第10回 教会における教育

梶山義夫神父(イエズス会)

教会は「教会」だけではない

今私の手元に「カトリック教会ハンドブック」という本があります。ここには日本にあるカトリック教会が全部載っています。

教会というと小教区の教会がすぐに思い起こされますが、本来の教会は小教区だけではありません。

修道会・宣教会も教会なのです。この建物は幼きイエス会という修道会のものですし、となりのイグナチオ教会の中にも修道院があります。

日本には男子の修道会が約50、女子の修道会は100をこえるものがあります。

そしてこのハンドブックには教育関係施設の幼稚園から小学校、大学までも掲載されています。

また医療社会福祉やいろいろな 諸活動、出版、図書館、墓地、庭園、黙想の家なども掲載されています。

これらぜんぶあわせて「教会」なのです。

だから、皆さんもカトリック学校で働いておられるから「教会」のメンバーということになります。

それぞれがそれぞれの形で教会と社会に奉仕していくという使命を担っているのです。

教会と学校の歴史

これから教会の歴史の中で「教育」がどういう形で展開してきたのかについて話そうと思います。

教会ははじめからキリスト教に入る入門のプロセスを重視していました。キリスト教について何も知らない人が次第にキリスト教の真髄に入っていくプロセスです。

教会に組織的に教育がはいるのは4〜5世紀以降です。おもに地域の教会の中心であるカテドラル(司教座聖堂)で行われていました。東京でいえば関口、横浜でいえば山手にある教会がカテドラルですね。

それぞれの教区に神学校がつくられ、聖書やラテン語などを学ぶ場となりました。これは主に聖職者になるための教育でした。こういうような学校がヨーロッパ各地にでき、13世紀になってこれらのいくつかが大学になります。universityの誕生です。ここで教えるライセンスを取ればユニバーサルにどこでも教えられるようになりました。パリ大学とかボローニャ大学とかはその代表です。

一般教育も寺小屋風にいろいろなところで行われていましたが、ルネッサンス以降にイタリアなどで初等教育中等教育ができるようになりました。これは経済発展と結びついています。

そこで教えられていたのはウマニタスhumanitasです。「人文学」と訳されます。主にラテン語、古典を学ぶことによって人間形成をすることをめざしました。

16世紀半ばイエズス会が学校を運営するようになりました。

最初は神学生の養成のためにつくられましたが、一般に開かれた学校は、最初にシチリアで開校されています。コレジオですね。驚くことに程なくして日本にやってきたイエズス会士によって日本にもコレジオやセミナリオがつくられます。ここでも神学生だけではなく一般の人びとの教育も行われました。

イエズス会は、カリキュラムや学則をつくりました。1599年の学則が残っています。クラス制度や就学年齢、試験、生活指導上のルールや退学停学についても書かれています。このような形でカトリック教会が宗教教育にも本腰を入れて取り組んでいます。

18〜19世紀になると、職業教育も始めるようになりました。修道会の設立した学校の多くはこの頃つくられています。

日本の教会と学校

さて、日本の教会の組織について少しお話ししましょう。

その司教たちの要、まとめになっているのはカトリック中央協議会です。

そこに各司教によるカトリック司教協議会がおかれています。司教団のもとに学校教育委員会 教会行政委員会、典礼委員会、社会司教委員会そのなかには正義と平和協議会、カリタスジャパン、難民移住協議会、子どもと女性の権利擁護のデスクもおかれています。

最近出ている学校関係の文書は学校教育委員会が作成したものです。

1997年中央協議会が学校教育に関して発行した文書があります。

その「まえがき」にカトリック学校としての自己点検評価基準が記されています。教区長からカトリック学校として認められるための基準が定められています。過去にはカトリック学校としての認可を取り消された学校もあります。

