第5回 イエス・キリストについて

梶山義夫神父(イエズス会)

イグナチオ教会の向こう側の修道院に住んでいます。

先日、増田神父から「歴史的なイエス」についての話がありましたが、今日は「イエスと教育」についてお話しします。

「神の国」の福音 −8つの幸せ

新約聖書のマルコ1章14節をお開きください。

イエスはガリラヤに生き、神の福音をのべつたえて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言います。

イエスのメッセージは「神の国」についてで、これは神が王として統治する領域のことを言います。

そんな「神の国」とはどういうところなのでしょうか?

マタイ5章1〜12節に「山上の垂訓」というイエスの説教があります。これは「真福八端」といわれる「8つの幸い」について述べた有名な教えです。「心の貧しい人びとは幸いである………」ではじまります。

私は、公立小学校の5年生の時この言葉をはじめて聞きました。不思議な言葉として印象的でした。

ここには「天の国」という言葉が出てきます。マタイは「神」という言葉を使わずに「天」と言っていました。だから「神の国」はいわゆる天国ではないのです。「神の国は近づいている」というのはすぐそこに来ている。すでに始まっているというのです。

「幸いだ。心の貧しい人は」というのですが、なぜさいわいなのか。常識的には「悲しむ人は不幸」です。

ルカは「貧しい人は幸いである」と述べています。「心の」がありません。

「心の貧しい人」とは神以外に頼るものがない最も貧しいひとという意味でしょうか。イエスは「そういう人こそが幸い」と述べているのです。

つまり、イエスのメッセージが常識的な価値観とは大きく変わっています。

それを受け入れるためには悔い改めが必要です。考え方生き方を根本的に変えて、はじめて福音が信じられるようになると述べています。

「神の国」の福音を学校のなかに

カトリック学校の使命はイエスの説いた神の国の福音を伝えることです。イエスのといた「神の国」が本物なんだということを告げ知らせ、悔い改めて福音を信じることがカトリック学校の使命なのです。言いかえれば学校が「神の国」となることといってもいいでしょう。

特に学校の組織の中で

1.学校法人の理事会こそが「神の国」の価値観を持っている

2.職員室もそういういう場に変えられていく

ことが求められます。神は最高の善、真理そのものなど、神についてさまざまな言い方ができるけれど、マタイの6章6節にはこんなことが言われています。

「祈るときはおくまったところにいってかくれて祈りなさい」

神はかくれた存在なのです。

出エジプト記の20章7節の「十戒」には「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。思えば人間の歴史のなかで神の名においていかに誤ったことをしてきたのか

9.11のあと、神の名前がいかに頻繁に使われていたかを思い出します。その時私はアメリカにいました。

隣の教会で実際にあったことです。「このベンチに座るのは神の聖旨(みむね)でしょうか」とある信徒が聞きました。それにある神父は「それは神の聖旨(みむね)ではない」と応えました。

「どうしてイエスはこういうことをおっしゃるのですか?」という信徒の問いに対して、ある司祭は「イエスは神さまですから」と応えました。

「神」の名はこんな風に使われるものでしょうか? 「十戒」が戒めていたのはこういう「神」の言葉の使い方ではなかったかと思われます。

イエズス会のモットーである「神の栄光のために」という言葉のもとは2世紀の教父イレニウスにさかのぼります。彼は「神の栄光」とは人間がイキイキと生きていることにあると言っています。

では、「人間」とはどのような存在なのか?

マルコ14章31節に「主の祈り」が紹介されています。

この祈りは「アッバ、父よ」という言葉で始まります。聖書のなかにはイエスの使われた言葉がそのまま残っているところがいくつかあります。

「主の祈り」の「私たちの父よ」の「父よ(アッバ)」はイエスの肉声が伝わる数少ない箇所です。

これは子どもがおとうさんに使う言葉です。

なぜお母さんではないのですか? 当時子どもは父親から生まれるとおもわれていた、父親のタネが母親の中に入ってそだっていくとそういう考え方でした。このわたしという人間は神から直接生まれた、だから親しく「アッバ」と言える存在なのです。

旧約聖書では別の表現をしています。創世記の1章27節には「神はご自分にかたどって人間を創造された」とあります。人間は神のイメージのかたどりなのです。

人間を見たら神が少しずつわかってくるのです。だから人間は person(人格)であり、その根本は自由である。自由な人格つまり自己決定する存在という考え方は聖書に基づいています。

みずみずしいいのち、感性、感受性、個性を持っています。理論でもなく法律でもなくひとりひとりがそういう決断を持っているということは、ひとりひとりそういう神のすばらしさを持っているということです。

