第15回 学習・教科の位置づけ

学習・教科の位置づけ

—B.ロナガンの「自己同化の哲学」を参考に—

瀬本正之(イエズス会/上智大学神学部)

1.人間の教「育」、教科の「教」育、「学習」支援
2.本能と学習そして学究(学問研究)
3.志向的意識(intentional consciousness)とその3水準: What is it? / Is it so? / Is it worthwhile?
4.知の地平(known unknown からknown known へ)
5.経験のパターン(patterns of experience):biological(生物的)、aesthetic(美的)、intellectual(知的)、dramatic(劇的)
6.合理的意識の自己同化(self-appropriation of one’s own rational consciousness)
7.内的要求(exigences)、意識の分化(differentiations of consciousness)、意味領野(realms of meaning)
8.自己超越(self-transcendence):認識的(cognitive)、実践的(practical)、宗教的(religious)
9.回心(conversion):宗教的(religious)、道徳的(moral)、知的(intellectual)、情緒的(affective)、心象的(psychic)
10.超越論的命法(transcendental precepts):Be attentive, be intelligent, be reasonable, be responsible, and be in love!

◆はじめに

大学教員である私には、小中高の教科についてコメントする権威も資格もありませんが、日頃担当なさっておられる教科を先生方ご自身で位置付けし直す助けにでもなれば、と思いながら、本日は、バーナード・ロナガンの「自己同化の哲学(philosophy of self-appropriation)」を紹介させていただきます。

尚、ロナガン関連の用語にはまだ定訳がなく、ここでの訳語は私訳であることを申し添えます。

1.人間の教「育」、教科の「教」育、「学習」支援

人間を教育するという使命を託されている皆さんの主な仕事は、教科を「教える」ことだ、と一般に考えられているようです。教育という漢字は「教える」と「育てる」という二つの漢字を含んでいます。皆さんが今なさっている教育ではどちらに重点が置かれているでしょうか? 「教える」方に重きが置かれる教科が多いかも知れません。「美術」や「体育」、はたまた「宗教」はどうでしょうか。教育は学習支援だ、と言われることからすると、「教える」ことは、学習者本人が学んでいくのを援けるための奉仕ということになります。

他方、教育には、知「育」・体「育」・徳「育」という慣用句にも見られるように、「育てる」ことも含まれている、と私たちは知っています。そこには、そもそも教育は、本来、全人的なもの、人間存在のあらゆる面(知・情・意)を包み込むものでなければならない、という確信があります。「教える」ことにのみ囚われると、全人教育が危うくなる、と言われる所以です。

2.本能と学習そして学究(学問研究)

ところで、先生方は、子どもたちに、「人間は動物とどこが違うの?」と考えさせることがどれぐらいありますか? 大学生たちにこの質問をすると、「人間は理性で動くが、動物は本能で動く。」というような答えを投げ返してくれる人がいます。その学生に「本能の反対語は何? 理性?」と聞くと、答えにつまります。心理学的に言うと、「本能」の反対語は「学習」となるのでしょうか、“学習しなくても生きていける力能”を指して「本能」という言葉が使われているようです。
学習するのは、人間だけではありません。確かに、人間は、人間以外の動物よりも、非常に広い分野にわたる至極複雑な身の処し方を学習します。しかし、「学習」という言葉だけで、人間と他の動物の違いを明確に捉えることはできません。「学習」の仕方が違う、人間固有の「学び」方がある、という点が要でしょう。人間以外の或る動物がどんなに賢くても、「問いを発する」ことを期待するわけにはいきません。人間は「問う」ことのできる存在です。私たち人間が次から次へと「問いを発する」、その積み重ねが学究(学問研究)の世界を作り上げてきました。

