第2回 教会と学校での宗教教育再考

100522 養成塾第2期第2回

教会と学校での宗教教育再考

生きる力を伝える教育、こころに響く宗教教育を求めて

森 一弘 司教

宗教をバックボーンとして、教育とはなにかについて語りたいと思います。

これまでのカトリック学校では宗教教育をどういう思いでしてきたのか?

それを見るのに1989年に学校教育委員会が実施したアンケートがあります。100%回収率のアンケートでした。理事長校長先生には調査の結果を配布しています。分析してみるとおもしろいのですね。

聖職者のかずが将来不安であるといっていながら、20年間ほとんど手を打たずにきたということが先ず読み取れます。

先生の研修をきちっとしているのは3分の1くらいの学校しかありませんでした。「信条の自由」という考え方から教職員に遠慮したのかもしれません。

初めての教職員研修会にいったときに、出席した先生方の構えを感じました。「おれたちを洗脳するためにきたのか?」と。そういう意識だったのです。

調査の中に「宗教教育」「宗教行事」についての質問がありました。

それをみると、カトリック学校の平均的なイメージが浮かび上がってきました。いずれも判で押したような答えなのです。聖書を教えています、祈りをしています、黙想会も実施しています、創立記念日にはミサをあげます。それをとおして、なんとかして、キリスト教的な愛の精神を伝えようとしているといいます。

確かに真っ正面から教会の教えをやっているところは少ないし、洗礼を授けることは意図していないということも共通しています。

いまから50年前の栄光学園の時代には1学年に70〜80人が洗礼を受けるのが普通だったのですが、いまは、ほとんどいないですね。

結果は別としても少なくなったという現象を受け止めるべきだろうと思います。

問題にしたいことは、これらの宗教教育が生徒達の心に響かない、生き方の影響を及ぼすようなメッセージを与えていないのではないかということです。

学校が目ざしているキリスト教的教育が子供たちに響いていないのではないか。カトリック学校の宗教教育は子供たちの置かれている状況を理解している上での教育にはなっていないのではないか。

子供たちの情緒的な面を支えている親子関係を見いだせずに不安定な子どもたちは、学校でも同じような不安の状況におかれています。

それに対してキリスト教教育がそこに届かないで遊離している。これは、カトリック学校だけの責任ではないでしょう。むしろカトリック教会の責任と言うべきかもしれません。

日本のなかでは、1%になるかならないかのキリスト教人口なのです。

日本の宗教人口は2億人いるといわれています。日本人は自分を「無宗教」と書くが「宗教」を無視していきてはいけない状況のなかで生きています。浅草のお祭りの祭儀の責任者は浅草教会の委員長さんだった。神社の氏子だったりするのですね。一人の人が二つの宗教に所属しているのが日本人なのです。

これに対して、実践的な信者の数は、総人口の3分の1くらいと考えられます。その中の最大のものは創価学会です。

大戦が終わって新しい民主主義のなかで、マッカーサーがキリスト教学校をたくさん作りました。そのときは1年間に1万人洗礼を受けたのです。

ところが、60年代になると洗礼を受ける人の数は急速に減少しました。かわりに60年代後半から創価学会がのびました。

つまり、宗教にたいするニーズがあるけれど、教会がそれに応えられていなかったのです。70年代の高度経済成長に乗ったが故に、乗っていけない人びとの叫びに答えられなかった。失ってしまった。

「愛の精神、キリスト教的人間形成」をとなえても現実の人には響かない、日本社会から遊離してしまった、いくらいっても子供たちを動かすエネルギーになっていなかったのです。

その前の時代では、戦争の経験をもっていた先生方が、キレイゴトを教えなかったのですが、それもだんだん少なくなってしまいました。

今どういう視点が宗教に求められているのでしょうか

森元首相によって作られ、安部、福田、麻生内閣へと受けつがれた教育再生会議というものがあります。

再生会議における政治家たちの発言をみてみると、戦後教育が人間の権利ばかりを強調していて義務についていわなかった、だから自分勝手な人間が増えた、日教組の影響もおおきく、権利ばかりすりこまれているから自分勝手の人間が増えてきたと教育を見ています。そして、このままではいけない、教育を再生しなければならないというのが、いろいろなタイプの人がいたが、共通の結論なのです。

かれらの提唱した中に、地域社会での奉仕を体験させようというのがありました。

倫理道徳教育のやりなおしをしようとしているときに、壁となったことが「宗教教育の必要性」ということでした。宗教教育はタブーであるにかかわらず、日本は神の国であるという発言した首相もいました。

かれらは、昔はよかったとかんがえています。教育勅語を持ち出して子供を育てればよかったからです。教育勅語を礼賛するカトリックの人もいるくらいです。

かれらには、イメージとして宗教についての思いこみがあったようです。公立に宗教心を持ち出すのは近代国家ではタブーです。カトリックが多数派の国であるフランスでもそれはできません。