この基準の中に教区や小教区との相互協力という項目も入っています。

またカトリック学校としての存続と発展がキリスト教精神によって推進されると明言されています。

管理者のリーダーシップがキリスト教精神に基づき、その理念に基づいた全人教育をおこなおうとする積極的な意向を持っていることが求められています。

2000年以降も日本の司教団は、日の丸君が代問題や教科書検定の問題あるいは教育基本法改定にあたって声明を発しています。

「今カトリック学校教育に求められていること」という小さな本がドンボスコ社から出ていますので、お読みになることをオススメします。

最初には自己点検表、福音的共同体を築くために、使命を果たしていくためにというようなことが述べられています。

さまざまな側面を持ってお互いに協力しながら社会に奉仕していこうとしているわけです。

カトリック学校の全人教育

では、全人教育とは何かについて話を進めていきましょう。

これまで、全人教育は知育、徳育、体育とよばれていました。

人間とは何かということが、問われています。

よく人間は肉体と霊魂からなると考えられていました。これは根本的に聖書の考え方ではなく、たとえばプラトンの考え方などギリシャ的な考えに基づいています。

聖書には「たましい、からだ、心」という言葉が使われますが、それは人間全体を一つのものとしてとらえ、その側面を表現しているにすぎません。

人間は、100%肉体であり100%霊魂です。2つの要素で成り立っているのではないのです。

基本にあるものとしての身体性、これは体を持っていることです。

その身体性を土台として、人間には5つの側面があります。

情緒的側面 喜び、悲しみなど感情的な側面です。

社会性、人の話を聞く、人と交わる 育てられるのです。

知性 理解するということ、理性です。

倫理的側面 意志、善悪を判断する、行う、反省する

最後は愛、希望、自分を委ねる、信頼するという側面、信じるという側面です。

これらすべてが人間の重要な要素であり、全人教育はそのすべてに関わる教育です。

それぞれの側面には、それぞれ目的があります。

知るというのは真理を目ざしている、本当のことを知る。ただ知識を得るだけではなく疑問を持ちそれに応えながら考えていく

情緒的な側面であるならば、自己肯定、他者の存在を認め喜ぶ、安心するなどです。あえて一つの言葉にするならば「よろこび」でしょうか。他人の不幸、人の死を前にして悲しむというのもこれに含まれるでしょう。

社会性は人間関係について、ともだちをつくることから始まります。その最終的な目的は、正義と平和といえるでしょう。

倫理的側面が目指すものは、基本的に善を目ざしているといえます。

愛・希望・信頼の目的は、人生の目的全体に関わってきます。結婚、職業選択、生き方の選択、祈りなどはその側面です。

こういうものすべての側面に関係するのが、全人教育なのです。

この全体を支えている、これらの5つの側面の目的の奥にあるのが、「超越的存在」としての「神」なのです。

人は5つの側面の目的に向かって成長してゆくならば、人びとへの奉仕、神への奉仕に向かって成長していくのです。

マルコの1章15節にあるイエスの最初の言葉は、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というものでありました。

こういう5つの側面の目的に向かっている人は、イキイキとしていて幸いであり、「神の国」に入っていくのです。

人間存在がよろこび、正義、真理、善、愛、希望へとむかっている状態を「神の国」とよびます。そこで生きるひとはイキイキしている「幸いな存在」なのです。

教会はこのような国を目ざしていますし、カトリック学校の使命もこのような神の国の建設なのです。

教会は社会に奉仕する存在であるとしたら、カトリック学校も同じように社会に奉仕する存在なのです。

教育としての回心

ところで、「悔い改めて福音を信じる」とはどういうことでしょうか?

「悔い改め」とはギリシャ語でメタノイアです。これは人間の根本的なあり方の方向性を根本から変えていくということです。英語ではコンバージョン、日本語では「回心」、人間存在の全体をまわしていくことです。悪の力が様々な形で働いています。

そのため真理、正義、善、愛、希望へと向かっていかない状況、人間存在の目的へと向かっていかない状況、それが「罪」です。「罪」とは的からそれているということ、ふさわしい方向性にむかっていかない状態です。

人間は「罪」に傾きやすい存在です。教育とは回心していく、方向性を変えていくことを目指します。

生徒達だけでなく、わたしたち教職員も一生かけて回心していかなければなりません。生徒も教師もひとりひとりが神の子であるということを考えると、回心の道を歩んでいくという面では、基本的に同じ地平に立っているのです。

たとえば、それぞれが教科を教えるとき、立場も経験も違いますが、お互いに真理を目ざしているという点では同じなのです。つまり教師は真理の所有者ではなくお互いに真理を目ざしていく存在でしょう。

職員室の中でもそれが行われていかなければならないでしょう。司祭や修道者、信者、あるいは信者でない人、それぞれの役割や立場が異なっていても、目指すべき方向性は同じなのです。

これは宗教教育においてもいえることです。だれかが中心になってそれに協力しているのではなく、お互いに同じ地平に立って考えて分かり合っていくことなのです。

先生方が、学校で一番時間をかけ、一番力を注いでいるのは教科指導だと思います。無知偏見誤解から子どもたちを解放していくことは重要です。まず教科指導ができないと教師にはなれないでしょう。

すべては神によって創造されたものである、そしてその創造は今でも続いている、それを知ることはすばらしいことなのです。それを知っていく、人類の遺産のすばらしさを学ぶ、そこに貢献していくことは教会への奉仕になり、神への奉仕になります。

