第16回 まとめと展望

100306 養成塾最終日

養成塾の最終日である。塾の「終業式、卒業式?」が行われた。
この日は塾生だけでなく、塾生たちの勤めている学校の校長先生も9人ほど参加されていて、最初にその紹介があった。

そのあと、前回宿題として出された「1年間養成塾に通って」という感想文をくじびきできめられた4人の先生が読み上げた。

●自分を教師である以上では「ああしなさい、こうしなさい」という前に教師自らが変わらないと親も子どもも変わらないものです。人に話するときは正論だけではダメでとおっしゃったことが残っています。きもちが繋がっていないと共感は得られず分かり合えないのです。
これから、カトリックの精神を、いかにして子どもだけではなく親を巻き込んで教育していくことを意図してやってみようと思っています。わたしの学校では、学校行事に親を参加させていたり、親の学習参加の機会を増やしています。この機会を利用して、カトリック教育を一緒に感じられるようにしていきたいと思っています。

●かつては神父さまがたくさん学校の中で働いていたことが当たり前の状況でした。
今は一人しかいないという状況です。そのような現状でこの先どうなっていくのか、いろいろと考えていたのですが、「光の見えない混沌」という状態でした。
この養成塾で、同じような不安、問題意識に持って参加した多くの仲間に出会えました。これが最大の収穫だったのかもしれません。
森司教のお話しを目を覚まされる思いで聴きました。責任の重さを痛感しました。福音書の背景もおもしろかったです。
河合神父の話のなかで、カトリック学校の使命について「顧客満足度」という観点から語られたの画印象に残っています。生徒達が学校の中でどれだけ肯定的経験を積み上げていけるか、ということなのですね。「回心のいろいろ」について話されたことも興味を引きました。
梶山神父は、「ナザレのイエス」とはどういうものなのかを示してくださいました。イエスの全人格的成長という観点は新鮮で、生徒の接し方や愛、温かさというところにいかすことができると思いました。
土倉先生の使徒職についての話で使徒職の責任の恐れと有り難さについて身につまされる思いで聞いていました。
中尾先生は、学校が本音で語れる場となるようにということを強調されました。
濱田先生が日々の出来事をとおして語られたことに先生の信念と情熱が感じられました。
合宿では、本音の話しをきくことができたと思います。親しい友人にも語ることがなかったことをここでは話すことができました。個人の振り返りをすることによって、ここにいてよいのだという確信と目には見えない信頼感を感じることができました。ともにイエスがおられるという感覚と同じでしょう。
浦神父の「根本決断」の話はわたしの心の中の転換点となったと思います。
土屋先生の話は、実践的でとても役に立つ話でした。とくに普通だったら話すことのない自分の失敗談から語ってくれたことがありがたかったです。
瀬本神父は学ぶこと、育むこととを掘り下げて考えさせてくれました。カトリック学校が、それぞれユニークでありながらも共通精神で支えられているということを実感しました。
水嶋先生は人を大切にするということはきく姿勢から始まることを、体験的に学ぶことができました。
どの話の中でも、現代の日本社会で光を照らす存在となること、一人ひとりを大切にし、使命を持って社会に送り出すことのカトリック学校の使命を語っていたと思います。人の物差しでなく神様の物差しを持つということでもあります。
将来を見据えたプロファイルを少しだけわかったような気がしました。根源的ささえを示すことができるようになったかなと少し思っています。
強大なものにどのように立ち向かうのかを、戦士としてではなく、愛されるもの、愛するものとして立ち向かっていきたいものです。

●今か25年前、わたしが学校にきた時には6人のシスターがいたのに、今ではひとりです。校長も替わりました。シスターが減少していくに従って、カトリック学校の精神からはなれていったという印象をもっていました。ところが最近カトリック学校のあり方をもっと強く出すべきであるという意見が出るようになりました。ミサや宗教行事をもっと大切にしたほうがいいというのです。
そのあたり、他の学校ではどうしているのか知りたいと思いました。個々の学校を越えたここでのつながりに期待していました。
新しい方向を見いだすというよりはキリスト教について何も学んでこなかったということに気付いて愕然としました。学ぶということは、知識を植え付けるよりも自分自身が成長していくことで、とくにミッションの自覚が大切なんだとということを骨身にしみて教えられました。
私のミッションとは何か、それは「社会の縮図」としての学校の中で、子どもが安心して学校で学ぶことができるようにすることでしょう。こどもも親も今より以上に満足して卒業していってほしいと願って日々勤しんでいます。

●カトリック学校の状況と使命についてのいろいろな講師の話を聴き、自分で自分の教員生活を振り返ってみました。
これまでクラスの子どもたちのためにどのように向き合っていったらいいかどうか自分なりに研究してきましたけれど、ここでの研修をとおしてあれはこういうことだったんだということが見えてきたような気がします。
そして、これまでは学校全体のことが見えていなかったと言うことも気付きました。ここでそれを考えさせられたのです。ここで学校全体を見ると言うことを教わりました。
使命ということについても、はじめは重荷を背負わされた気分でした。それは自分には無理だと思いました。でも何回かきいているうちに何となく頭の中が改造されてきたというか、整理されてきたというか、自分にも何かしらできるのではないかという気になったのです。
何がその子にとっていいのかを考える、つまり子どもを中心にして考えることは、子どもたち一人ひとりを大切にするということでもあります。ここに一つの方向性を見いだしたように思えます。
その子たちの問題を子どもの立場になって考えることは、わたしの勤めている学校の生き方です。生徒ひとりひとりを切り捨てずに、マイナスを持っていてもそれをプラスに考えていくようにすることをここでも改めて確認することができました。
この1年の塾で、やはり合宿が印象に残っています。自分に与えられている多くの恵みに気づきました。人のために働くことのよろこびも知りました。分かち合いの中で多くの先生の考えと熱意にふれました。なんかやらなければという気になりました。
こういう研修をカトリック学校全体でできないかと思えるようになったことは、1期生としての誇りなのでしょう。どうもありがとうございました。