神はひとりひとりを大切にしているというのは、この創世記の見方に基づいています。

その地平、奥底を究極的に支えている存在が神なのであり、それはかくれていてめだたない存在です。

隠された悪に注意すること

しかしながらこの「自由」はゆがめられています。それは人間ひとりひとりに悪の力が強くはたらいているということでしょう。人間のすばらしさを駄目にする悪が与えられているのです。

ルカ4章1〜12節には「悪魔がイエスを誘惑する」ところがあります。「さてイエスは聖霊に満ち………40日間悪魔から誘惑を受ける。」と書かれています。ここでイエスは「人はパンのみにて生きるにあらず」という有名な言葉を口にします。「あなたの神である主を試してはならない」とも述べています。

ここは、イエスが生涯活動をしていく中で受ける誘惑を一つの話に凝縮してあらわしているのではないかと思われます。だから「人はパンのみにて生きるにあらず」とのべ、「日ごとの糧を今日与えてください」と祈るのです。

富への誘惑、所有することへの欲求は、自分の存在そのものに喜べない何かを持たなければ気が済まない人間の姿そのものです。そして人の欲望を駆り立てようとする資本主義社会を支えています。

消費を高めていくのが経済の役割です。国々の支配と権力は、自分と他人との対立比較競争に打ち勝っていき、自分を優位におくことに支えられています。

ここには、つねに自分のあり方に満足していない、共生するのではなく上下関係支配関係の中に生きていく人間の悪が隠れています。人間が最後は神になる、絶対者になる、いろいろなところでそういう誘惑がおおきいのです。

明治は富国強兵から始まりました。富から始まり支配に生き、破滅に至る道を日本は歩んできました。

それは現代でもさまざまなところで起こりうることです。自分自身の中でもそういう動きがあります。

学校の中にもこういう動きが強く働く場所があります。職員室の価値観はどういうように形成されているのでしょうか。またクラスでもこういう動きがないか、注意深く見極めていく必要があります。

イエスが安息日に癒したこと

マルコ3章1節にはこういう話があります。

イエスは片手の萎えた人を治します。が、それは安息日でした。ファリザイ人は安息日の規定をもってイエスを非難します。

イエスは、彼らのかたくなな心を批判するのですが、その後どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めたと書かれています。

イエスが片手の萎えた人を真ん中に立たせた。それまでだったらそういう人は目立たぬように片隅にいました。ときにはそういう人を排除しようとすることもありましたが、それは悪の力によるものです。

ところが、ファリザイ人は、イエスがルールを破るのかどうかに関心があって、その人には触れることも見ることもしようとしません。ここにどういう力が働いているのか、ひとりひとりの心にもクラスの中にもアジアにも働く悪の力はおそらくみな同じ力です。それを見極めていくのが大切です。

子どもたちと接するときには、世の中にひそむ悪の力だけでなく、神はそれでもだれも見捨てることはないということもメッセージとして出す必要があります。いろいろとすばらしいことも隠れたところで、起こっている、そういうかくれた良さを見つけていく発見していく、その力を見極めることも大切です。生徒だけでなく、先生たちのかくれたすばらしさもしっかりと見極める、そういう力も必要です。

イエスの愛の掟

人間の生き方ははどういう生き方なのかということについて、マルコの12章28節にはこういう話が紹介されています。

律法学者と呼ばれるひとがイエスをためそうとして、わざと「どれが大事な掟か」と質問します。イエスは「心を尽くし精神を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」とまったく正しい答えを応えます。その律法学者は「先生おっしゃるとおりです。」とその答えに賛同します。

学校の中でも「愛が一番大切」「ひとりひとりを大切にする」とよく言われます。

イエスはこれを2つの掟として示しました。しかし律法学者は一つにまとめています。イエスの答えよりも律法学者の答えの方がまとをえているようにも思えます。

「神を愛する」ことと「人を愛する」ことは別々の2つのことではないでしょう。神は唯一であるということの「一」はこの存在にすべてをかける「唯一」でありように、私たちにとって 愛することは一つなのです。

「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と言われている「自分を愛する」とはどういうことでしょうか? 自分のありのままを受け入れることとよく言われます。

自分の全てを受け入れるのは難しいけれど、ここではそれよりも根本的な自分のあり方を受け入れていくこととして理解したらいいでしょう。

自分の親とか兄弟でも全てを受け入れるのはなかなかできません。親や兄弟は自分では選べないし、自分自身についても好きこのんでこういう自分になっているわけではないでしょう。

友だちは選べても、選べない親や兄弟や自分をどうやって受け入れていくのか、愛することの根本がここにあると言えるのではないかと思います。

自分自身の過去をうけいれることとか、自分自身と和解することとか言われます。

このことはすべての人に大切なことです。とくに教育者には必要なことでしょう。

親や兄弟や隣人を受け入れられないということは、自分自身を受け入れていけるかどうかにと深く関係しています。

キリスト教の瞑想の一つに「内観」というのがあります。教員として生きていくためにとても良い気づきを与えてくれる体験なのでおすすめしたいのですが、このプログラムは、親にしてもらったこと、してあげたことを振り返ることから始まります。