3.志向的意識(intentional consciousness)とその3水準

ところで、「問いを発する」には、レベルの異なる3つの意識水準がある、とロナガンは言っています。

① What is it? (それは何か? ものごとの「本質」について問う。「(経験について)理解する」レベル)
② Is it true or so? (本当にそうなのか? 或るものについて得た理解が正しいかどうかを問い質す。この問い(②)は、前の問い(①)とそれへの答えを前提としている。「(理解の正しさについて)判断する」レベル)
③ Is it worthwhile? (それはかかずらうに値するか? 関与するか否かを決めるために時間を割いて熟慮すべきことか? 「(価値の有無についての判断を下し、それへの関与について)決心する」レベル)

先生方は、生徒たちに「答え(方)」を「教える」だけでなく、生徒たちの「問い」を「育てる」ことに努めておられるでしょうが、どの意識水準に属する「問い」に力を入れておられますか? 理解力、判断力、決断力のうち、主にどの力を涵養しようとなさっておられますか? 無論、教科の違いや、学習の場の違いによって、強調点は異なるでしょう。
因みに、ここで、確認しておきたいことは、理解力、判断力、決断力を構成する各意識水準が“「問い」から「答え」に向かう一連の意識的行為”から成っている、約めて言うと、「知性の働き」あるいは「知的な営み」である、という事実です。他方、第三の水準は「価値への応答」に係わっており、「存在の肯定」に係わる第一および第二の水準とは質的に異なる面がある、ということも無視できません。

4.知の地平(known unknown から known known へ)

学習を支援することは、学習者自身が自分で知識を獲得するのを助けることに他ならず、私が知っていることを暗記させることに尽きるわけではありません。知らなかったことを知る、知られていなかった(unknown)ことが知られる(known)、それこそが、知の生成、知識の獲得です。

まず、“unknown unknown”すなわち「知られていないことが知られていないもの」を考えてみてください。お分かりのように、知らないことすら知らないのですから、それについては「答え」どころか「問い」すら生じません。無理、「問い」がないから何も存在しない、とは必ずしも言えませんが...。

次は、“known unknown”すなわち「知られていないことが知られているもの」です。お察しの通り、「問い」は、それについてこそ、発せられるのです。知らないと知って知りたくなるのが人間です。そして、“known known”すなわち「知られていることが知られているもの」です。つまり、それについてはすでに「答え」を得たもののことです。「答え」を得て、はじめて、私たち人間の「知るプロセス」は一件落着します。すなわち、知的志向性(intellectual intentionality)がその目標に達し、知的欲求(desire to know)が満たされて一息つくわけです。

上記の“known unknown”と“known known”との狭間、「(知識を求める)問い」が立ち現れる場、それが「知の地平(horizon of knowledge)」です。一つの知識を獲得する旅、知の生成は、そこに始まります。こうして、知識を増やすことは「知の地平」の拡張を意味することになります。

ところで、“known known”すなわち「知の地平」の内部において、わかった度合いの区別ができるようになる局面は特に大切です。或る知識(理解可能性)をその正しさを証しする根拠(潜勢的無条件)とともに獲得したとき、私たちは「よくわかった!」と言います。先生だから何でも知っている(はず)、と思われがちの私たちですが、生徒たちから信頼される先生というのは、自分がわかっていないのはどこからか、をよくわかっている教員ではないでしょうか。

「知らないと知った(“known unknown”)」ところから「問い」が発せられます。それが、「知ったと知った(“known known”)」と言えるまで「答え」を求め続ける過程の起点だとすると、その終点は「根拠を伴った知識」あるいは「正しいと確かめられた理解」となるでしょう。このことは、私たちが或る「閃き」を得たとき、その鮮やかさ(brightness)に惑わされずに、飽くまでその正しさ(rightness)を確認しようと、尚もその根拠を得ようとする人間知性本来の動きに、如実に現れています。まさに、とも言われる所以です。

5.経験のパターン(patterns of experience)

私たち人間の経験(experience)には4つのパターンがある、とロナガンは言います。

第一は「生物的(biological)パターン」です。たとえば、満腹していて何も刺激がない、満たされていて関心を引くものがなければ、寝入ってしまう。それが、動物の一種としての人間の「経験のパターン」というわけです。