森司教のまとめの話し

ちょっと本音の話をいわせてください。
あるカトリック学校の研修会に行ったときのことです。学校の研修会に外から講師を招いて行う研修会は創立以来2回目なのだそうです。どういう洗脳をするんだというふうに見られていました。
帰りがけに現場に立っているシスターが、校長になれる人がいませんかとわたしに聴いてきたのです。そこの学校には見あたらないというのです。
その話をそこの先生方が聞いたらどう思うのでしょうか。
わたしは、このシスター方は将来を見据えたビジョンというのを持っていたのだろうか?と疑問に思いました。あまりに無責任ではないかという怒りさえを感じたのです。シスター方がいなくなった後どうするのかというビジョンやプロジェクトを理事会や校長が立てていたのでしょうか。それだけの責任感があっていいのではないのかと思いました。

実は、わたしはそういう切実感を長い間感じてきました。何とかしなければという声は挙がってきていたけれど、なにも具体化しませんでした。
それが、一昨年の校長教頭会で、何かを作り上げていくビジョンがうまれたのです。学校の先生方を育てるという方向でした。スタッフに賛同をえて、この養成塾が立ち上がりました。すすめて行けば何とかなるよという声もきかれました。

カトリック学校のなかには信者の先生が数人というところがすくなくありません。信者の先生を中心にしてこれからのカトリック学校を担っていくという考え方では立ちゆかないことは明らかです。そこには「発想の大転換」が必要なのです。そしてその根っこにあるのは「神理解の大転換」だと思います。
信者とそうでない先生の共通さ、それは人間にたいする誠実さといってもいいでしょう。それを神の名で言えば信者でない先生は離れていってしまいます。神の名を使わないでそれを伝える時が来たと思うのです。

これからの社会における「宗教」の役割について考えるきっかけを与えてくれたのは、インド大使館で行われた諸宗教のかたがたとの対話集会でした。ヒンドゥー教、仏教、イスラム教そしてキリスト教の人たちが参加していました。
その集まりで強調されたことは、どの道をとおってのぼっていっても頂上は同じだということでした。頂上は人を愛するということなのです。仏教の人たちは仏の慈悲について語ってくれました。
インドは植民地化に置かれていた歴史を持っています。植民地を支えていた背景はキリスト教であり、そのもとに搾取、略奪をおこなわれてきたとインドの方は語っていました。「神の名を使う教団を信じるな、そういう宗教はまちがっている」ともいいました。
それを聞いていて、これからの宗教がどういう役割をするのか、考えさせられました。自分たちが理解する神やキリストの再構築をしなければならないと思うのです。神の名をでんと持ってくると対話ができなくなる、キリスト教はそういう可能性をたくさん持っているのです。
神の名においてするという発想ならば信者でない先生との協働作業は不可能だったわけです。いままではそういう精神が染みついていました。だから、受動性、依存心を排除する作業が必要でしょう。

その意識転換の根拠は、教皇ヨハネパウロ2世の生き方にあると思います。過去の過ちを明確に認めて公けに許しを請う姿勢を大胆にうちだしました。
そして一つのモデルとしてマザーテレサがいます。カトリックらしさは信者であると否とを問わず対等な協働作業の中から生まれるといわれました。人間にたいする愛と誠実、情熱に信頼して一緒になって作業をするそのモデルを示されたのがマザーテレサでした。
人間の罪をさばく神ではなく、人間を見ていたたまれなくなってメシアを送った神の姿がそこにあります。そういうムーブメントを育てていくこと、学校にまだシスターが働いているところでは、自分の人生を賭けているシスターとともに、それに燃えている共同体を作っていくことこそがカトリック学校の生き残る道なのでしょう。

哲学者の高橋哲哉さんと五木寛之さんと対談したことがありました。
高橋さんはその対談の中でキリスト教には入れない壁のようなものがあるといっていました。神を賛美する、礼拝する、それに捧げる、つまり喜んでするという建前はいいのだけれど、罪人である自分たちにはそれはできないと言われるのですね。キリスト教は「たてまえばっか」だというのです。
五木寛之さんは「親鸞」を書いています。そのなかで煩悩に捕らわれている自分と徹底して向き合おうとしたのが親鸞です。それに対して理想を生きるのがキリスト教であるならば自分たちはそこに行けないと五木さんも言われました。
いま、キリスト教のセールスポイントをキレイゴトでないことを表に出す必要があると思うのです。
イエスは苦しみの人であって、十字架上で「神よなぜみ捨てたのか」と叫ばれた、そういうキリストがセールスポイントであるべきであって、タテマエで語る必要がないと思います。
苦しみを叫びながら、矛盾に満ちていて苦しいことを涙を流しながら分かち合いながらそれでも希望を持って生きていくことを伝えあう、それがこれからのキリスト教の姿であろうと思います。
これまでとセールスポイントを変える必要があります。苦しみ悲しみのキリスト像、それに寄り添う共同体的すがたを分かち合いながら生きていく教育共同体となるというのがカトリック学校のこれからの道であると思います。

(文責 土屋至)

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