第8回 イエス・キリストに見る教師像

河合恒男神父(サレジオ会)

4つのCS

夏休みが明けて学校が始まりました。今日は学校説明会があり、学校が何を売りにしていくのかということについて説明するとき、まずは「自尊感情を大事にする学校でありたい。」ということをお話しました。私は説明をするとき、覚えていただきやすいように、よく標語のようなものをあげるのですが、カトリック学校として目指すべきことについても、「4つのCS」があるのではないかと思うのです。

1.カリキュラム・スタンダード Curriculum Standard

やはり学校教育であるからには、保護者も願うのは勉強、そして受験のことです。カトリック学校だからといって受験実績がどうでもよいということはありません。

公教育ではこの側面が一番重要になってくるような気がするんですね。実は毎日新聞が7月に挙げていたこんな記事があります。「進学実績を上げたい予備校講師に学べ。東京都立校、授業診断を受け、助言仰ぐ。」都立が塾の先生たちに自分たちの授業を見てもらう、そして難関大学に入るための重点校をきめる・・・、いくつかの高校を選び、重点校としてそこに入れようという試みをしている・・・こういうことは皆さんももうすでに御承知だと思うんですね。ではこんな状況の中にあって私立学校はどうしたらいいのかという問題が出てきます。

ただ地域的に言いますと、首都圏というのは楽なんです。私立学校へ通う都府県別の割合を見ますと、東京では約60%の生徒が私立へ行く。反対に一番少ないのは沖縄、徳島で、ここは一桁、10%未満です。そのような中で、社会全体が少子化になれば、当然地方の私立学校はもろに影響を受けます。大阪で30%、京都は40%台、この二つを除いてみると、他は本当に大きな問題を抱えているということが言えますね。

しかし、私たちはこれだけで勝負をかけるのではないです。学習指導要領、教育課程だけの問題ではないのです。これだけなら、私たちが学校教育をする必要はないとさえ、わたしは思っています。

2.顧客満足度 Consumers’ Satisfaction

学校として保護者、地域社会、卒業生たちからいろいろなニーズがあります。それに応えていかなくてはならないし、時代のニーズもあります。これは私立にとっては重要なポイントです。顧客が満足してくれないようでは、誰も高いお金を払って来てくれるはずがありません。学校全体として、あるいは皆さんが任せられているそれぞれの部署で、保護者や生徒たちが何を望んでいるのかを知り、それに的確に応えていかない限り、募集しても生徒は集まりません。そして生徒が集まらなければ教育はできないのです。

でもこのポイントだけでは私たちのカトリック学校として、足りないのです。

3.カトリック・センス Catholic Sense

キリスト教が大事にする価値観を伝える。宗教的雰囲気を実現していく。イエス・キリストの行動やことばなどを通して、人生の在り方などを教え、伝えていくわけです。これこそがカトリック学校の第一の特徴なのであり、普通の私立学校にはありません。

私たちはここで、イエスはどんな人か?そのイエスをどのように伝えるのか?という問題が出てくるわけですね。これについても課題があります。宗教科だけの問題でいいのか? 宗教の授業で何を教えているのか、他の先生は分からない・・・ときどきそんな声を耳にします。

他の教科なら先生は教科書で答えられることがたくさんありますね。しかし、宗教については、中1の生徒が「ペトロってどんな人?」と担任の先生に聞いても、たぶんその先生は分からないでしょう。「マリア、ヨセフなら、ある程度知っているけど・・・」などということがあります。そうなると、宗教的雰囲気ということを学校の方針として活かす、あるいは表わす何かが必要になってきます。

4.cheerful smile(space)

「自尊感情」と言ってもいいです。学校生活の中で安心感がある、居場所がある、「私はここの一員となった」。イエスのことばで言うなら「おまえはおまえでいいんだよ」あるいは、イエスを紹介する時に神のメッセージをしていつも出てくる「おまえは我が愛する子だよ」、という無条件で容認される存在としての自覚なのです。「もしおまえがもう少し勉強したら認めてやるよ」ということは言わないのですね。全く無条件なのです。

神の方から勝手に人間を造ったのです。私を大事なものとして造ってくれたのです。そして、いつも愛おしい者としてご覧になっている方がいるのです。それを確信できたとき、生徒たちは不安のない喜びに満ちた笑顔になれるのです。これがチアフル・スマイルの意味するところです。