第二は「美的(aesthetic)パターン」です。たとえば、夕焼けの景色に見取れ、小鳥の声に聞き惚れ、芸術作品に見入ってしまう。そのような安堵や囚われなさを伴う放下のときは、まさに、美に魅了され美の秩序に鋳られた「経験のパターン」と言えるでしょう。

第三は「知的(intellectual)パターン」です。これを、何とか、否、何としても強化しようと格闘し続けているのが教員であり、教育機関である、と言えるかも知れません。「問い」を発し、「答え」を求め、得た「答え」が本当かどうかを確かめる知性の訓練。ときには困難な知的集中を要する探求のプロセスを、生徒たちがなるだけ容易に我がものとすることができるよう、宿題に工夫を凝らす。多くの教員は使命感をもってそのようなことに日夜勤しんでいます。「パターン」を身につけさせたいのですから、勉強の時間を「日課」に織り込ませ、勉強の「習慣」をつけさせることの大切さは計り知れません。その中心には、「閃き」の体験、「閃く喜び」の体験、そして、「閃きを追求する態勢を獲得した知的志向性の確かさ」の体験があります。実に、生徒たちの知的興味を惹く授業は、こうした体験に満ちた「学び舎」であるに違いありません。

第四は「劇的(dramatic)パターン」です。実生活は劇的な経験の連続です。過激の激ではなく、歌劇や悲劇の劇です。どんどん次の幕が開き、新しい場が展開します。幕間や場間は短く、即座に事を決しないといけないことも少なくありません。閉じてほしくない幕が閉じ、開いてほしくない幕が開き、その場その場で、対応が迫られます。人生は実にドラマチックです。衒学的な理論やその場凌ぎの小賢しさでは御しがたいリアリティがそこにはあります。私などは、そのような自分の人生を何とか遣っていけている、と気付いて、それはそれで大したことではないか、と感心することもしばしばです。しかも、「常識(common sense)」と呼ばれる実践知を積み上げながら施されている実に巧みな対処が、一人ひとりの人生には、満載されています。

さて、ここで振り返ってみてください。ご自分の教科で生徒たちにどのような「経験のパターン」を培わせているのだろうか、と。複数のパターンを提供している場合も十分考えられますが、「知的パターン」を構成的に含んでいない教科教育は、おそらく、ないでしょう。

6.合理的意識の自己同化(self-appropriation of one’s own rational consciousness)

現にそうである自分、いつもすでに経験している自分という営み(performance)を理解し、肯定し、受諾する内的な和解と統合、なかでも、その基底を成す「理に適うことを求める自分の意識(one’s own rational consciousness)」を「我がものとし直す(self-appropriation)」ことの重要性は計り知れません。自分以外のものには求めてやまない合理性を自分という営みについては追求しない、否、追求する必要すらないと思い込んでいるところから、私たち人間の「営み(performance)とその表現(expression)のズレ」が生じます。そのような自分についての思い込みを見直す作業としての「合理的意識の自己同化」が、哲学をはじめとするあらゆる理性的営為の基本中の基本である、とロナガンは諭してくれます。

7.内的要求(exigences)、意識の分化(differentiations of consciousness)、意味領野(realms of meaning)

教育的奉仕は、学習者自身の中に息づいている「内的要求」と呼応していなければなりません。それによって、学習者自身の意味世界を豊かなものし、学習者の志向的意識を分化させ、全人的な成長を促すことになるでしょう。

ところで、意識を表現する言葉というものは、その人の住んでいる意味世界の豊かさを示すものです。そう考えると、言葉を大事にする習慣をつけさせなくてはなりませんね。たとえば、「僕は、切ない。」と言う小学生1年生がいるとしたら、「切ない」という語を別の意味で使っているか、あるいは、あり得ないほどおませか、どちらかでしょうね。「切ない」という感情をそれと認知して表現できるようになるのは、小学生低学年をずっと過ぎてからでしょうし、反対に、「切ない」気持ちがわからない大学生がいたら、それはそれで困ったものです。