子どもたちが根本的に安心して生きているかどうかは成長の土台となることです。ところが今はこの土台が揺らいでいます。家庭も学校も安心していられる場でなくなりつつあります。ともにいるという感覚が希薄になり、人と人との絆が揺らいでいることのあらわれです。伝統的な地縁血縁というつながりがなくなり、人の関心が今この瞬間にしかなくなって、人との関係を充分につくることができなくなりつつあります。

地縁血縁による絆がなくなって、人間関係が自由で平等になっていきました。ひとりひとりが自分で築いていく時代になったのですが、さて人と人とのつながりをどのように築いていくのか、わからずに途方に暮れているのが現代人なのでしょう。

隣人となること

「自分と同じように隣人を大切にしなさい」の「隣人」とはなにか、それについてはルカ10章28節にあります。有名な「よきサマリア人のたとえ」です。

ここでも律法学者がイエスに質問をしますが、イエスは逆に「あなたはどう思うか」と律法学者に問い返します。律法学者が正しい答えをするとイエスは「それを実行しなさい」といいます。するとその律法学者は「私の隣人とは誰か」とまたイエスに聞きます。そこでイエスが示したたとえ話が「よきサマリア人」の話でした。

この話は宗教家批判から始まっています。司祭、レビ人はこの苦しんでいる人を見て見ぬ振りをして通り過ぎて行きます。しかしユダヤ人からは軽蔑されていたサマリア人が「 その人を見てあわれに思い」て助けます。「哀れに思う」というのはギリシャ語では「腸が動く」という意味です。それこそ「断腸の思い」で傷つき倒れた人のもとにかけよって抱き起こしたのでしょう。英語のコンパッション(compassion)は苦しみを共にするという意味ですが、このときの気持ちににていると思います。

仲良く楽しくやっている友達よりも、苦しんでいるひとをほっておけないでかけよって抱き起こすことで「隣人」となったこういう出会いで始まる関係をたいせつにするということなのでしょう。

学校のなかの関係、クラスでの関係、あるいは職員同士もこういう「隣人」の関係となっているのか

見直してほしいと思います。

それは、人と人との関わりの中で相手のニーズを把握することです。サマリア人は傷ついたひとを手当して宿屋に連れて行った、つまり傷ついたひとのニーズに応えたということです。それをお互いにやり合っているのか。それは自分が受けている素晴らしいものをやりとりすることでもあります。

「愛はコミュニケーションである」とイグナチオも言っています。そういうなかで愛が成立するのでしょう。

奉仕する人に成長することをめざすこと

イエスの行動について、マルコ福音書の中から病気のいやしを取ったら半分がなくなるともいわれているくらいイエスは病の人を癒します。

マルコ1章29節には「ペトロの姑を癒す」話があります。

この時代病気は悪霊から起こると思われていました。癒すというのはその悪霊を追い出すことでした。「いやす」というギリシャ語のことばがセラピーのもとになったそうです。それは治すというよりも奉仕する・看病する・世話するという意味の方がよいのではないかと思われます。貧しくて治療費を払えない人も、医療では治す見込みのないひともひとりひとりを大切にするということを意味します。

マザーテレサは路上で倒れている死にそうなひとを「 死を待つ人の家 」につれていって世話をしました。最後のひとときにでも大切にされたという思いをもってほしかったからです。

子どもたちもいろいろなところで悩みを持っています。学校が、ひとりひとりの悩みや弱さによりそうことによってひとりひとりを大切にしている共同体であるのか、そこが問題です。そして根本的に癒された人は奉仕する人に成長します。悩みをもった子どもたちが奉仕する人に成長することなのです。

先生と呼ばれてはならない

イエスは教師をどういうふうに見ていたのか、マタイ23章に興味ある話しがあります。「律法学者やファリサイ派の人たちは「先生」と呼ばれることを好むが、あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない、あなたがたの師は一人だけであって、あとは皆兄弟なのだ。………あなたがたのうちで一番えらいひとは仕えるものになりなさい。だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだるものは高められる。」イエスは律法学者やファリザイ人を徹底的に批判しました。

この批判はイエス後の教会にも根強く残りました。そして現代にも通じます。

安息日に癒したイエス

イエスは安息日に、手の萎えたひとを癒しました。(マタイ12章9節)安息日を聖とすべしという律法に反するとしてイエスのこの行為は批判されますが、「安息日に良い行為をすることはゆるされている」として反論します。規則は大切ですが、規則にとらわれてそれよりも大切なことを見失うというのは学校が陥りやすいことです。こういう意味も含めてひとが成長するためには規則が必要なのでしょう。