かけがえのない自尊心というものは、独善ではありません。聖書の至るところに出てきます。

旧約聖書の一番初め、「人は一人でいるのはよくない」、アダムのパートナーとしてエバを造った。私たちは、もともと開かれている存在です。人間は自分一人じゃない、誰かと共にいるものです。交わりの共同体の中で生きているのです。私たちがカトリック学校として最終的に伝えるのは、自尊心と共に交わりへと心を開くこと。それを教えるのが教育の最終目的です。そのために豊かな学力(理解力、判断力、応用力など)を身に付けていくのです。社会の中には困っている人がたくさんいます。政治的に、経済的、身体的に困っている人、その人たちのために何かしよう。君の知恵、行動力、能力などを使って実践していこう。

そのシンボルとしてミサがあります。ミサは食事、しかも交わりの食事です。大阪人は食べるのが好きです。仲の良い証しは一緒に食べに行くことなんです。東京などではプレゼントになるかもしれません。考えてみるとイエスは大阪人だったかもしれません。食べるの大好きでした。「大食漢」なんて聖書にも書いてあります。

ミサはもっとも親しい交わりのシンボルです。これが一番交わりの極限みたいなものです。だから、イエスは言うのです、「みんなが、世界中の人がこの交わりに来るまで続けなさい。」。今、世界には政治的な難民がいます。経済的な難民がいます。一緒に食卓に預かれない。教会に来れない信者もいます。信者になれない人、ならない人もいろいろいます。でも理想から言うと、「そういう皆が、一つになっていこう、そこに真の平和があるんだよ、その時まで働くのがあなたたちの使命だよ」というシンボルとしてミサがある。私たちが子供たちとミサをささげる時もそこを強調しなければいけないのです。それをしないで、ミサというと「信者だけが訳のわからんパンをもらって、あれ何だ?」とか・・・。そういうことではないのです。深い究極の交わり、イエスの遺言はそれでした。「皆が一つになるまで、続けてください。裏切られうかもしれない、通じないかもしれない、でもくじけないで、人々を一つに集めよう」。

「愛」はみんなを一つにできることば。そこには党派のようなものはない、もっと大きな、お互いを受け入れ合う心がある。イエスはこれを伝えたかったのです。私たちは、こういう学校を造っていかなければならないと思うのです。

イエスをどう伝えるのか

宗教を通してイエスキリストを伝える時、あるいは学校のいろいろなところで伝えるとき、3つの場面があります。 イエスをどう伝えるのかということ。

1.イエスについて教える 知識

「イエスとはこんな人で、こういうことを言って・・・」こういうことについては神父やシスターは強いんですね。信者さんも強いです。でも当たり前です、知識としていっぱい知っているんだから。ときどき信仰教育がそこに偏ってしまうことがあります。でもイエスのことに関して試験をすると100点満点がとれる生徒が、周りの生徒にひどいことばをあびせるなんてこともあります。知識を与えても、その中身が伝わっていないのです。知識は必要です。しかし、生き方まで届かないということがあります。だから宗教について教える教科の先生だけでは限界があります。

2.イエスキリストの中で教える

ミサ、宗教的な雰囲気、学校行事などがこれにあたります。この時には宗教科の先生方だけの働きではないです。学校行事としてキリスト教的雰囲気を大事にしよう、本物に近いセッティングにしよう、クリスマスなどは特に力を入れよう。でもそれだけでも不十分です。イエス・キリストの生き方を私たちが学んでいかない限り意味がありません。形だけクリスマスのお祝いをしていても、そこには救い主はやって来ないのです。救い主は家畜小屋の糞尿の臭いの中に来たんです。当時の多くの人々の勝手な期待を裏切って・・・。

3.イエス・キリストに向かって

「わたしの生き方の問題」としてとらえていかなくてはならないのです。だからイエス・キリストの生き方を全員の教職員が知っておいてほしいのです。自分を与える生き方です。イエスは「パンの生き方」だからです。

イエスはパンとして生まれ、パンとして生き、パンとして死んだのです。ベトレヘム(パンの家という意味)で、まぐさ桶のなかに置かれたんですね。まぐさ桶とは家畜のえさを入れるところですから、人間の次元でいえばイエスは皿の上に置かれたということです。だからパンの家と言うところでパンとして自分を現したとも解釈できるでしょう。そして、死ぬ直前にはもう一度「これを取って食べなさい。これはわたしの体です。」とイエスは言いました。イエスはパンとして生き続けたからこそ、この言葉に矛盾がなかったのです。「パンとして生きた」ということは自分を壊して、新しい命に生きるということです。「一粒の麦が死ねば多くの実を結ぶ」ということばも彼は言っています。自分を喜んで与えた時に、より大きな力となっていく、それは私たちも普段、母親として、父親として、あるいは教師として体験することです。私たちはいずれ死んでいきますが、でも、私たちが与えた命は子供たちが次世代に受け継いでいってくれるわけです。「人のために命を捧げること、それに勝る愛はない」とも言っています。そしてイエス・キリストは人々に言ったことをまず自分自身が必ず実行するんです。言うだけではないのです。だから、私たちは、「イエスに向かって学校生活を整える」ということが求められるのです。これがカトリック学校の大きな特色です。