このような分化は状態的意識あるいは意識内容の分化ですが、ロナガンの言う分化は志向的意識、つまり、何かに向けられた意識そのものの分化です。自己の内面への気付きと眼差しがなければ、「悲しい」「さみしい」とは言えても「切ない」とは言えないように、志向的意識の分化を内側から可能にする推進力、中から衝き動かす‘内的必然性’を、ロナガンは「内的要求(exigences)」と言っています。

まず、「組織的(systematic)な内的要求」。断片的な知識をそのままで放置しておけなくなり、纏めたい、系統立てたい、体系化したい、という衝迫です。

次に、「批判的(critical)な内的要求」。根拠を見出して、確かなものに到達したいという衝迫です。因みに、批判的というのは「本当ですか?」という問いを経るのを事とするということです。大学生にはこれをしっかり育ててほしいものです。

そして、「方法的(methodical)な内的要求」。いわゆるハウ・ツーものと違って、そもそも本物を知ったと言える基準やものさしを窮める道を辿りたいという衝迫です。

最後に、「超越的(transcendent)な内的要求」。あらゆることについてあらゆる観点から知ること(to know everything about everything)、究極的存在や究極的価値との出会い、全き無制約性への到達を求める衝迫です。

ご担当の教科や授業は、生徒たちの中のどの「内的要求」に触れるものでしょうか。学習者の内側から突き上げてくるこれら衝迫(exigences)に動かされ導かれて、「意味領野(realms of meaning)」が開かれ拡充し、それら領野の組み合わせが「意識の分化(differentiations of consciousness)」の豊かさとなって、知的存在たる人間が成長していく、というのがロナガンを学びつつある私が抱いている教育的奉仕の基本イメージです。

ロナガンは、上記の「意味領野」として、「常識(common sense)」「学識(scholarship)」「理論(theory)」「内面性(interiority)」そして「超越(transcendence)」の5つを挙げていますが、詳しいことは別の機会にいたしましょう。ただ、先ほど述べた4つの「内的要求」が「常識」以外の4つの「意味領野」と深く関係していることは申し述べておかねばなりません。

因みに、「宗教」科は、概ね、「超越的な内的要求」に触れつつ「超越」領野でのコミュニケーションを試みることになるでしょうが、他の意味領野でのコミュニケーションも大切です。そもそも真の宗教は、人間のあらゆる内的要求を満たすものであり、それゆえ、すべての意味領野での実りあるコミュニケーションが原理上可能だ、ということを生徒たちに体験させたいものです。それにしても、「超越」領野でのコミュニケーションを育て深める独特の語り(たとえば、イエスの喩え話)の存在を忘れるわけにはいきません。それらは、組織的、批判的な内的要求に耐え、方法的な内的要求を活性化しつつ、超越的な内的要求を満たすコミュニケーションの場を開いてくれます。

少し小難しくなりましたね。ごめんなさい。とにかく、生徒たち自身が多くの「意味領野」を獲得し発展させていけるよう、手助けすることです。そのためには、教育する側にいる私たちにも、豊かな「志向的意識の分化」が期待されるということでしょうか。

8.自己超越(self-transcendence)

さて、確かにわかった、ということは、わかった内容が私の主観に依存していない、ということを同時にわかることでもあります。私が認めようと認めまいと、それは真理だ、ということです。私が認めるから真理だ、ということではなく、それが真理だから私はそれを認める、認めざるを得ないとわかった、ということです。これは、「自己超越(self-transcendence)」の一つで、「認識的(cognitive)自己超越」と言われます。

すでに「意識水準の異なる3つの問い」についてお話しましたが、第三の(価値に係わる)問い(“Is it worthwhile?”)への答えが出されたとき、すなわち、決心や決断がなされたときも、そこに「自己超越」があり、「実践的(practical)自己超越」と呼ばれます。自ら下した価値判断によって動機付けられ、何らかの実践(内的あるいは外的な行為)へと自分を越え出ていくからです。

また「宗教的(religious)自己超越」もあります。それは、制約なきものとの出会いの出来事、無制約者の訪れに自己を明け渡す行為、無制約性に満たされる体験とでも言いましょうか。「さいわい、ありがたさ、かたじけなさ」を痛感するとき、人間存在の、受動と能動が一つになっている深みで「ささげ、ゆだね、まかせ」を呼吸する安息のときです。