でも、カトリック学校ではそれは悪くないのです。この状況を見つめ直す必要があります。

プロテスタントの多くの学校と違って、カトリック学校の信者の先生の比率は2割くらいです。信者でない先生もキリスト教についてタテマエでは語るでしょう。キリスト教精神をつたえようと努力するはずです。しかし本人が信念として持っていないものを生徒に語るのは一番難しい点であると思います。

だからといって信者の教員を増やすことがいいかというとそうではないと思います。

むしろ、学校で働く教職員の間で子どもたちの共通の問題にたいする共通理解がいまもっとも必要なことではないかと思うのです。

信条の違いを云々するよりも、共通点をさぐるべきなのです。たとえば、人間にたいする愛情や子どもの将来を幸せにというところは共通です。どうしたらしあわせになれるかということにたいする共通理解をきずくことはできるはずです。

神や聖書をもちだすと、わからない、飲み込むしかないかもしれません。しかし子供たちの幸せという点では共通の土台に立てるのです。そこから出発すべきだと思います。

今から3年前、イギリスのレスター大学で幸福度ランキング調査というのをおこないました。調査項目は緻密につくられ、聞き取り調査8万人を行ったといわれます。

それによると日本人の幸福度は178カ国中90番目なのだそうです。トップはデンマーク、スイスや北欧の国、経済大国アメリカは23番目、イギリス、フランスはずっと低いです。

これに関係することは、日本の教育の問題であって、経済的豊かさではないようなのです。競争社会と関係しているかもしれません。

アメリカ的自己責任資本主義は競争社会をつくりだし、一部の勝者と多くの敗者をつくりだします。つまり、経済的格差を生じるのです。日本の小泉政権の時も、自己責任型資本主義を導入しようとして、経済的格差や派遣社員制度をうみだし、福祉予算が削減された。貧しいのは自己責任だというわけです。

今までの会社の終身雇用の制度や地域社会の支えを失ってしまいました。

アメリカは競争社会であって、共通の歴史を持たない、だから能力のあるものが社会をつくっていくのは普通のことですが、日本ではそうではない。日本は日本らしさを失ってしまったのです。

人間を不幸にしていく繋がりにたいして、人間認識を共有しあうことが必要です。そしてその土台としてキリスト教がある。

デンマーク、スイスの憲法の序文には「多様性を大事にしていく」という意味の文章が盛り込まれています。そして、国の強さはもっとも弱い人たちの幸福によって計られるとしています。弱者の幸せを保障してこそ国の幸福がなりたつ、すごい哲学であり、人生観、社会観ですね。

「もっとも弱いものの幸せによって」というのはとてもキリスト教的ですが、宗教を持ってくる前の人間認識としても共通にもつことができる理念です。

これらの国の学校で行われている総合学習の時間は、障害者も一緒に学ぶ、4つの言語の人たちが共同する、しかもそれをただでするというものです。

みんなの幸せは弱者のとおとさの上に成り立つ、この考えを訴えているのはキリストの教えなのですが、日本のカトリック学校はこの教えを堂々と言えるのかどうか、考えさせられます。

カトリック教会は「しにせ」です。老舗を建て直すのは大変です。コンビニにはきやすく入れるけれど、老舗はなかなか気安くは入れないのが普通です。老舗としての宗教か コンビニの手軽さか、今のカトリック学校はそのどちらを選ぼうとしているのでしょうか?

日本の古典的宗教、真宗などは、時代の流れの中で苦しむ市民にはなかなか近づけなかったのです。その反省のもとにもう少し現代社会のただなかに生きる必要があり、そのためには新興宗教を正面から見つめる必要があると考えている人たちもいます。

あるアメリカの大学院の学生が「体験」という本にまとめました。日本は戦後になって、新しい宗教が次から次へと生まれた。これはなぜか?を体験的に研究しました。

新興宗教が現れる時期というのには時代の波があります。幕末から明治にかけて生まれた新宗教は、黒住教、天理教、金光教でした。

1970年代の高度成長期に創価学会、立正佼成会、統一教会が成長しました。

80年代の後半に出てきたのが、幸福の科学やオウム真理教でした。

いずれも社会の転換期に大きく伸びています。これらに共通するのは、ついていける人はいい、ついていけない人が宗教に安寧をもとめたということです。

宗教が生まれたときは弾圧され、迫害を受ける、でも生き残って次の時代で急速に成長します。

伝統的な村落共同体の代わりの共同体づくりを新興宗教は行いました。つながりが消えて疑似共同体の肌の温もりのある新しい共同体がうまれる、それに応えたの新興宗教だったのです。

