第1回 今日の問題

カトリック学校をめぐる今日の問題

河合恒男神父(サレジオ会)

申込書を見せてもらって感じたことがあります。
多くの方は理事長や校長から、養成塾に行くようにといわれたのでしょう。もしかしたら、こんなにいそがしいのになんでという思いのある人がいるかもしれません。そういう思いもムリからぬことでしょう。しかし、一期生の感想を読むと、この養成塾の存在そのものが栄養になったということを実感します。同窓会の合宿をしたいという感想もありました。みんながつながりを持って、連絡をとりあってやっていこうという望みが強く感じられました。
関東地区だけでなく、関西、東北、九州でも「養成塾」ができるようになりました。この養成塾でも、今年は昨年度よりもさらに12名の増加があり、46名の参加となりました。
カトリック学校は、公立校に比べると研修のチャンスが少ないです。公立では初任期研修300時間以上、25日以上の研修が義務づけられています。さらに5年、10年研修もあります。しかしカトリック学校ではこういう研修は制度化されていません。この養成塾ではカトリック学校の中堅教職員たちのために密度の濃い研修をできるようにしましょう。ここは、教師としての実践力を身につける場としたいと思います。カトリック学校では何のために何を子どもに伝えるのかを伝えたいと思います。
私は現在上智大学で教職関係の講座を2コマもっています。40歳以上も違う学生たち130名〜200名を対象に教えています。
毎回のリフレクションにコメントをつけて返すようにしています。なかなか大変ですが………。
さてそのときに学生たちに配布したプリントから紹介しましょう

顧客満足(CS:Customer Satisfaction)にかかっている私学の存続

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教師になったものに実感を与えて、生徒がよしとするものに育てていくために、顧客満足度の考え方があります。これは学校に対する期待度と学校が与えてくれた結果との関係で決まります。期待よりも結果が上回ると、顧客は満足してリピーターになるといわれています。
学校にとっての顧客とは、まず生徒(児童)があげられます。生徒一人一人が明るく楽しい充実した生活をおくること、肯定的経験を共有できること、ホームルームがありのままのお前でいいんだよという場所となっていること、つまりホームレスではないことが大事な指標となります。自己を受け入れてもらえていない若者が多いのです。もちろん、自分の進路との関係も重要です。自分の目標の実現に役だったかどうかは私学の存立理由のなかの最大のものの一つでしょう。

保護者にとっては、投資した金額以上の結果を子どもたちに与えられたかどうかが顧客満足度につながります。しかし、私学はお金に余裕のある子供たちだけしか学べないものになってしまう怖れも常にもっています。

関係者としての卒業生にとって、地域社会の認知度を高めること、自信を持って自分の卒業学校を言えることが大事です。また、私学は地域から嫌われてしまうこともあります。地域住民の子どもでも入試で落とされてしまう私学は感情的にいいはずがありません。道一杯に広がって生徒が歩いていると、自分の子どもが落とされた学校であれば、よけいに腹の立つことだってあるでしょう。

教職員同士にも顧客満足度があります。せっかく努力していいものを教えていると思っているのに、そこに喜びがないならば、あるいは先生の間に一致の精神がなければ、学校にたいする満足度は低くなってしまうでしょう。
さらに教職員の家族の理解も大事です。

でも、もし、学校の顧客満足がここまでだったら普通の学校と同じになってしまいます。公立の学校には、県や国の期待に応えるという側面があるように、カトリック学校には教会や設立母体の修道会の望みに応えるという側面もあります。このことについては改めて考えてみましょう。

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2aの「学習指導要領の変遷」というプリントをご覧ください。
ここには、教育のねらいや路線の変遷、ゆとりや学力重視の右左への揺れが描かれています。ゆとり宣言や土曜日の休みが行われていたときに比べ、指導要領は最低限度のこととか、学力低下の問題が言われるようになったということのブレは、子どもたちの学びの方向喪失になったら大変だと思います。「生きる力」をもう一回、見直そうという動きもあります。自殺の増加の問題に対して、学校教育は何を提示することができるのかについて、正義感、公正感、国語、歴史や文化、健康と体力、指導要領などいろいろな視点からの検討の必要性がいわれています。

3ー2の「現代日本におけるカトリック教育の主要目標」というプリントをご覧ください。

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「現時点の子ども」たちが求めている人間像がそこに描かれています。若者たちの作り上げていく教育目標なのです。これによると、自立できる人、好奇心、学び続ける学習者、自ら課題を見つけるという姿が読み込めるでしょう。温かい人間関係を作れるひとへの要求が強いことも読みとることができます。
でもこの背景には、連帯を作り上げられない、「トイレで昼食」という現象に見られるように友だちのいない淋しいやつだと思われるのがいや、他人の目を過剰に意識している現代の若者の姿があります。