9.回心(conversion)

これらの「自己超越」が常態化(態勢として定着)すると、「回心(conversion)」と言われます。一つひとつの自己超越という新しい出来事や行為が積み重なり結晶化して、(真偽や善悪や生死に関する)新しい秤や物差しが形成され、新しい生き方が始まります。

「宗教的(religious)回心」は、イエスを救い主として告白する信仰生活、でしか表現され得ないわけではありません。たえず神に祈る生活、生かされていることに感謝して送る真心の日々、見返りを求めない愛を根本に据えたかかわりも、この回心の実と言えるでしょう。このように無制約的なものを追求することが「習い性」となった生き方の中に、「生きている実感の基準」あるいは「幸福の基準」の変容が示されています。

「道徳的(moral)回心」を遂げた人は、自分の好き嫌いに振り回されて動き回るのではなく、ものごとの価値を自覚的に判断することを通して、善悪を区別し、自分の態度や言動を決定します。そこには、「善悪の基準」の変容があり、それは、誠実な価値判断を事とする生き方となって顕れます。

「知的(intellectual)回心」は、「知ること」とは何かを正しく理解し肯定することから来る「真偽の基準」あるいは「客観性の基準」の変容と言えます。認識論上の述語を使えば、素朴実在論(na_ve realism)を超え、さらに観念論(idealism)をも超えて到達した批判的実在論(critical realism)の立脚点(positions)のことです。この回心を遂げた人は、「知性は知性自らを知解する(Intellectus intellectum intelligit.)」という言葉の意味がよくわかることでしょう。

以上のような「回心」はどれも独りでは得難く維持し難いものでしょう。確かな幸福、本物の価値、揺るがない真理を体現する伝統や共同体や先達との生き生きした交わりが必要だ、と思われるからです。とすれば、私たち教員には、そのような伝統や共同体や先達の端くれになる使命があることになります。

また、「回心」を一時の体験として放置しておくと、その醍醐味は味わえません。「自己超越」の反復による「回心」の持続的発展が何より肝要です。すでに申しましたが、教育が「育てる」とか「育む」とかいう意味を含むならば、「徳を修める」「習慣を形成する」「習い性となる」などを抜きにして教育を語れなくなるわけです。

考えてみますと、人間や社会の多くの問題は、まさに、習慣の問題であることに気付きます。突発的・例外的に発生し対処の可能性すらない問題よりも、対処する習慣を身につけていないところから生じてくる問題の方がはるかに多いのではないでしょうか。ところが、最近、しかも教育の場でさえ、習慣がほとんど話題にされなくなったように思えます。「善いことをほぼ自然にする習慣」を形成し定着させることは価値高い教育だと思うのですが、如何でしょう。勉強についても同様で、適切な訓練を与えることによって、勉強の習慣がつき、知的な徳が形成されていきます。

ものをふさわしく問うことから始めて、何らかの答えをつかみ、それが正しいかどうかを確かめて判断を下し、誰が何と言おうとこれは正しい、と言えるものを獲得する。このような一連のプロセスを辿ることを「習い性」とすることは、真理は私の主観には依存しない、という知的な謙遜と、自分は真理をつかみ得る認識主体である、という知的な自信を併せて培うことにもなります。

加えて、カトリック学校は勿論のこと、あらゆる教育現場で大切にされるべきもう一つの「回心」について触れさせてください。それは、「情緒的(affective)回心」と呼ばれるものです。やる気のない状態から情熱を傾けて取り組む姿勢への変容が必要な生徒たちがいる、と私たちは知っています。実際、情緒が落ち着いていないと勉強どころではありません。勉強と同時に、否、勉強以前に取り組まなければならない課題が、そこには、あります。その課題の根本、それが、愛し愛される恐れから愛し愛される喜びへの解放、すなわち、「情緒的回心」です。この回心は、一方で、先述の「宗教的回心」とも、他方で、ロナガンの弟子ロバート・ドーランの言う「心象的(psychic)回心」とも、興味深い関連性を有していますが、後半はまたの機会に譲ります。