ある町の洋服屋さんの家が火事にあって燃えてしまい、夫が逃げてしまった。しかたなく近くのカトリック教会にいったら、ラテン系の神父の教会でした。「今、神父さんはお昼寝しています。教会でお祈りをすればこころがやすまりますよ」とまかないのおばさんが案内してくれました。

創価学会ではその人の店に信徒の人たちが買い物に行く、集まりで似たような経験を話しあう、人間の飢えかわきに触れているのですね。

オウム、幸福の科学には、入っていく動機がそれまでと違っています。病気、人間関係とか経済的な理由だったのが、学歴があって能力があって今までのタイプと違う人が宗教に入りました。そこに救いを求めた人たちに共通するものは、孤独感であったといいます。学校に行ってもお互いのふれあいがない、家族もそういうふれあいを失っている、得体の知れない孤独感にいる自分を支えるものが何も見えない、そういう人たちが宗教に救いを求めた。

食事のときにサツマイモの蔓をみそ汁の具にする時代には富を得るという目標を持っていました。だが、今の子供たちは貧しさの経験がない、富を求めるのが目標ではなくなった。一億円をもらったら、預金、不動産、世界一周ではない、家をつくるのでもないという時代です。

しかも家族が魅力を失い、職場も魅力ない、自分の生を支えるためにこの世界に飛び込むのです。

それぞれの宗教はそれぞれの時代にそのときに生きた人びとの実存的な深い悩みに応えてきたのです。

そういう視点から見直していく必要性があります。心の奥を見る、そこにあるうめきをフォローしていくところに宗教性が出てくるものです。

そういう子どもたちの現実をみて、心の理解をするためには、信者であろうとなかろうと違いがないのではないでしょうか。

発表

1グループ

学校の実情と子供の心をどうとられるか、そこが問題です。

子供の心の叫びをきくには、子供と同じ高さに位置して同じ目線で見て考えることが大切です。

私は規律のきびしい学校で育ちました。思春期の生徒をかかえる中高の大変さがわかりました。

各学校の建学の理念というものが、子供たちの実体に即しているのか、現場に対応させられるのか、考えさせられました。

信者でない立場からいうと、カトリックの教えがあってそのもとに指導をするというよりも、まず子供がいて、それを理解するように、そのこどもの共通理解が先というのが印象的だでした。

2グループ

現場で感じていること考えていることをだしあった。

カトリック学校らしさが何時の段階でどう伝わっていったらいいのか、いかに子供たちに接していったらいいのか?、矛盾と疑問を感じながら現場にいます。

子供たちにどう向かうのかということの共通理解からはじまるということをもっと考えてみたいです。

それぞれの現場でのとりくみの紹介がありました。ありのままの自分でいいという接し方を話してくれた人もいました。

分かち合いを通して自分に与えられている最良のプレゼントとしての子供であることの確認ができたように思います。

常にチャレンジの気持ちで、純粋に生徒に接していくようにしているが、自分の成長が子供の成長とイコールであることを実感しました。

3グループ

宗教教育はどういうふうに行われているかについていろいろな学校の例を出しました。

小学校と中高の違いについて話し合われたのが、新鮮でした。クラスで子供と関わる時間がおおいのが小学校ですね。

マリア像があることやシスターが学校にいることが宗教教育になっているけれど、そういう人に任せていくのではなくみんなで支える宗教教育でなければと思いました。

カトリックの精神をもって進路教育をしているという話しが紹介されました。。

4グループ

情報交換の場でした。

カトリック学校は、一般の学校との違いがどういうところにあるのかについて話し合いました。

即効性がないけれど心の中にしみじみとしみこんでいくところがミッションスクールだとあるプロテスタント学校の教員が述べていたことを思い出しました。

親も含めていくことも考える、親も変えていく事例も紹介されました。

カトリックの大学でカトリック校に勤める教員の養成を考えてほしいという意見も出されました。

5グループ

小学校の先生から子供たちの現状について語られました。子どもたちの飢え、かわき、 進学にむけてのストレスについて教えられました。

発達障害児への対応についても報告がありました。

家庭の問題について、どこまでが学校の領分なのかという問題提起もありました。学校と家庭の関係について双方に寄り添うことが必要だと思います。

6グループ

子どものためにという視点がカトリック精神よりも共通理解のもとになるという考えが印象的でした。

でも、子供を大切にするというのは学校ではどこも言っています。カトリックの教えをどうそこにいかすのか、そこを聞きたかったです。

不安を抱えている子供たちが、どういう不安を抱えているのかをもっと分析する必要があると思います。

この記録の文責は養成塾ホームページ担当の土屋至にあります。内容に関する講演者の了解は求めておりませんので、講演者の意図と違う表現がありえます。そこはあしからずご了解ください。

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