが後の祭り。そのときは生徒の笑いに圧倒されてよく思いつかなかったのが悔しかったです。

意外に多いのが「ウソっぽい」ということ。

「出生からしてうそくさい」

「本当に実在したという決定的な証拠がない」

「奇跡を起こしたなんてますます信じらんない」

「罪人に優しい手をさしのべてしまって、怒りの心をもたず、すこしいらだつ」

「その時代の一部の人にだけ奇跡を起こした」

というのまで、実に率直な感じを表現していてうらやましくさえ感じました。。 そのほかにもなんとも反論できないような妙にうがった見方もありました。

「私たちの心をしりすぎている」

「男だったところ。女だったらいいのに」

「マザコン」

「前もってしっていたはずなのに裏切りをそのままにしておいたところ」

「12人の弟子はみんな男だった」

「後生のことを予言して夢がない」

「けっこう気が短く、時に暴力をふるう」

「人々の前にいまこの時代にこそ現われてほしい」

「笑ったことがない」

「途中で天に昇らないでもっとながくまでいて完全に平和な世界にしてほしかった」

そういわれればなるほどその通りだというものや、そういう見方も確かにできると思うことも少なくない。

それでは逆に「イエズスのここが好き」というのをあげてみましょう。量としてはこちらの方が少なく、思いもよらぬというものが少なかったようです。

で、一番多かったのは、「すべてのものを愛する」というような所であったのには安心しました。

「男尊女卑や民族差別を嫌い、平等を貴ぶところ」

「罪人に優しい(だから私にも優しい)」

「いつも共にいてくれるところ」

「悪いところでもぜーんぶゆるしてくれる」

「外見にとらわれずに手をさしのべてくれる」

「小さい子が好きだったところ」

「女の人に優しい」

「世界のすべての人を見守ってくださる」

「自分をはりつけにした人々を許せるなんて、とても寛大で優しい」

なかにはこんなミーハーな所もあるが、まあそれはそれとして許してあげることにしよう。

「不思議なおかた。きれながの目」(そんなことどこにも書いてないぞ)

「ヘアースタイルがかっこいい。三つあみにしてあげたい」(勝手にしろ)

「りりしい」(うん、うん)

「手を広げている校庭のイエズス像」(あの像はなかなかかっこいい)

「クールでよろしいんじゃありません」(なんだ、その言い方は)

「ハンサムすぎてにくい。女性に優しくて持てすぎるところ」(ねたむな、やくな)

その他にもこんなのがあって、考えさせられてしまった。

「2000年たっても教えがすたれない」

「庶民的で親しみやすい」(こういうふうにみている人もいるんだぞ)

「会食をよくするところ」

「女じゃないところ」

とまあ、こんな調子で私の新約聖書を読む「宗教」の授業は始まったのです。これを読んでどのように思われたでしょうか。

一部には「ふざけている」「冒涜である」と怒られる方もあるかもしれないが、女子中学生の持つ自由さ、想像力の豊かさ、おおらかさ、率直さ、茶目っ気に圧倒される思いであっした。男の子には決して思いつかないとコンプレックスさえ感じさせられたものです。

私は彼女たちが持っている「偉ぶっている」というイエス像をなんとか変えていきたいと思いました。だからあえて、イエスの「説教調」の教えを読むことを避けて、イエスの人間的な側面を強調するところを集中的に読んでみました。

「イエスの泣いたところ、怒ったところ」をあえて拾って読んでみたり、たとえばペトロだったらペトロの登場する場面を拾い読み、ペトロの性格や生まれ、育ちを想像してみたりして、弟子たちの人間像を描いてみたりしました。

ユダを想像するときには太宰治の短編小説「駈込み訴え」を読んだりもしました。

このような聖書の読み方は彼女たちにはとても新鮮であったようです。考えてみれば、いままで私たちは聖書を余りに堅苦しく読みすぎていたのではないかと思われます。

あまりに倫理的な教えの書、誤りのない完璧な書として読んでいたのではないでしょうか。「聖典」としてありがたいものと奉って読んでいたが故に、「正しい解釈」に固執するあまり、矛盾しているところのつじつま合わせばかりして読んでいたような気がします。 もちろんそういう側面がないわけではないが、それは信仰を持つものの読み方ではあっても、信仰を持たない女子中学生には反発とイエズス嫌いにしてしまう結果を招くだけのような気がするのです。

もっと自由に率直に、感じたこと考えたことをありのままに表現していく中から、発見すること、気づいたことを大切にしたいものだと思いました。わからないところは無理してこじつけることなく、わからないとしていい、ここはおかしいと思うところ、許せないところがあったら、それはそれとしてどうしてそうなのかを意識して表現することによって、逆に生き生きとしたイエズスと出会い、何かを気づいていくのではないでしょうか。

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