私たち教育者は、生徒たちの魂を巣食う「愛されることに対する恐れ」にきちんと対峙しなければなりません。それは、「愛することに対する恐れ」よりも根源的な気がしますが、如何でしょう。愛し愛されること、なかでも愛されることは、その本性上、傷付けられる可能性(vulnerability)を含意しています。愛されたかったが適切な愛に出会えず何度も傷付いてしまい、もう愛そのものを期待しなくなる、という悲劇が稀でないことを、私たちは知っています。その子どもたちに、無制約の愛と限りないゆるしがある、だから、大丈夫だ、というメッセージを、特にキリスト教関係の学校は、伝える(その在り処を「示し」、それを待ち望む心を「育む」)使命を帯びているのではないでしょうか。

10.超越論的命法(transcendental precepts)

知性を恵まれた自由な存在である人間が、如上の「回心」をメルクマールとする人格的な全面開花に向けて歩むべき根本的な道筋(method)を、ロナガンは、5つの簡明な命令文に約め、「超越論的命法(transcendental precepts)」と称しています。

第一が“Be attentive!”で「知的志向性を働かせ、経験に注意を向けよ。」

第二が“Be intelligent!”で「知性的意識を働かせ、経験から理解可能性を把握せよ。」

第三が“Be reasonable!”で「理性的意識を働かせ、得た理解の正しさについて納得するまで矛盾のない一貫性のある仕方で確かめよ。」

第四が“Be responsible!”で「実存的意識(道徳性)を働かせ、現実世界の要求に自覚ある実践的応答をせよ。」

第五が“Be in love!”で「超越的意識(宗教性)を働かせ、愛の内に留まれ。」となるでしょうか。一括して、「注意を向け、洞察を得、根拠を探り、責任を担い、愛に生きよ。」とでも訳しておきましょうか。

実のところ、自分の人生を誠実に生きようとすれば、これらの命法を自然本性的に守ることになるのでしょうが、その人の知的な誠実さの内実は、このような根本姿勢が、我がものになっているか、身についているか、習い性となっているか、その按配と度合いによって測られるという面もありそうです。

◆補足、むしろ、蛇足

最後に、一言。各校なりに独自の卒業生プロフィールや教育モデルを模索しつつ、先生方も日夜腐心しておられる通り、キリスト教的な学校であることの塩気・塩味を保つことはとても大事です。本日の私の拙い話からも何ほどかお察しになったでしょうが、その塩気・塩味に学校の生き残りが懸かっているからばかりでなく、そもそも教育そのものの意義(意識の分化、自己超越、回心など)からして、そう言わざるを得ないわけです。

「全校ミサ」などもその一例でしょうか。私自身もかつてあちこち呼んでいただき、生徒たちと有意義なミサ聖祭をお祝いでき、嬉しゅうございましたが、「宗教行為を一律に強制するからダメ。」という“理屈”が独り歩きする場合があることも知っております。それも一理あるのですが、それで押し通してしまうと、「意識の分化」の不足や不全を自ら露呈していることになる、と私には思えてなりません。

そもそも「超越的」な「内的要求」が私たち人間に具わっていなければ、残りの「方法的」「批判的」「組織的」な「内的要求」もその推進力を失って、遅かれ早かれ萎えていくことでしょう。そもそも「超越」領野なくして、少なくともそれを目指さずしては、他の意味領野は追々相互の関連性を失って瓦解し、意識の分化の代わりにその分裂を招来することにもなり兼ねません。そこには、人格的統合や人格的成熟は毛頭期待し得ず、全人教育も絵空事に成り果ててしまい兼ねません。

ミサという場と時を、生徒たちの「超越的な内的要求」に触れつつ、生徒たちとともに「超越」領野の醍醐味を享受する時空として活かしたいものだ、と常々考えております。同じ切望を共有する仲間が増えるよう、これからも精進せねば、との思い、頻りです。

以 上

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