教師という使徒にもとめられるもの

私たちは、教師という使徒として使命を持ってカトリック学校という現場に派遣されています。

マルコ3章13節にはイエスが12人の使徒を選ぶ場面があります。そこでイエスが使徒たちに求めていることがえがかれています。

1.マルコ8章34節 自分を捨てて自分の十字架を背負って私に従いなさい

神の国の実現のために クラス、職員室、理事会 そういうところで実現していく

2.マタイ23章では「つかえるものになる もてなすものになる しもべになる 権威は仕えるためのもの」というところが強調されています。

3.マルコ10章13節「子どもを祝福する」子どものように神の国を受け入れる

このイエスの3つの教えは教師となるものの心がまえの根本となることでしょう。私たちのいうことがときに子どもたちの成長を妨げることもあります。また、子どもたちの初々しさ、みずみずしい感性など子どもに学ぶものも少なくありません。そういう生き方を私たちができるということはすばらしいことです。

祝福するというのは、よいことをいうことでもあり、ほめることでもあり、いきているすばらしさみずみずしさ、かくれた良さを見つけて褒めてあげる、私たちは そういうなかでめぐみをいただいてきました。その恵みを子どもたちと一緒に祝福したいものです。

各グループからの報告

グループ1

●子どもたちのかくれた良さを見つけていくこと

●自分たちが仕事に忙しくなっていくと同僚たちの関係が難しくなる」

●「わかちあ」話し合いも4回目となってお互いが思いを話すことができるようになってきたが、分かち合いで終わっていいのか、やはり目的をもってもう一歩話し合いを深めていくことが必要だと思う。

グループ2

●人間の苦しみをいうだけでなく一緒に背負っていく

十字架をともにわけあってせおう感じが大事だとおもった。

●仕えるものになりなさい いろいろな仕え方がある、子ども良さを見つけてあげる それでいいんだよというのを大事にする

●コミュニケーション 分かり合うために時間をかけて話し合う 怒りを含めて言い合うこともコミュニケーション むししない キャッチボール

●しあわせ 仕え合わせることが幸せ お互いに仕え合うこと 子どもとも関わり合って仕え合うことをだいじにする

グループ3

●職員室の価値観 どうしても現実成りながされがち いそういうときに意識をとりもどすことができたらいい。しきをとろもどす

●教師の使命として一番大事なものは共 大事西田意地に歩むということではないか。されている

カトリック学校でなくてもいいのではないか

●福音書の「8つの幸せ」について教えられたことに感謝

グループ4

●教員としての姿勢の見直しにつなげていきたい

●私にとっては難しすぎて、咀嚼しきれなかった

●教師は奉仕をするもの 自分を捨てて成長に生きるというところがわからなかった。滅私するところに愛を伝えることができるのだろうか? 自分を捨てて奉仕に生きることが愛を伝えることにできるのだろうか。おおきなギャップがあってそれを越えられないのではないか

●自分自身はどう生きていったらいいのか、正直な気持ち、わからなくなった。けれどそれでも教育に情熱を持っているのは救いかもしれない。

グループ5

●子どもたちのわるいところではなく、よいところを見つけるということ。同じ地平で

●校則のきびしい学校で、律法と校則の違いについて考えさせられました。

●受け入れると指導することについてもかんがえました。

●親だと自分の子を守るために他の子を責めるということがある。学校ではみんなが同じ地平で子どもを見られるのか、そこを突きつけられました。

●教師は自分そのもので勝負です。教師も生徒もみな自分の十字架を背負っています。 大きな宿題

グループ6

●「十字架を背負う」ということを聞いて心が重たくなりました。生徒の指導で、大変だった生徒が欠席だと安心する自分に気づいてショックでした。

●大変な十字架を背負っている生徒ばかりに目を取られて、問題のなかった生徒が相手にしてくれなくて淋しかったと言われました。全員に目を向ける、生徒ひとりひとりを大切にするというのは難しいです。

●価値観つまりここを大切にするということを生徒と一緒に追求していく心が大事です。

●生徒のかくれた良さを見つけるということをもっとやっていきたい。

梶山神父

●「自分を捨てる」ということは自分の中の所有を捨てていくということではないかと思います。

●「神の国」について信者のほうがよくわかっているのかどうか、考えさせられることが多いです。そうでない人のほうがそれぞれ神のすばらしさをもっとよくわかっている例もたくさんあります。

●生徒を指導しやすいから校則はできているという話を聞いたこともありますが、管理しやすい指導しやすいための校則が子どもの成長になっているかどうかはおおいに疑問です。

●職員室のありかた、カトリック教育の目ざしているものがなんなのかを見極めていく必要がある

●生徒に伝えたいことは、自分が受け手としてしっくり来るものが伝わるのでしょう。いくらいい話しでも自分がしっくりきていないと生徒には伝わらないでしょう。

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