学校にはしなければならないことがたくさんあります。校則はそのために大事です。人間は弱い存在であり、自分の弱さを乗り越えてやっていく姿は重要な指導です。好き嫌いや快不快から解放されてやるべきことをやっていくことでもあります。

担任の指導は情緒的側面からいっても重大です。さまざまな気持ちで入学する生徒たちに、「ここがあなたがたの居場所である」と伝えます。生徒たちにはいろいろなできごとがあります。家族の崩壊に直面している生徒もいるでしょう。そういう生徒にここが居場所だといえるのは大事です。

私が担任をしていたとき、高校3年生にも「誕生日おめでとう」と祝いました。高校生でも「その子の存在を喜ぶ」ことは必要なのです。自分自身を肯定的にうけいれ。他人を設け入れ肯定していくていことは人間存在のよろこびにむかうことです。

クラブ活動、学校行事も重要です。試合で勝った時のよろこび、負けた時の悔しさを共有することから、生徒を孤立から協力へと成長させます。文化祭体育祭でリーダーシップを発揮したり、心を一つにして協力するというのは全人教育の大事な側面です。

カウンセリングについて、カトリック学校は長い伝統を持っています。教会には「ゆるしの秘跡」がありました。むかしは懺悔とか告白とかいわれていました。そこに行くということであれば、授業中も出ていっていいという制度もあった学校もあるくらいです。カウンセリングに行くには授業中でもいっていいということの起源はこういうところにあるのかもしれません。

進路指導では、指導するものの人生の目的や価値観が問われます。悪の力は富、財産、金儲けをとおして働くとキリスト教は教えます。子どもが本当にしたいことはなにかという点に立ち戻って進路指導をしていくことはカトリック学校の特徴なのです。

宗教教育も全人教育の一環です。人間には人生の目的にむかう力、全体を支える存在にむかう心は誰もがが持っています。それが祈りなのですね。祈りのなかで重要なのは「沈黙」だと思います。モンテッソーリの教育の中では黙々と沈黙の作業をしています。祈りというと神に向かって願いをいうということを思い浮かべるかもしれませんが、まず大事なのは沈黙なのです。

聖書の中で神が祈りを聞くというのはどういう祈りかが、出エジプト記にあります。奴隷状態にある人びとの叫びを聞くという場面があります。苦しむときに祈ることができることの重要さ、叫びを上げる相手がいるということです。つまり、苦しんでいる人の叫びを聞くことや、痛みを共にすることが祈る前提になります。

このあたりのことなしに、祈りを唱えるならば本当の祈りになっているのかどうかを反省する必要があります。

伝統を受け継ぐ創造へ

多くのカトリック学校は外国から修道会がやってきてつくられました。自分たちがかつて向こうの学校でやってきたことをそのまま持ち込んでやっているところがないわけでもないのです。

前に、森司教が教会の歴史を8つのステップで話されました。その第7ステップに、信仰と生活の遊離の状態というのがありました。信仰と生活が遊離していないかどうかは反省のポイントです。

ミサの中に生徒の生活が入っているかどうか、いつも共同祈願は世界の平和だけではないか、聖歌も生活に関係している祈りになっているかどうか、ロザリオをみんなで唱えることはほんとうに必要なのか、が問われなければなりません。

ロザリオとか聖母マリアへの崇敬とかの信心というのは時代によって変わっていくものです。ミサは本来信仰者の集まりです。古代の教会でミサに信仰を持たない人は入れませんでした。

現在でもカトリック国でも希望者だけのミサがおこなわれています学校があります。自由参加にして生徒が来なければ、本当にミサの素晴らしさが伝わっていないのです。

全校ミサがいいものなのかどうか、真摯な問いかけから始まって根本的なところでのコンセンサスがあるかどうかを確認する必要があります。伝統だからというだけでいいのでしょうか。

伝統traditionというのはトレードされていくもの、受け継がれていくものです。伝統がいい方向で変容していくのは創造です。そういう意味では現代は新たな創造ができるチャンスなのです。

でもそれは根本的な問いかけからはじめていってほしいとおもいます。ある学校では司祭修道者たちが減少する中で。カトリック色を逆に強めていこうとするうごきがありますが、そういう方向への疑問も感じています。

職員室全体が全人教育の場なのでしょうか? 「神の国」的なところとなっているのでしょうか?