まず、自分を大事にする。そして、まわりの人を大事にする。それは徹底的にすべてに開かれていることを前提としています。気に入らないあの人も、宗教的に違うあの人も、民族的に違うあの人も、自分に危害を加えたあの人も、神の計画の中ではみんな必要だからです。こういうことを現している場面がイエス・キリストの生涯のいろいろ見られます。

「喜んで赦そう」「あの人は素晴らしい人だよ」そういう生き方です。

イエスに見る教師としての態度

教師は、これまでは指導者(リーダー)でよかったんです。指導者、指し示す者として。

でも、現在大切なのは支援者、サポートするという姿勢だと思うのです。上から目線でかっこいいことを説くのではなく、生徒たちのニーズをつかみながら、彼らを納得させることが求められています。実はイエスはいろいろな場でそうなさっているのです。

(1)例えば、「よきサマリア人の話」です。民族の違う人、宗教の違う人を大切にしている話です。とても有名な話ですが、たとえ話の内容だけ見るとルカの独自の視点が出てきません。

律法学者とイエスの対話がある平行箇所を読み比べると分かるのですが、マタイでは律法学者はイエスの敵です(マタイ22章)。マルコでは律法学者とは敵対していないし、かえって彼を褒めているぐらいです(マルコ12章)。それに比べると、ルカ(ルカ10章)は面白いです。マタイとマルコでは彼らから聞かれたらすぐにイエスは答えているのに、ルカでは答えていないのです。「律法には何と書いてあるか?あなたはそれをどう読んでいるか?」と逆に一回尋ねているのです。相手から答えを引き出そうとしているのです。明らかにマタイやマルコに描かれたイエスとは違います。質問した人に答えを言わせる。そして「その通りですよ。だからそれを実行しなさい」と言われれば、彼らが反論できないから。

私たちが生徒に質問するときもそうです。答えを求める時のことです。「聞く」は単に「音声を聞く」です。「聴く」は「相手のことを考えて聴く」、相手軸で聴くわけです。答えもそうです。「答え answer」は、自分で答えを持っている。答えを知っている。「回答」もそうですね、もう決まっている。だから本来は尋ねる必要もないのですが、相手の理解を確かめるために質問している姿勢を現しています。

これに対するもう一つの姿勢は「解答 solution」です。これは、相手と共に考えながら、正解を探し出す作業で、一緒に納得しながらするので時間がかかる作業です。相手の立場を尊重しながら。そして、探し当てたら行動として現して行くのです。「応答 response」です

(2)「ザアカイの話」を見てください(ルカ19章)。そしてその前の個所です。「金持ちの議員」(ルカ18章)です。この議員は、悲しんで、この場から去っていきました。「持物をぜんぶ捨てて、貧しい人々に与えてから、わたしに従いなさい」とイエスが言っています。しかし、ザアカイの場合は半分で褒められています。つまり、イエスは相手を見て要求しているのです。イエスのものの見方、答え方、あるいは発問のしかた、どこにでも目の前にいる相手を根本的に大事にするイエスの姿がここにあります。

(3)「奇跡的な大漁の話」の福音書の比較です。マタイとマルコは一言も触れていません。ルカとヨハネが触れているだけです。ルカは新しく弟子を招く時の話として書かれています。「わたしと一緒なら大丈夫」という意味でこれを書いたのでしょう。反対にヨハネはイエスの復活後の話としてこれを描いています。大事件の後でもとの生活に戻ったら、また失敗をし、人生にけん怠を感じている、その時にこの話が出てきます。ルカではこれからの励ましという意味が大きいですね。

(4)聖書をどのように読んだらいいのでしょうか?例えば「わたしは今日飛行機で大阪に行きます」とフラットな言い方をすることができますが、「わたしは」を強調する言い方や、「飛行機で」、「今日」を強調する言い方もできます。文字にすると生きたことばになってこないのです。本当は何を伝えたいかを強く言うなどで強調点が変わってくるはずです。

それと同じように、強調点を意識して聖書を読むことが必要です。想像力が必要なのです。イエスはどんな調子でそれを言ったのか?例えばマルタとマリアの話があります。イエスの口調はどんなものだったのか?どんなニュアンスだったのか?文字を読んだだけじゃ分からないんですね。