これに対して、カトリック学校はどのように応えることができるのでしょうか。現代のカトリック学校には、イエスの存在があって、設立者の存在があって、不易のものを持っていると自慢するかもしれません。しかし、でもこれらの多くは形骸化しているのではないか、今の日本の若者に通じない言葉になっているのではないか、と思わざるを得ないのです。
バチカン公会議において、カトリックの洗礼を受けた人だけが救われるという独善、カトリックだけが究極の真理を持つという独善、あるいは伝統の中にある欧米的な嗜好習俗や聖職者中心主義というものが反省されました。
「アーメン」という言葉は本来、神のふところにいだかれるということ、受け入れてもらうということでした。「私はそう思います」という自立的な意味での「アーメン」とは少しニュアンスが異なっていたように思います。
聖職者中心主義からの脱皮も大事なことです。この意味では聖職者の減少は恵みなのかもしれません。たとえば、食事の前に「神父さま、食前の祈りをお願いします」といわれることが多いのですが、食事の前の祈りをするのは司祭の固有の仕事なのでしょうか?
「宗教」の授業についても宗教の先生が専門に教えるか、クラス担任が教えるのか、小学校では担任の先生が「宗教」の授業を担当している例が多く見られるようになりました。
日本のカトリック学校で、「イエスのメッセージを発信していく」ということは聖書だけを教えることでもなく、また教理(ドグマ)を教えることでもないでしょう。むしろイエスのメッセージとの出会いの場を準備することであり、ドグマではなくイエスのメッセージである「愛」や「脱自己中心主義」の教えを生き方として一人一人の中に実現することを目指しています。
これがイエスのメッセージのなから学び実践するということだろうと思います。

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教育者の教育力について考えてみましょう。
先生というのは教えたがりなんですね。先生が教えたがっているものに、生徒は反抗したり、無視したりする、そのなかを苦労しながら教えるというのが先生です。先生の教えたがりというのは、自分の持っている何かを誰かに伝えたい、自分のあこがれを伝えたいということです。ザビエルの布教を考えてみてください。彼は自分のもっているあこがれをいのちがけで伝えた、それに惚れ込んでいたから言葉のハンディを超えて、聞く人たちにそのメッセージが浸み込んでいったのです。先生たちが抱くあこがれは自分の教科の中にも見出されるでしょう。 自分が出会ったステキな先生を思い出しました。先生になって持つ、憧れの中に、あんな先生になってみたいというステキな教育者像がある人も多いでしょう。私の場合、憧れていた先生の憧れの対象だったのが、教育者としてのイエスでした。
教育者は、憧れのベクトルを強く持たねばならないと思います。生徒たちは先生が好きになって、教科が好きになるということが多くあります。教える側の情熱に巻き込まれていくのですね。こういう意味で、教える側の憧れとしてのイエスキリストに、学ぶものが引き寄せられるというのが望ましいのだと思います。

第1のプリントを見てください。これは「福音宣教」という雑誌の2010年4月号の記事です。著者はカトリック学校の関係者ではありません。この記事で著者はカトリック学校の存立意義を根底から問いかけています。
四半世紀前にあるカトリック学校で大規模な社会調査を行った時の結論は、カトリック学校無用論だったそうです。「家計に多大な教育費の負担を強いる私立学校は、特定の社会階層の再生産に利用されたり」、「人格形成はカトリック学校に委ねるよりも教会や社会教育の場面でするべきではないか」と述べています。「しかし、今このことを考えると、この考えは修正せざるを得なくなった。それは公立学校に実態の変化による」、そして「今こそカトリック学校が『宗教』をカリキュラムに組み込みながら、『イエスを伝える学校』としての使命をになっていくべきだ」。更に問題は「何をどのように誰が誰を教えるべきか」ということにあると述べているのです。
さらに著者は次のようなことを続いて強調します。

●一人ひとりがかけがえのない存在であることを訴える
●愛といのちの大切さを意識する。ただ人を愛し、命をいとおしむ。
●喜んで損をする生き方が自由、豊か、幸せをつくり出す。
●イエスは誰と関わったのか? 貧しい人との関わったイエスの生き方をモデルとするならば「小さきもの」を招くのが、カトリック学校ではないのか。
●奨学金制度の拡充をはかる
●「学力」の高い子を集めて教育するよりも、「学力」の低い子を集めて高くするように教育するほうが、教えるもののよろこびは大きい。

ちょっと、私の立場から述べさせていただければ、マリア会はすばらしい育英資金援助システムを持っています。これは全国の小中高校生が対象で、毎年200名ずつでカトリック学校の生徒だけではなく、公立も含めて援助しています。こういうシステムがあることも知っておいてほしいことです。

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配布したプリントには、「テレビ番組の教師像」というのをいれておきました。教師を主人公としたドラマがけっこう多いのですが、それぞれ時代背景を反映していることがわかります。昭和40〜50年代のドラマの教師たちは若く独身で男性が多いことにきづきます。
ドラマで描かれる教師としてはずっと一貫して描かれる姿もあります。それは教師としての経験を持たないけれど、教育にたいする情熱と純真さでもって、ぶつかっていく教師、あるいは、子どもたちへの深い愛情をもって、管理職や町の有力者、保護者の圧力に負けずに、それに立ち向かう現状改革型の教師像がえがかれていました。学校内では異端的な存在でありながら、自己の信念と生徒への愛のゆえに教師をつとめあげるタイプです。

最後に、考えてみたいことがあります。私たちは自分をどういうふうに呼んでいるのか、先生とよばれることに対してどのように感じているのか、ちょっとふりかえってみてください。自分のことを先生と呼ぶのが特に小学校には多いようですが、先生というのは尊称ですね。皆さんは誰と対峙しているのか、主人公は子どもたちになっているのか、ということを意識してほしいと思います。

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