信仰をもっていようといまいと、善意の人びと、こういう方向に向かっていこうとする人びとと共に働くことは現在の学校の使命です。それには学校自体の回心が必要です。職員室全体の方向性が問われています。学校の雰囲気がこちらに向かっているのか「世の光」になれたらすばらしいことだと思います。

若者の教育は世界の変革につながります。世界を変えていく、神の国に向けて建設していくためのカトリック学校の使命を生きていきたいと思います。

カトリック学校の3つの特徴

最後にカトリック学校のいくつかの特徴について述べて終わりましょう。

第1に「存在しているすべてのものが素晴らしいもの」であるとして、人間ひとりひとりが目的をもった存在であり、だからひとりひとりを大切にすることです。

第2に、悪の力のために個人・社会・文化の自由が束縛されてる現代において、それを解放していくことを目指しています。授業はもとより、学級活動クラブ活動など全体で本当の自由にむけていく、全体的には他の人に奉仕する、とくに助けを必要としている人びとに目を向けていく、グローバルに考えて現場で行うことができるということです。

第3に希望を培っていくことです。学校教育は人生全体の中で希望を養っていく、そのなかの基礎作りです。たとえば卒業して10年後にどんな子どもに成長してほしいかということを考えていく。

「卒業時のプロファイル」をもっているところもあるでしょう。これについてはまた紹介できたらいいと思います。

今日は「悔い改め」とか「成長」「全人教育」ということをキーワードにして話しをしてきました。

これで終わります。


グループでの分かち合いの報告

1グループ ミサについて話し合いました。

●全員出席でなければ、いったい何人参加するのか心配。

●小学生からそういった環境の中でカトリック的なものに触れていくのと、いつ出会うかという違いも大きい。

●みんなからいろいろと悩みながらミサをしているかを伺った。宗教部で準備したものをみんなで考えたい。

●創造的な広い意味で幸せにどういう意味があるのか、ミサという形にこだわる必要がない

● 自然に浸透していく 広い視野に立って考えていこう 中高生 おとなになってから困難に出会っていく時に生かされていくもの

2グループ

●ミサや祈りを子どもたちがどうとらえているのか 小学生は素直に受けているけれど、中高では難しくなっていく 自分とむあきあうことなのです。

●なぜ祈りやミサが必要かということを考えさせている

● カトリック的な生き方を体現している人が学校にいるかどうかは大切です。

3グループ

●具体的で分かりやすかった 神の国や全人教育

●祈り 学校で祈っていることと生活に乖離があるということを聴いてはっとしました。

●互いにコンセンサスが必要

●祈りをすること 祈りがあることの効用 友達のために 近所の困っている隣人のための祈り

●形式的になっているところもありますが、他者のために祈ることができ折るのはカトリック学校の強み

●大きな存在の前に謙虚になる 生徒の祈りの中に生かしていく

●沈黙についての取り組み 授業の初めの沈黙から授業を始める学校

● 音楽と共に沈黙で入る 沈黙、落ち着く

4グループ

●全人教育、全校ミサ、日の丸君が代などについての感想がでました。

●全人教育ではでこぼこがある それが特徴になるかも

●伝統と形骸化 全校ミサの意味 ミサだけ取り上げることの意味を問いかけることの重要さ

●神の国 職員室がまずそうならなければならない、根本的な問いかけをし続ける、職場の中でのコンセンサスが課題というところに同感です。

●問題を感じつつ一致点がかんじられないのですが、一つになっていないことを感じているのはどこも同じで、そこをどう作っていくのかが課題

● 第8のステップ 職場の中でのベースのコンセンサスが必要

5グループ

●共感できたことは、カトリック校らしさとは? 教科指導の大切さ

●さぼっていたという感じが前の学校ではしていた。今はそういう感じがない。

●らしさ 体で分かっていたものが、違うかもしれないというふうに思った

●全人教育は教育全体の課題 カトリックらしい全人教育とは

● 普遍的なものがカトリック。でもオリジナリティは大事。そこが私学としての難しさで、まだ考えの整理ができていない。

6グループ

●ミサについて 超越的なものを感じる 祈ることの大切さを知ったことが社会に出た時に羅針盤になっている

●教科指導の中での宗教教育 生徒と関わっている生徒の居場所 友達と一緒に考えていこう 生徒との関わり合いのなかで生徒が目的にむかっていく 通信課程を担当しているが、頻繁に集まって情報交換して全員で共通理解をする場をもっていることあぐれしい。

●全人教育

●職員の共通理解

梶山神父のコメント

ミサのことについてひとこと。少なくとも雰囲気がいいからという問題ではないし、自然に受け入れていくものでもない。洗礼も自然に受け入れていけるものなのかを考えてみればいい。ミサについては、根本的なものが受け入れられていないし、受け入れるべきものなのかということも考える必要があると思う。

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