一個の回答だけだと思い込んで読むと分からない、聖書の言葉は納得できないということになって、つまずくのです。また、日本のカトリック教会のイエスは笑ったことがないみたいに伝えてきたかもしれません。少なくともこれまで、わたしが見たイエスの科を出ですね。でも子どもに人気があたイエスは笑っていたはずですよね。神父やシスターが伝えてきたイエスはもしかしたら堅苦しいイエスだったかもしれませんね、もっとフリーな気もちでイエスに接してもいいし、分かりやすく伝えなければいけませんね。そのためには豊かな想像力が必要です。

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(5)プリント7bを見てください。イエスは徹底的な弱者の立場に立って仕えるのです。「あなたは、たとえ失敗しても、罪を犯してもかけがえのない尊いものなんだよ」と言われるのです。イエスはいつも苦しい人に近づいて、その人と共感する。他人の必要に敏感な心を持つイエスです。いつでも、どこででもすぐに行動ができる、こういう生き方です。

ルカ24章の「エマオで弟子たちに現れる話」には「同行してくれるイエス」の姿があります。まず、彼らの話を聴きます。愚痴を聞きます。そしてすぐには、答えを出さないのです。徹底して聴き続けてくれる、すると彼らは食卓の交わりの中で、彼がイエスだと気づくのです。

最後に、ルカ15章「見失われたものの3つのたとえ」です。まず「見失った羊のたとえ」、皆で見つけた時の喜び、「ドラクメ銀貨をなくした」話など、当時の人々が体験したような話をもとに、見つかった喜びを伝えています。そしてそのクライマックスに「放蕩息子」のたとえ話を紹介しています。これをザァーと読み過ごすと、私たち先生は真面目ですから、「弟は勝手なやつで、赦せない」と思いがちです。しかし、イエスが伝えたいのは、どこまでも赦す神の愛、いつもそばにいるんだということを知らせたい神の姿だと思うのです。だからこのエピソードの本来のタイトルは『放蕩息子』ではなくて、『二人の息子をとこに愛する父』のほうが適切だと思うのですが。

とにかくお兄さんの根本的な間違いは、父に「応えてくれなかった」と言っているところです。しかし父は兄に「違う、おまえはわたしのそばにいつもいる」とはっきり言っているのです。生徒が自暴自棄になったとき、「そうじゃないよ!」というメッセージを力強く、確信をもって発信できるかどうかというのは教師として大切です。教師としてどんなふうにして生徒たちたちと一緒にいればよいか、子供たちと生活を分かち合っていけばよいのかということが大切なのです。

イエスに倣って、少しずつでも、生徒たちにより添えられる教師になっていきたいものです。

「グループでの話し合い」より

●居場所 共に考えていく 生徒の考えを聞く姿勢
居場所 どこかに安心できる場所ができること 教職員にも大事
クラス以外に居場所がある生徒もある
教職員同士の共同も必要

●学校におけるミサ 合唱 神秘的 ありがたいもの 静かにさせる 参加させるともにミサ 未信者の生徒にも参加できるミサを考える 静かにさせる いきぐるしい ああ終わったと言わせないミサ 工夫できるところ

●イエスにむかって 教員はもっと成長しているのではないか 愛情を注げる
もっと洗礼をする人が増えていてもいいのでは

●私自身が響いてこない 成長できていない 興味を持てていない 悩み続けている
悩み続けてもいい 逃げているだけ?

●聖書の引用 いつ本論にはいったかも
感想は特にない 夏休み前と同じ
カトリックではない学校の道徳

●見失われた羊 ドロップアウト 問題になった生徒への視点
一般の学校との違い マザーテレサのこと 英語のなぜ学ぶのかまで教える

●教師のあるべき姿 今の時代に合わせた教育 教師の中でに一体感
あやまちをおかした生徒への対応 生徒の抱えている悩みへの対応の難しさ
なかなか見つからない部分もあるのだが

●指導のケースバイケース 指導に追われてしまう アイコンタクト 目を見て話す

●教員間の関係に苦慮している

講師のコメント

●子どもたちから何を聴いて何を与えるのか 子どもたちの充実感を持てる学校

●教師イエスキリストが伝えたかったであろう「学ぶことの意義」とは何か?

to know知識を知る
to do 行い
to live together 誰かと一緒に生きている 自分の国、自分の宗教だけでない
to be 存在としての自分 目の前にいるあなたがとおとい
to pray 誰かとつながっていく 自分の思いだけでなく神の思い 自分自身の深い望み

自分の心の奥底をみつめる
イエスはあなたに語りたかったから書き物は残さなかった
しかし書き物では充分に伝わっていないイエスの気もち、表情、はげまし?それをわかりやすく伝えるのはおとなの役割ではないか。

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